一. 準備をととのえよ

 「止観」を修習するときに、どのような準備が必要であろうか?
 それは、次の五ヶ条である。
 第一には、自分の身も心も清浄にすることへの努力。
 第二には、衣類と食料の用意。
 第三には、静かな場所を選んで落ち着くこと。
 第四には、数々の雑務から解放されるように努力すること。
 第五には、よき指導者を選ぶことである。
 この生活態度がもとになってこそ、あらゆる人に『禅定』の力と、苦しみを滅する『智慧』の力が生まれる。だから、仏の道を選ぶものは、清浄な生活態度を守らなければいけない。

第一、自分の身も心も清浄にすることへの努力
 まず、第一にある清浄な生活態度とはどのようなものであるか?
 これには三種類の人々がいる。
 一には、重い罪を犯したことがなく、そこから出家して仏の洗礼を受け、仏の戒律を忠実に守った者である。このような人が『止観』を修習すれば、当然、必ず仏法をさとることができる。
 二には、仏の洗礼を受けた中で、その後の生活で、重い戒律こそ犯さなかったけれど、数々の軽い戒律については破ったりしたことが多かった人である。そうした人は、定められた正しい方法でよく懺悔すれば、また悟りの道に進むことができる。
 三には、仏の洗礼を受けた中で、堅い決意でそれを守り通すことができず、軽い戒律においても重い戒律においても破ったり犯したりした人である。実は、こうした人が大多数である。『小乗仏教』では、殺生、盗みといった重罪を犯してしまった者には懺悔を許す方法がない。しかし、『大乗仏教』によれば、それらをも懺悔し、その罪を取り除くことができるとする。

 仏も、仏法を学ぶ人の中には二種がいることを言っている。
 一つは、生まれながらの性質で数々の悪いことをしなかった人
 もう一つは、悪いことをしてしまったけれども、よく懺悔することができる人
 懺悔することによって身も心も清浄にしようと願えば、ぜひともつぎの十ヶ条にそなえて努力しなければならない。
 その十ヶ条とは、一に明らかに因果の理法を信ずること、二に強い恐れの念を生ずること、三に恥じらいの心を起こすこと、四に罪を消滅する方法を求め学ぶこと、五にすでに犯してしまった罪をつつみかくすことなく告白すること、六にその頃からの心の持ち方をよく反省してそれを断ち切ること、七に仏法を護るという決心を起こすこと、八に世のいっさいの人々をすくおうとする大きな願いを起こすこと、九には常に十方の仏を念ずること、しかも十には仏の教えにしたがって、罪というものも本来は『空』であると観ずることである。
 そうした重罪が滅したという証拠は、どうしたら得られるのか。
 われわれがこのように誠心誠意で懺悔の行を続けていると、やがて身も心も軽やかに、力が沸いてくることを自覚する時がある。あるいは、好ましい夢を見ることがある。あるいは様々な種類の霊現象や不思議なありさまを見ることがある。あるいは善い心が開発してくることに自分で気付いたり、あるいは座禅をしている時に自分の体が雲か影のように思われるような気持ちになることがあったりする。これらによってだんだんに禅の境地が味わわれ、あるいはまた力強く悟りの心が生じ、ものの道理がよくわかるようになり、経典に見る仏の教えの意義や趣旨を理解することができ、これらがあいまって仏法を喜ぶ心が生じ、心の中から心配や懺悔の念が消えてくる。

第二、衣類と食料の用意
 第二に、衣と食とを用意しておけということである。衣に関しては、適度に質素であることが望ましい。重要な所としては、量を知り、足ることを知らなければならない。もし集めすぎて自分の身のまわりに積み重ねておくようなことになれば、心がみだされ、修道の妨げを生ずる。
 食に関しては、仏の作法にのっとって、人々から受け取った食物をいただくこと。衣と食を揃えることで、これを仏道修行のための準備とする。

第三、静かな場所を選んで落ち着くこと
 第三に、静かな場所に閉居せよというが、様々な仕事を止め、うるささが無いことに落ち着く必要がある。
 人の気配が無い所であり、人が住む村落を離れており、世間の在家の人々が住む所からは隔離された清浄な道場であることが望ましい。

第四、様々な雑務から解放されるように努力する
 次に、様々な雑務を休めというのは、次の4種の意味がある。
 一には、生活のための雑務を休むこと。
 二には、人事の雑務を休むこと。
 三には、工芸や技術の雑務を休むこと。
 四には、学問の雑務を休むこと。
 もし雑務が多ければ、その分だけ瞑想を止めておかなければならず、そのあとも心が乱れておさめにくくなるからである。
 
第五、よき指導者を選ぶこと
 第五に、よき人・善知識に近づけといったが、善知識には次のような三種がある。
 一には、生活面からよく修行者を保護し、修行者には迷惑をかけないようにと努力してくれる人々のことである。
 二には、同行の者で、ともによく一つの道を修習し、たがいにはげまし合い、心を乱しさわがすことのない人である。
 三には、教授の者で、内的外的な方法、『禅定』の法門をもって教えたり示したり利したり喜ばせたりしてくれる人のことである。

以上で、簡略ながら、五種の準備をそろえることを説明した。