「自己と他者」という対

 次に、「自己と他者」という対についてです。

 「この世の絶対的な真理とは何か?」を追及して、ありとあらゆるものを疑った場合、「自己がいて、他者がいる」というのは、一種の絶対的な真理となるかもしれません。
 ヌーソロジーでもこれは根本的な問題として重要視するし、「ヌーソロジーは宇宙論というより、むしろ自他論だ。」とまで言われています。

 実は、人間というのは「これが自分である。」という意識を持っているようで、「自分」というものはどこまで確かな「自己」と言って良いか曖昧だったりします。

 人間は幼児のうちは純粋でいたとしても、そこから両親や周りの人や環境に影響されて生きていくものです。
 それによって「他人から影響された思想」が「自分」だと思って生活していることもあります。
 「自分の欲望」は、実は「他者の欲望」である ことがよくあるのが人間という生き物であるし、それから、生きていくために「他者になりきる」こともよくあります。

 そこですっかり他者になりきってしまうことを「他者化」と言います。

 この「他者化」は、生きていくための手段として大事ではあるのですが・・・
 「自分とは何か?」を追求することも自分を見失わないために大事であるし、それを追求することは一種の哲学にも通じています。

 つまり、人間は「他者化して生きようとする」と「自己の意志決定の元で生きようとする」の二つの方向性を持っているわけです。
 ヌーソロジーでは、どちらかというと自己先手で生きていく方向性が望ましいとします。

 また、「自己と他者」の対の関係は、「神」という存在との関係でも大事になります。
 人間の文明で「神」が出てくるものといったら「宗教」ですが、宗教もまた、非常に「他者化」しやすいものです。

 宗教によって人間が「他者化」している時、何が起きているのか?
 それは「他者の神」を信仰し、それとの同一を望んでいる時です。
 つまり、神は自分の外側にあり、その神をただ信じるという思想から、俗物的な宗教が生まれます。

 「神」という概念は非常に「他者のもの」になりやすいです。
 人間は言葉を扱う生き物なので、「神」という言葉を使っているうちに、どうしてもそうなってしまう傾向があります。それは人間が言葉を扱う時点で持ってしまった性質のようなものです。
 人間にとって宗教とは紀元前の頃からずっとあったものですが、そうなってしまうのが昔からある運命みたいなものでしょう。

 そうした宗教とは別に、「自己の中にある神」というのが存在するとして、「自己を認識する」ことから「内なる神」を認識し、それを信じるという思想もあります。
 「神秘主義」「神秘思想」 と呼ばれるものは、どちらかというとそちら側に該当します。
 つまり、神は自分の内側にあり、「内なる神」を認識するという思想です。

 西洋には「グノーシス」 と呼ばれる思想があり、それは「自己の中にある神性を認識する」ことに向かおうとするものです。
 キリスト教の影でそういう思想を支持する者達がいます。

 そして、ヌーソロジーもまた「グノーシス」に近い思想であり、「自己先手で生きること」を探っていくものです。