完訳「日月神示」 〜地震の巻〜 第一帖
『日月神示 〜地震の巻〜 第一帖』の内容の抜粋。
「完訳 日月神示 上巻」より引用。
われわれの一切は生まれつつある。神も、宇宙も、森羅万象のことごとくが、常に生まれつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生まれ続けている。一定不変の神もなければ、宇宙もない。常に弥栄えつつ、限りなく生まれに生まれゆく。過去もなければ、現在もなく、未来もない。ただ存在するものが生まれに生まれつつある。生もなければ死もない。善も思わず真も考えず美も思わない。ただ自分自身のみの行為はない。ただ生まれゆき栄えゆくのみである。
善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことである。故に地上人が自分自身でなすことは、すべて永遠の生命なく、弥栄はあり得ない。何故ならば、地上人は地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからである。思うことは行為することである。
生前、生後、死後は一連の存在であって、そこには存在以外の何ものもないのである。存在は生命であり、生まれつつあるもの、そのものである。何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈打ち、生命し、存在し、弥栄する。また、すべてのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。
地上人は、生前に生き、生前に向かって進みゆく。また地上人は、地上に行き、地上に向かって進みゆく。また、地上人は、死後に行き、死後に向かって進みゆく。
しかし、そのすべては神の中での存在であるから、それ自体のものはない。善でもなく、悪でもなく、ただ生まれつつあるのみ。霊人に空間はない。それは、その内にある情動によって定まるが故である。また、その理によって一定せる方位もない。また時間もなくただ情動の変化があるのみである。
地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙のすべてを創られたもののごとく考えるが、創造されたものではない。創造されたものならば、永遠性はありえない。宇宙は、神の中に生み出され、神と共に成長し、さらに常に神と共に永遠に生まれつつある。その用は愛と現れ、真と見ゆるも。愛というものはなく、また、真なるものも存在しない。ただ大歓喜のみが脈打ち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのである。存在は千変万化する形において、絶えず弥栄する。それは
であり、
なるが故である。
は大歓喜の本体であり、
はその用である。それは、善でもなく悪でもない。真でもなく偽でもない。美でもなく醜でもない。また愛でもなく僧でもない。プラスでもなければマイナスでもない。しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の因と愛の因とが結合し、醜の因と僧の因とが結合して、二義的には現われ、働き、存在として、またはたらく。善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない。これらのすべては、これに生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。それは、神そのものが絶えず、鳴りに成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあるがためである。神が意思するということは、神が行為することである。そして、さらに神の行為は、弥栄であり、大歓喜である。神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、常に対応し、地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命する。神の歓喜を内的に受け入れる霊人の群は無数にあり、これを日の霊人と云う。神の歓喜を外的に受け入れる霊人の群も無数にあり、これを月の霊人と云う。月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、直接、地上人として生れ出ることは、極めてまれである。月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。故に、神に接し得るのであるが、全面的には解け入らない。地上人は、この月の霊人の性をそのまま受け継いでいる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜をそのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いをもたない。月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜として受け入れるが故に、これを味わわんとし。批判的になる。ために二義的の歓喜となる。故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。おのずから、別の世界を創り出すが故に、原則としては、互いに交通し得ないのである。
この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのである。地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。それは、別の世界に住んでいるためであって、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている。以上のごとくであるから、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである。
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