不定期連載『変換人型ゲシュタルト論』シリーズ。 記事一覧はこちら。
今回は、「カバラ」や「生命の樹」の話をしていく。
古代思想が元になっているそうしたものとヌーソロジーと絡めつつ・・・「自己」や「神」という概念についてを考えていこう。
「カバラ」や「生命の樹」について知っていくためには、ユダヤ教やユダヤ教神秘主義に関することからちゃんと説明していく必要があるため、その話から始めていく。
ユダヤ教とユダヤ教神秘主義(カバラ)
まず、「ユダヤ教」とは何か?
あまり説明はいらないかもしれないが・・・ユダヤ教はユダヤ人が信じる宗教であり、世界最古の一神教という説明が妥当なものである。
また、イエス・キリストがユダヤ人であったことが有名な話であり、ユダヤ教から派生してできたものがキリスト教である。
アダムやイブが出てくる有名なストーリーは「旧訳聖書」に書かれているものであり、これはユダヤ教の聖書になっている。
こうした聖書に基づく一神教として、「唯一なる神は恐れ多い存在であり、神を信じることが正しい」みたいな強い信仰心を基本としている宗教がユダヤ教である。
それから、ユダヤ人はユダヤ教を信じているわけだが・・・現代においては特定の血筋を持つ民族がユダヤ人というよりかは、むしろ、ユダヤ教を信じる人間がユダヤ人だと定義づけられているのが一般的になっている。
次に、「カバラ」とは何か?
これは「生命の樹(セフィロト)」が有名であるため、「生命の樹が出てくる神秘思想」みたいなイメージで認識している人が多いかもしれない。
カバラは以下のような図で表されたシステムを扱う秘教的な神秘思想という面も持っているものである。
しかし、その別称は「ユダヤ教神秘主義」であり、ユダヤ人のユダヤ人によるユダヤ人のための神秘主義として出来たものがカバラである。
元々は口伝で秘かに伝えられていたものなため、その正確な発祥時期を追うのは難しいが・・・だいたい13世紀ぐらいに有名なカバラの文献『ゾーハル(光輝の書)』が明らかになっていって、そこから発展していったものである。
カバラは「宗教」ではなく「神秘主義」なため、その内容はユダヤ教とは違う。
ユダヤ教の基本スタンスは「神は人間とは比べ物にならないぐらい超越的な存在である」という神に対する認識があり、それから「神を信じることが正しい」とする信仰心を持つことである。
しかし、時に「神とは何か?」を問いたがるユダヤ人もいる。そうした懐疑派のユダヤ人が作った思想がカバラなのか、カバラは「神とは何か?」を問うようなスタンスがあり、神の捉え方もユダヤ教とは異なる。
また、「カバラの神」はユダヤ教の神のように恐れ多いものではなく、ただ下僕のように信じれば良いものではない。哲学的な思索の中で見出すことができるものであるし、人間も神のような性質を持つことができるとされている所が、ユダヤ教と比べると革新的なものになっている。
「カバラの神」とは?
そんな「カバラの神」はどんなものなのか?
