フッサールの「現象学」

 ヌーソロジーで重要視されている哲学者といえば、「現象学」というのを提唱した、エトムント・フッサールという人がいます。
 「現象学」という言葉そのものは、フッサール以外にも使っていた哲学者がいるという言葉ですが、近代において、「現象学」というものをより精密に追求し、後世に多大な影響を与えた人として名前が挙がるのが、フッサールです。
 フッサールは、数学者から哲学者へと転移した人であり、実にヌーソロジーと親和性の高いことを言っています。

 フッサールは、どんなことを言った人なのか?
 フッサールも、ヌーソロジーがここで述べているように、「客観的な世界」があるから、「世界がある」という捉え方を疑問視し、違う視点から観ることを重要視しました。
 そしてそれが、彼が当時問題視していた、「学問の世界の閉塞状況」を打ち破る手段に成り得ると、思索の末に結論づけていました。

 フッサールは、「客観的な世界」があるから「世界がある」という捉え方を脱する為に、従来の空間認識をする思考は、「エポケー(判断の保留)」をするべきだと言いました。
 そして、そうした中で「超越論的主観性」というのを用いて、目の前の対象を見るということを言いました。
 「超越論的主観性」とは、ヌーソロジー用語で説明すると、まさしく、「従来の思考様式を持つ『人間の内面』から、『人間の外面』の視点へと、意識を向けるための主観性」のことを言っています。

 そして、そうして目の前のモノを光景として「知覚」する中で、人間は今度はそれをどうやって、「モノがある」という「従来の認識」へと持っていくようにするのか?
 また、「モノを見る」時にはどういった仕組みで、「モノがある」と認識するように至るのか?
 時間や空間との関連性はどうなっているのか?
 フッサールは、そのようなことをまとめあげていき、自らの理論を「現象学」と呼んで、作り上げていきました。

 フッサールを師として哲学を学び、「現象学」をヒントに、また新たな哲学を発展させたのがハイデガーという人にあたります。
 フッサールは、かなり寡黙で理論的な性格だったのに対し、ハイデガーは、カトリック的な神学の世界から哲学に専攻に変えた人で、スピーチの仕方が特徴的な、カリスマ性のある性格だったと言われています。
 ハイデガーは、後に、「存在とは何か?」ということをメインのテーマにした著書である「存在と時間」という著書を書くことになりますが、ベースには「客観的な世界」をそのまま「存在」として捉えないという、現象学の考え方がある様子です。
 ヌーソロジーで出てくる「存在」と「存在者」という言葉は、この辺りに出てくる言葉で、「客観的な世界」の中で、単に「モノがある」として捉えたのが「存在者」、そこから、抜け出した時に見えてくる、その本性が「存在」にあたります。

 つまり、ψ3からの世界は、「客観性」が作り出す意識から抜け、「主観性」から始まる世界であるので、この辺については、哲学の世界では、フッサールの提唱した「現象学」のあたりが絡んでいるということです。