老子の教え抜粋


老子の教えの一部の抜粋。
「老子(全)―自在に生きる81章」より引用。 



  《第一章》
これが「道(タオ)」だと口にした所で、
それがトータルで絶対的な「道(タオ)」ではあり得ない。
何かある物を名付けてみたところで、
すべては変化の中のひとつの課程にすぎない。
いま仮に、宇宙の始まりを無と名付けるならば、
万物を生み出したものを、有と名付けても良いだろう。
それゆえ、わたしは、形なきものに妙なるものを感じ、
形あるものに、物事の発端とその展開を見ようと思うのである。
無と有はただ、その名を異にするだけで、同時に存在し、
不思議の不思議であり、
すべての妙なるものが現われる、
門であるということができるのである。


  《第十四章》
見れども見えず、
これを名付けて夷という。
聴いても聴こえず、
これを名付けて希という。
手でつかんでも手にできないもの、
これを名付けて微という。
これら夷と希と微は、
人間には煎じ詰めることができない
不思議なものなので、
物事や数の始めの一と
ひとくくりに名付けてもよいかもしれない。
それは
上の方が明るいわけでもなく、
下の方が暗いわけでもなく、
綿々として名付けがたく、
物体のない状態に還るのである。
形なき形、物なき形象、
あるようでもあり、ないようでもあり、
迎えに出ても、
その顔を目にすることはできず、
あとに従っても、
その後ろ姿を目にすることはできないのである。


  《第二十五章》
宇宙ができあがる前に
カオスがあった。
それはハッキリと耳に聴こえるものでも
目を凝らして見ても
肉眼で見えるものでもない。
何かによって生じたものではないので、
独立独歩の絶対性を持ち、しかも、
あらゆる物を含んでいるのである。
それは宇宙に満ち、
どのように巡っても過ちは一切ないのである。
これは宇宙や人類や生物を生み出した
根源的母性なのだが、
私はそれを名付けようがないので
「道(タオ」だと名付けたり、
大だとか名付けたりしているのである。
大は巡り、
巡ればどこまでも行き、
行き行きては返ってくるのである。
それゆえ「道(タオ)」が大であるのは当然としても、
宇宙も大であり人も大なのである。
宇宙空間の中には、
これらすべて含まれており、
我らが人類もそのひとつなのであり、
人類は地から恵みをいただき、
地は天から恵みをいいただき、
宇宙は「道(タオ)」から恵みをいただき、
「道(タオ)」は自我意識がないので、
自ずから然るものに法るのである。


  《第三十二章》
「道(タオ)」は永遠に名付けることができないが、
あえて素朴と名付けてもいいだろう。
どんな権力者も
素朴を組み敷くことはできない。
権力者が素朴であれば、
万民は自然のうちに自適するのである。
天と地が相和して
恵みの雨を降らせるように、
人々を無理にがんじがらめにしなくとも
人々は自律調和するのである。

すでに造化が始まり、
さまざまな存在の名があるが、
それを必要以上に強調してはならない。
強調しない知恵があれば、
人類に危機は存在しないのである。

「道(タオ)」が世界に遍く存在するありさまは、
まさに谷川や小川が
自然のうちに大河に入り、
大河が何の自我もなく
大海に注ぐさまに喩えることができるのである。


  《第四十章》
対立面へとたえず
循環運行往復しつづける現象が
「道(タオ)」の働きであり、
それは誰も止めることのできない
しなやかさそのものである。
宇宙と万物霊は
有から生じ、
有は無から生じたものである。


  《第四十二章》
「道(タオ)」がその動きを始めた時、
陰と陽のふたつの気が生じ、
そのふたつの気が交わり合って
生命を生み出し、
その生命の活動から、
生きとし生けるものすべてが
現れたのである。
万物はすべて陰陽の二気を含み、
それらすべてが中和したものにほかならない。
ひるがえって
人のもっとも嫌がるものは、
孤独、みなし子、不作など、
陰と陽が不調和な状態であるが、
しかし本物の王は自ら謙下して、
そう自称するのである。
なぜなら安定していた調和も、
時と場合によって不調和に向かい、
不調和であっても時と場合によって、
調和に向かうことも、
この世ではよく見られる現象だからである。
このことは昔からたびたび言い古されており、
ただ権力や利害関係だけを人生と考えて行動し、
陰陽の調和を無視した者は、
安らかな死を迎えることはできないのである。
私は調和こそ私の教えの中の、
もっとも重要なものと見なしているのである。


  《第五十二章》
この世界には始まりがあり、
それを宇宙の母と言ってもいいだろう。
その母を知れば、
その子がどうあるべきかがわかり、
その子がどのような状態にあるかによって、
宇宙の母にどのようにして返るかが
わかるのである。
これらのことがわかれば
肉体が消え去るまで、
危害が及ぶことはないのである。

五感の穴をふさぎ、
雑念の入ってくる門を閉ざせば、
一生身心とも健康だろう。
反対に外の世界にばかりかかわり、
外の世界のために奔走しつづければ、
エネルギーが漏れつづけ、
自分の内心の静寂に気づくことなく
一生を台なしにしてしまうだろう。
微小な事柄に気づくことを
明と名付け、
柔を守ることを
強と名付けよう。

こうなれば五感はますます冴え、
根元の光明に立ち帰り、
身心に災いを遺すことはあり得ないのである。
これを永遠の静寂と名付けるのである。




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