・古来より、秘教というものがあり、本当の真理は、一般人や、修行の足らない者には隠されていた。
・これは、組織を守るため、金銭を得るために行なわれたということも、歴史上、実際多くあったと思われることである。
・しかし、秘教は、実際に、一般人や、未熟な者が学ぶことは、危険という側面も、真実として持っている。
それは、一般人の理解に余るものでもあり、扱うとなると、精神面にて不可能なことも多く、中には、悪影響を及ぼす場合もある。
・一般人が、下手に理解しようとすること、または、下手に扱おうとしようとすると、それが発生する。
・だがしかし、危険なポイントを押さえておけば、学んでも許される所でもある。
・そこで、危険なポイントというのを、以下に述べておく。
●究極的過ぎる言葉に囚われない
●語弊による間違いというのがいくらかある
●自分のレベルを踏まえて、高次元領域は注意する
●自我に近い位置を忘れない
●自我の「シャドウ」に気をつける
●近い次元から手堅く取り組むのが良い
〜究極的過ぎる言葉に囚われない〜
・まず、それらには、「究極的過ぎる文章」というのが書いてある。それに、振り回されないように注意が必要である。
・究極的な文章は、下手に「理解した」気になることには注意が必要である。深い洞察の末に、何か閃いた時に、それを理解するようにする。また、一旦理解したとしても、本当に理解しているのか、再度、疑う必要性というのも出てくる。
・どこまで「理解した」と言って良いのかは、それぞれの個人のレベルによる。師のいない状態で、それを判断するには、それを自分で判断する必要がある。
・特に「神」という言葉には、特別気をつける必要がる。
〜語弊による間違いというのがいくらかある〜
・神々の真理を書いた文章というのは、神様の立場としては言っていることは正しいが、人間の場合は、簡単に解釈すると間違えることもある。対象の言葉を「間違っていることもある文章」として認識することが大事である。
・しかし、道理としては正しいことが書いてあるものである。この中で正しいもの判断して認識するには、深い洞察力がいる。
〜自分のレベルを踏まえて、高次元領域は注意する〜
・絶えず、自分のレベルを認識することが大事である。
・自分より高いレベルのものに触れて、認識しきれなかった場合、扱いきれなかった場合に、問題というのが生じる。
・師がいない状態で、秘教を習得するには、この点が重要である。
〜自我に近い位置を忘れない〜
・あくまで、普通の人間は自我の領域に活動しており、自分も基本はその領域にいるものである。
・自我の領域と秘教で教えられる神々の領域は、深い隔絶があるものであり、この点について注意するべきである。
・まず、自分自身が、自我との付き合いの中から、秘教の教えを取り入れていく必要があること。自分は普段は自我の領域にいるということが重要である。
・また、周囲の人間は自我の領域にいるということ。周囲の人間と付き合い、それについて考えることが必須であるので、そうした中で、秘教の教えと自我の性質との「落とし所」を見出していく必要がある。
〜自我の「シャドウ」に気をつける〜
・自我の領域が大事であると述べたが、この中で大事なのは、自我にとっての「シャドウ」である。
・「シャドウ」とは、自我にとって、「普段は目を背けている領域」のものである。
・秘境の教えを受けるにしても、高次元の道へと参入するにしても、人間であるからには、結局、「シャドウ」と向き合うことが、大事となってくる。
・「シャドウ」と向き合い、その中に、本当の自己を見出す作業というのが、自我に近い領域においての神秘修行として、必要となってくる。
〜近い次元から手堅く取り組むのが良い〜
・秘教の教えを、正しく受けて神秘へと参入している者は、皆、まずは下次元の演習を繰り返し、クリアした者だけが高次元の道へと進んだ。こうしたものは、先に下次元の認識から入るものである。
・ただ、高い次元の波動に先に触れるという手段もあり、これによって、高次元への導きが強くなるので、それを利用するという手もある。
・しかし、基本は、基礎である足下から固めていく方が無難であり、そうしていった方が強固な自己が手に入るものである。
・一般的には、真理はすぐに手に入るようなものではないので、地道な姿勢が一番である。
・しかし、「気付けばクリア」という側面もまたあり、それが早い者にとっては、早く手に入る。「気付くこと」、そして、「扱えること」が、すぐに出来る者なら、それは割とすぐにできる。