ユダヤ教・キリスト教で伝えられている「聖書」や「福音」も、元々はこうした神聖な力を感じるための物であり、そうしたヒーリングの力を持っています。
こうしたものの中で、やはり非常にベターな力を持っているのが、あの「イエス・キリスト」を描いた「新訳聖書」であると思います。
聖書や神話というものは、なるべく権力者の垢がついてないものが望ましいです。キリスト教の新訳聖書は、そうした垢がついているかもしれませんが、尚も効果は強く、妥当なものではあります。
「新訳聖書」の中で、キリストの態度として書かれている、利他的な思考や自己犠牲なども一応大事ではあり、そもそも、人間が「高次の自己」に気付くために、本来必要な知恵が詰まっているものが新訳聖書なのです。
しかし、こうした「聖書」というものは、「福音」としての「言葉」が重要視されてしまい、福音主義の欠点もあるため、合う人と合わない人とがいますが、合う人は使っても構わないものだと思います。
こうした中で、極力避けるべき行為というのは、「人物崇拝」となります。本当に信じるべきは、「イエス・キリスト」という人物ではなく、「自分自身の中のキリスト意識」なのです。