ここで言っている「キリスト教」とは、主に「グノーシス主義」に近いキリスト教のことを言います。
グノーシス主義には、狭義の意味と広義の意味があります。狭義の意味としては、キリスト教の中にある一派のことを言い、広義の意味は「グノーシス」の考え方を持つ思想のことを言います。
そもそも、「イエス・キリスト」は元々、「グノーシス」の考え方を持つ、グノーシス主義の者であったと言われています。そして、元々のその教えは、当時の帝国である「ローマ」から弾圧を受けていたし、イエス自身も弾圧されていました。
しかし、イエスの死語、しばらく経過した後に、ローマがキリスト教を国教とすることになり、キリスト教はローマによって吸収され、ローマがキリスト教を牛耳ることとなりました。そうしてできたのが「ローマ・カトリック」のキリスト教であり、これが今日のキリスト教のイメージとして定着しています。
ローマ・カトリックにおけるキリスト教では、「イエス・キリスト」を、「救世主」として仕立て上げ、救世主イエスによって救われ、天国に行くために、あくまで、教会こそが必要な機関だと定めていました。
しかし、グノーシス主義のキリスト教は、それはなくとも、自身の中のキリスト意識を認識することで、キリストと一体となり、天上の世界に行けるということを教義としていました。(ちなみに、新約聖書の中にも、イエスは「神殿を壊してみよ。その気になれば3日で立て直すことができる」と言ったという、神殿は自身の精神ですぐ作ることができると解釈できる話があります。)
そのため、思想が根本的に異なるグノーシス主義のキリスト教は、昔、絶大な権力を持っていたローマ・カトリックのキリスト教から弾圧を受けていました。
しかし、純粋に、高次の『自己』である「キリスト意識」を探求するキリスト教は、グノーシス主義のキリスト教であり、ヌーソロジーと親和性が高いキリスト教も、グノーシス主義のものとなります。
ちなみに、グノーシス主義では、新訳聖書に出てくる裏切り者の「ユダ」は、イエス・キリストの影の協力者であり、敢えて裏切るような演出をし、神話を作り上げたということで、英雄の扱いをうけています。
最近では、禁忌から粗末な扱いを受けてきたその「ユダの副音書」が発見され、復刻し、書物として一般に出るようになりました(2006年頃)。これは、文章が欠落してる箇所が多いものですが、なかなか強い存在感を持っています。