反復のコンプレックス

 さて、ここまで、数式などを使いながら、意識の構造を説明してきましたが、やはり、実際問題は、ここで起きる変化は、意識の変革であるので、なかなかある意味で難しい問題となります。

 図にある、『ψ3』と『ψ4』を「定着」させ、さらに、『等化』させるには、双方を「行ったり来たり」する必要があります。それは即ち、「反復」です。
 おおよその説明ですと、ψ3は、自分自身の中の「非常識的価値観」、ψ4は「常識的価値観」というものと関わっています。それを「反復」するということは、実際に、その二つ両方の世界に、飛び込んでいくということです。
 例えば、ψ3を発見する為の作業として、「基本反転」と、それから、「4次元目の軸」の発見というものがありますが、こうしたものを実践した時、新たなる世界である『人間の外面』と、新たなる自分の種子である『主体』が発見できるわけです。ただ、それが行なわれた時、そこから何が飛び出してくるかは、分かりません。

 人間は、通常時、「普段慣れ親しんでいる世間的なもの」と、親しんで生きています。それが、「人間ゲシュタルト」とも呼ばれる「物質空間」であり、「空間常識」にもあたるわけです。そして、この活動は、「そういうものとはほぼ正反対の世界」に飛び込んで行くことを指します。
 よって、そこから何が飛び出してくるかは分からず、もしかしたら、自分が普段、目を背けているものが飛び出してくるかもしれません。あるいは、ずっと会いたかった友人のようなものが飛び出してくるかもしれません。
 それは、心理学者ユングの言った「シャドウ」のようなものかもしれませんし、「アニマ」や「アニムス」のようなものかもしれません。
 あるいは、そうした意識変革の作業によって、新たに芽生えた意識が、「通常とは違った頭の使い方」を要求してきて、それに慣らさなければいけないかもしれません。
 それは、恐らく、個人によって、それぞれ違うものです。

 『人間の内面』は昼、『人間の外面』は夜に対応していると言われていますが、それは、いくらか「闇」を連想するようなものです。いわば、人間の「無意識の闇」と言うことができます。
 そして、『人間の外面』に飛び込む際は、この「闇」と向き合って、自分自身を見つめなければいけないというのが、『顕在化』の第一条件となります。
 そして、『顕在化』の第二条件としては、さらにそこから、「光」にあたる世界を見つめるということです。『人間の外面』において、自分と見つめて、そして、ただ自分とだけ見つめているだけでは駄目で、そこからさらに、世間的な所とも、また向き合わなければいけません。また、他者のたくさんいる、荒波に揉まれなければいけない、といった所です。
 ヌーソロジーにおける顕在化には、この両方の作用が、必須となるわけです。

 よく、「ヌーソロジーは難しい」と言われますが、その難しさの一つとして、こうした精神変容の為の、実践的な苦労が、実は必要となってくるという問題があります。
 それは、自分の中の「常識」と「非常識」を行き来するため、「葛藤」が生ずるような出来事になります。ヌーソロジーを志す人は、こうした、「常識」と「非常識」とを行き来することに、慣れている必要があります。
 逆に言えば、そうしたことが割と既にクリアしているような人は、割とすぐにヌーソロジーの観察子を、理解できる素養があるんじゃないかと思います。
 これは、ψ3とψ4を等化した、『ψ5』の視点においては、特に大きな問題とはなりません。ψ3とψ4との反復時期は、いくらかの苦労を伴うかもしれませんが、その先には、自分が目指している光のようなものがあります。「反転した空間」と『人間の外面』の先にある、クリアで光に満ちたビジョンというのは、およそ、ψ5から来ています。

 『人間の外面』と『人間の内面』、「非常識」と「常識」、それらの「反復」という苦労までして物事を身につけた先で、今度は、『次元観察子ψ5』にあたる『自己』の発見に至ることができます。
 これこそが、自分自身が本当に求めていた、『自己』であり、こうして苦労して手に入れたものこそが、より確実に、「自分が長年求めていたもの」にあたります。
 このように、「ψ3とψ4の対化」において、単純に数式で説明される中にも、実際問題は、背反するものを反復し、複合した意識を自分の中に取り入れなければいけないような、「反復のコンプレックス」に立ち向かわなければいけない問題になります。観察子の理解は、こうした問題であるということも押さえて、じっくりと取り組んでいく必要があると思います。
 


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