古典物理学から、量子物理学の時代へ

 これは、今に始まったことではありませんが、「科学は人を幸せにしたのか?」という問題は、昔から重要なテーマになっているように思います。
 科学は、ニュートンが築き上げた「古典物理学」と呼ばれるものをベースにして発展していきました。3次元空間、もとい4次元時空のゲシュタルトをベースにした考え方で、あらゆることを解明し、それのおかげで人間の世界は便利になり、面白いものも発明することができたわけですが、今、現代において起こっている問題は、科学の力で解決できるのかというと、そこで大きな壁が生じることになります。
 ヨーロッパでは、19世紀頃に、近代理性と呼ばれるものの発達と、科学技術の発達を至上とする思想がピークに達していました。しかし、その結果、当時のヨーロッパで起きることとなったのが、第一次世界大戦であったり、第二次世界大戦であったりし、発達した科学は近代兵器という形で使われることとなり、大きな惨事を引き起こすことになりました。こうした科学を作り出す近代理性に対する疑問視というのは、その当時のヨーロッパの頃からずっとテーマとなっていました。

 そして、20世紀になり、物質を構成する大元となる「素粒子」が、我々が思っていたような単純な粒でないということが分かってきて、旧来の物理学では到底説明できないものだということが明らかになっていき、「量子論」「量子力学」が誕生してくるようになりました。
 「量子論」で言われていることとしては、「素粒子」は、「粒としてもあり得るし、波としてもあり得る」というように言われています。それは「粒」のような性質として動くこともあれば、「波」のような性質として動くこともあります。
 また、有名なのは「不確定性原理」というやつです。普通の物理法則であれば、「位置」「運動量」というものは、「x + 1 = y」というような方程式のように表して、「x」の値が分かることによって「y」の値も必ず分かるような性質を持ちますが、量子力学の世界では、「位置」の値か「運動量」の値のどちらかが分かっても、もう片方の値は確率的に変動する値としか表すことができないというようになっています。
 「シュレディンガーの猫」の話も有名です。これは、量子力学で言われている「重ね合わせの原理」の説明に使われていますが、「シュレディンガーの猫」における箱の中の猫の生死の在り様と同様に、素粒子の状態も、「状態がA」であるか「状態がB」であるかは、観測することで決定するけれど、観測されるまでは、「AでありBでもある」という「重ね合わせ」という状態で存在していると言われています。
 具体的には、「電子」といったものも素粒子の一種であるので、そうした現象が起きています。「電子」は、我々が見ていない時は「波」のような状態になっているのかもしれず、我々が観測した時に「粒」としての振る舞いをするというふうにも言われています。こうしたことが実際に観測されているので、物理学者の間でも事実として認識されているというわけです。

 かの有名な物理学者、アインシュタインは、量子論のこうした性質を認めたがらず、量子論は未完成なものであり、何か未知の変数によってそうした物事が決まっていると主張し、量子論の見方を支持する物理学者ボーアと対立したのも有名な話です。

 量子論の骨子が出来上がっていった1930年頃は、調度、「冥王星」が発見された時期でもあります。同時に、20世紀は、かの有名な「相対性理論」も登場し、空間と時間は光速度という概念によって相関性を持つことも証明されます。ここで、物理学は、物質を単純な物質とみなさない、時空を単純な時空とみなさないような、大きな変容を遂げることとなる…というストーリーになっています。
 それ以前の物理学は「古典物理学」と呼ばれるようになり、量子論と相対性理論の登場以降の物理学は「現代物理学」と呼ばれるようになります。従って、現代において「物理学」と言った場合は、量子論や相対性理論などを含んだもののことを指します。

 古典的な物理学による科学が人間の衣食住を豊かにし、グローバリゼーションによって合理化し、IT文明を作り上げてネットワーク通信が可能となったのは良いと思います。しかし、物理学において大きな変容があったように、科学に対しても新たな視点が必要なのではないか?と思います。