簡潔に説明すると「分かち合う精神を持った存在」である。
それはまるで「創造主の光」という言葉で表現できるものであり、エネルギーが満ち足りていて、それを分かち合うように与えることができる存在である。
それは「歓喜」「充実」「生命」のエネルギーを持っているものだと説明されていて、そうした力を分かち合うことができる分かち合いの精神を持ったものが、カバラにおける神の在り方である。
これに対するものは、人間の持っている「エゴ」であり、これは「自分だけ受け取りたい欲望」を持っているとされる。
カバラの神に反して、人間のエゴは「分かち合いの精神」に反するものを持っていて、加えて「苦痛」「苦悩」「死」の性質を持っているものである。
それらの苦悩と共に自分だけ受け取りたい欲望を持ってしまうのが、カバラにおける人間のエゴの在り方である。
したがって、そうした「エゴ」から「神」の性質に近づくことで「神のようになる」ことができる・・・というのが、大まかなカバラの教えである。
・・・みたいなことが、以下の『神のようになる』という書籍に書かれている。
こうしたカバラの神は「生命の樹」だと一番上の「ケテル」という場所に存在するものに該当する・・・とも解釈することができる。
以上は、膨大とも言えるカバラの教えの一つだが・・・とても重要な核心に該当する所である。
ここで軽く説明した内容は、先に紹介した『神のようになる』という本に書かれていることを踏襲している。そして、この本はただの本ではないと言っても過言ではない。
カバラの代表的な聖典である『ゾーハル(光輝の書)』を全23巻すべて英訳したマイケル・バーグが、その教えをさらに簡潔にまとめて書いたものがこの本であるため、その内容はカバラの核心にも非常に近い内容なわけである。
カバラとヌーソロジー
ヌーソロジーもカバラと同様に「ユダヤ教のような一神教に対抗するもの」として、比較して語られることがある。
また、ヌーソロジーでは、『次元観察子』と「生命の樹」の関係が考察されることがある。
例えば、「生命の樹」にあるそれぞれのセフィラ―に対して、以下のように『次元観察子』と『大系観察子』を対応させることができる。
このように、ヌーソロジーの概念を「生命の樹」への対応させるやり方には諸説あるが・・・
『次元観察子ψ5』を以下のような「生命の樹」の当てた場合、「ティファレト」と呼ばれる場所に位置するため、「ティファレト⇒ψ5」の当て方はとてもしっくり来る。
これが全体の真ん中にあることも重要と言って良いだろう。
ユングの提唱した「自己(Self)」と同様で、「全体の真ん中にある自己⇒ティファレト」のように位置づけることもできるわけである。
そして、カバラの「ティファレト」は、一番上の「ケテル」と呼ばれている究極的なものに繋がっている。
一説によると、「ティファレト」は「ケテル」にとって「子」にあたる存在とされ、その原初の霊的エネルギーの変圧器・配電器としても働く。
加えて、「ケテル」はユダヤ・カバラにおける「神」が存在する場所に該当するわけである。
そのため、この話で重要なのは・・・「ティファレト」に位置する「自己」は、「ケテル」に位置する「神」の力の片鱗をいくらか持っていることである。
したがって、「ティファレト」や「ψ5」に該当する「自己」は「分かち合う精神」のような創造的な力を持っている存在であり・・・
そうした創造する力を持った「超人」みたいなものだとも言えるだろう。
「人類が神を見る日」の意味とは?
さて、ヌーソロジーにおいて始めて出版された書籍の名前は『2013:人類が神を見る日』である。
ヌーソロジーを学ぶ目的には「神とは何か?」を明らかにすることもあった。
ここで言う「神」とは、ユダヤ・カバラにおける「カバラの神」のような存在なのだろうか?
いや、そうした既存の神ではないかもしれないが・・・
『次元観察子ψ5』によって分かる「神」に関して言うならば、その領域は「自他分離状態の最高位の存在」のように解釈できるため、いくらか個性の強い多神教的な神が近いのだろうか?
なんにせよ、『次元観察子ψ5』まで理解すれば、人間の内なる「自己」から見出した、神性の片鱗のようなものが分かるようになるだろう。
そして、そうした認識から「神」を知っていくことが大事なわけである。
このように、神のような存在に対する「認識」と「知識」が一体となっている「グノーシス(gnosis)」という言葉が古代からあった。
グノーシスを追求する立場の思想はグノーシス思想またはグノーシス主義と呼ばれる。
古代ギリシャで「神的知性」を意味する「ヌース(nous)」という言葉の語源はこの「グノーシス(gnosis)」にある。
ヘルメス主義に代表される西洋の様々な秘教的な思想・・・西洋魔術、占星術、錬金術、数秘術、カバラなどの立場の思想はどれもグノーシス思想に通じている所がある。
そして、ヌーソロジーもまた、全く新しいやり方を試みるグノーシス思想と言えるものなのである。
ヌーソロジーを学んでいくなら、古代からグノーシスを追求していた人達のように・・・
古代の神々へと思考を巡らせながらやっていくと良いと思う。
(続く)