「欲を責めよ」というのは、正確には「欲を呵責(かしゃく)せよ」ということである。
欲を「呵責(かしゃく)する」というのは、五種類の欲望を自分の中で責め立てて叱り、これを改めるということである。
座禅をして止観を修習しようと思ったら、必ずこれを呵責しなければならない。
その五欲とは、「色・声・香・味・触」
についての五種類の欲望で、これらは常に一切の凡用な執着の心を生じさせる。しかし、もしあらかじめ深くその過ちや、それから起こる罪のことを知っていれば、それに親しみ近づかないことになる。これを欲を「呵責する」というのである。
第一に色欲を呵責するとは、男性や女性の容姿、顔つきが美しく立派にととのっていること。それから、世間の宝物、青・黄・赤・白・紅・紫・緑などの様々な美しい微妙な色つやがある。愚かな人はそれを見て、愛欲の念を生じ、それがもとで様々な悪い行動をすることがあるからである。
第二に声への欲を呵責するとは、様々な楽器が調和した音、男性および女性の歌声で美しいものを聴いた時、凡庸な者はこれを聴いて愛着を生じ、それが元で悪い行為を起こすことがある。
第三に香についての欲を呵責するとは、男女の異性の身の体臭、世間の飲食物のうまそうな匂いや香り、そのほかすべての香りである。愚かな人は香りの本質がわからず、愛着の念が生じてまよいの門を開いてしまう。このように香にとらわれると、様々な迷いの心の眠っていたものまで起こさせてしまう。
第四に味欲を呵責するとは、苦、酸、甘、塩辛いといった味覚の調和の変化による、数々の飲食物やごちそうといった、美味なものが、よく人々に愛着の念を生じさせる。
第五に触欲を呵責するとは、男性や女性の体や手足のやわらかさ、寒い時の体の暖かさ、暑いときの体の涼しさ、その他の数々の心地よい感触などで、修行の障害となる罪を起こすことになる。
ここで問う。どのように五欲を呵責するのか?
欲望を呵責する方法は、経典のなかに広く説かれているから、それらを参照すると良い。
例えば、人々は常に五欲のために悩まされているのに、しかも、それを追い求めてやめない。
五欲とは、火に薪を増せば、その炎がいよいよ盛んになるようなものである。
五欲には利益がないもので、犬が枯れた骨を噛むようなものである。
五欲で争いが増すことは、鳥が肉をい争い競うようなものである。
五欲が人を焼くことは、風に逆らってたいまつを手に持っているようなものである。
五欲が人を害することは、毒蛇を踏むようなものである。
これらの五欲は、畜生と同じことである。多くの人々が常にこの五欲のために使われているのを、名付けて五欲の奴隷とする。この欲望にかかわっていると、地獄や餓鬼、畜生道に落ちる、と仏は説いている。
自分がいま、禅を修得しようとするときに、これは大きな妨げとなる。まさに急いでこれを遠ざけなければならない。