十. 証果

 我々がもし、このように止観を修習するとき、すべての物事は心から生じたものであり、因縁の和合から生じたもの、虚仮(こけ)なものであって、実体のあるものではないから『空』であると認識すれば、すべてが『空』であるということを既に知っているのであるから、すべてのものごとの名称による姿形を見ることはない。これがすなわち『体真の止』である。
 その時に、上には求むべき仏果があることを見ず、下に導くべき衆生も見ない。これを『従仮入空(じゅうげにっくう)』の観と名付けたり、『一切智』などと名付けたりする。
 しかし、この「観」にとどまり居座るなら、『声聞(しょうもん)』『辟支仏(びゃくしぶつ)』と言われる人の悟りの境地に堕ちることになる。もし、『空』を見て定住するならば、その人は真の菩薩の心を起こすことはできない。すなわち、『禅定』の力だけが多いので、仏性を見ることができないのである。
 菩薩がもし、一切の衆生を導き、一切の仏法を成就するためには、まさに『空』にとらわれてはいけない。その時は、「観」を修するべきである。心性は『空』であるといっても、「縁」に対する時には、またよく数々の諸法が出生する。
 それは幻化のごときもので、定まった実体はないけれども、見聞きしたり知覚できる姿形があって、差別は不同であると観ずるべきである。我々がこのように観ずるとき、すべての物事は『空』であると知っても、その『空』の中でよく数々の行いを修して、『空』の中に樹を植えるように、また、よく衆生の性格や欲望を分別するであろう。人の性格や欲望は無量であるから、説法もまた無量になる。もしよく無量の弁才を成就すれば、すなわち、あらゆる衆生を利益することができるであろう。これを『方便随縁(ほうべんずいえん)の止』と名付ける。または、『従空出仮(じゅうぐうしゅつけ)の観』でもある。
 しかし、この「観」の中に住すれば、『智慧』のみが多い。仏性を見ることはできるのであるが、しかしまだ十分に明瞭ではない。
 菩薩がこのような「観」を成就しても、なお「方便の関門」というべきであって、正観ではない。
 菩薩がもし一念の中に一切の仏法を備えようとするならば、二元の分別をやめる所の「止」を修習し、『中道の正観』を行ずるべきである。

 『正観』を修習するとは、どういうふうにすることか?
 もし、心性は真なるものにあらず、仮なるものにあらずと体得すれば、真仮を縁ずる心が止む。これを「正」と名付ける。心性は『空』なるものでもなく『仮』なるものでもなく、しかも空・仮の法を壊すものでもないと観察するのである。
 もしこのように観察することができれば、すなわち仏性において『中道』に通達し、円環の中で『空』と『仮』の二つの真理を照らすであろう。もし、自分の心の中で『中道』の二元を見れば、すなわちすべての物事の『中道』の二元が見えて、また、『中道』の二元に囚われない。これを『中道の正観』と名付ける。
 『中道の正観』は、すなわち「仏眼」でもあり、また「一切種智」とも言う。
 もし、この「観」に至れば、『禅定』と『智慧』の力は等しくして、明瞭に仏性を見ることができる。

 このように仏性が見れるようになることで、まずは『大乗』に安住する。次に『如来』の境地に入る。次に『仏』の境地に入る・・・このような経緯で、悟りの道を進んで行き、そこから先は、仏の世界に深く入り込んでいくことになり、様々な仏法を得ることができる。
 もし、一切の仏事を成し遂げることができたら、『真身』と『応身』の二つを備えることになるであろう。もしこの二つを備えれば、初心の菩薩の位になる。

 『法華経』や『華厳経』では、初心に一切の仏法が備わっているということが明らかにされている。また、初心の菩薩が止観を修習することによって、悟りを示す様が『大品般若経』に書かれている。
 次に、後心の悟りについてはどうなのだろうか? 後心の悟りの境界は、深く高くして知りがたいものがあるけれども、いま経に明かしてるところから推察してみると、ついに止観の二法を離れたものはない。その理由は、『法華経』の中に丁寧に諸仏の『智慧』が書かれている。これはすなわち「観」である。これは「観」をもって証果を明かしたのである。
 『法華経』でも『華厳経』でも、みな「止観」の二門からその究極を弁じており、ならびに『禅定』と『智慧』の両門によって悟りを明かしている。故に人々は知るべきである。初・中・後の悟りは、みな不可思議であることを。
 そこで、新訳の『金光明経』には・・・
 前際の如来は不可思議なり、
 中際の如来も数々の荘厳さを持つ、
 後際の如来も常に破壊なし。

・・・と言っている。
 このように、みな「止観」の二心を修することによって悟りを説明している。そこで、『般若三味経』の中に・・・
 諸仏は、心によって解脱を得たまえり、
 心の清浄なるを無垢と名付ける。
 地獄・餓鬼・畜生・人間・天上の五道は鮮やかで潔よく、色を受けない。
 これを解するものあれば、大道を成ずる。

・・・と言っているごとくである。
 


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