悟りの世界は、そこに入るためには数々の道があるけれど、その中で最も効果的で肝心なものはなにかといえば、「止」「観」の二法にまさるものはない。
 何故かといえば、「止」は、迷いへの囚われをおさえつける第一歩であり、「観」は、迷いそのものも断ちきる力であるからである。また、「止」は、人の心の認識を養うための助けになり、「観」は、ものごとの正しい理解を起こすための妙術である。
 それから、「止」は、『禅定(ぜんじょう)』を得るための優れた原因となり、「観」は、正しい『智慧(ちえ)』を発するよりどころとなるからである。
 もし、『禅定』と『智慧』の二法をなしとげれば、自分を利益にもなり、他の人々のためにもなる生活態度がおのずからその人の身にそなわって来ることになる。
 だから『法華経』に・・・


仏は自ら大衆を救う大乗の道を行き、
その教えである仏法は、
『禅定』と『智慧』でかざられており、
その力をもって人々を救い、悟りの道へ導いたのである。


・・・というようなことが書いてある。
 これによって知られるだろうが、この二法は、車の二つの輪、鳥の二つの翼のような関係で、もしどちらかに偏って習得すると、邪見か邪倒に堕ちることになる。
 
 『禅定』の力が大きい『声聞(しょうもん)』と呼ばれる人たちは、『仏性』を見ることができない。
 『智慧』の力が大きい『菩薩(ぼさつ)』は、『十住(じゅうじゅう)』という位にあり、『仏性』を見ることはできるのであるが、しかし、これを明らかにみているわけではない。
 諸仏如来は、『禅定』と『智慧』の力が等しい、それ故に、明瞭に『仏性』を見ることができるのである。

 『止観』は悟りの成果に至るための門であり、同時に、われわれの悟りのための修行の優れた通路でもあり、同時に、あらゆる徳が円満する帰結点でもあり、じつは、無情の悟りの正体そのものなのである。
 もし、このような事情が分かれば、『止観』という法門は決して浅いものではないことになる。初めて仏教を学ぼうとする人たちをこれに近づけ、その人々を集め合わせて、この道に進めたいと思う。
 ここでは、広くの仏教の奥深く微妙な点を論ずることにはしない。今は、これを十章に分けて、初心者が正しい道に到達するための段取り、悟りに至るための等級を示しておく。
 もし、その心がここに説くところの趣旨にかなっているなら、一瞬の間においてさえも、はかりがたい『智慧』と、尊い理解を得ることになるだろう。けれど、もし、文字や文章にのみ心をひかれて、心情がここに説くところに背いていれば、むなしく年月を重ねるのみで、いつまでたってもついに悟りに至ることはできないだろう。
 ここで、以下の十章に分けて『止観』の修習の仕方を説明する。



一. 「縁」を整えよ

二. 欲を責めよ

三. 「蓋(がい)」を捨てよ

四. 調和をはかれ

五. 準備の行

六. 正しく修行せよ

七. 「善根」が発す

八. 「魔事」を覚知せよ

九. 「病患」を直せ

十. 悟りの結果


  これらの十ヶ条は、初めて座禅というものを学んでみようとするときの大事な要点である。
 もし、その意味するところを取ってこれを修行すれば、これをもって必ず心が安らぎ、難をまぬがれ、『禅定』を発し、真実の『智慧』を生じて、けがれなき悟りを得ることができるであろう。