「天台小止観」の立場について

 まず、これは初めに述べておくが、ここでは『現代語訳 天台小止観』 に書かれている、「智顗」の言ったことの現代語訳を、なるべく忠実に書いていったが、筆者自身は、ここに書かれていることが全面的に全てが正しいというように扱いたいわけではない。
 どちらかというと、これは6世紀頃 の昔、中国で言われていた教えなのだというように扱っていきたいと思っている。

 そもそも、『天台小止観』というものは、智顗が『法華経』の教義をメインにして仏教全体を体系化する中で出てきたものであり、中国の「天台宗」で伝えられていたものである。この「天台宗」の教えを、平安時代初期(9世紀)頃に『最澄』が日本に伝え、日本の「天台宗」ができることになる。
 仏教は宗派や流派が色々とあるが、この『天台小止観』で言われていることも、その色々とある中の一つということになる。
 ここで言われている教えは、厳密に言うtと、『原始仏教』とはいくらか異なるものであるし、インドにあった呪術的な要素を取り入れつつ成立した『密教』とも異なるし、日本仏教において『浄土宗・浄土真宗』といった「念仏」を至上とする宗派とも異なるものだと言うことになる。
 しかし、智顗が創設した中国の「天台宗」は、仏教全体をまとめ上げたものとして非常に影響力の高いものであるし、そこで出てきた「止観瞑想」のマニュアルは、『禅』といった宗派でも使えるものであるため、『禅』に対する影響力も強い。
 従って、「天台小止観」で伝えられている考え方は、仏教において中心的な役割を持っているものの一つだと思う。

 この「天台小止観」で言われていることの注意点としては、「止観」という瞑想方法が仏法において至上であり、他にまさるものが無いと言われている傾向があるが、これは、どの仏教の宗派でも、各々が自身の宗派のやり方こそが至上だと言う傾向があるため、あまり真に受けるべき所ではない。
 しかし、「座禅」というアプローチは、「観る」という行為から悟りに近づくやり方であるため、重要な行為であることは確かだと思う。
 また、ここでの教えの中には、「仏法を信じること」こそが至上であり、俗世を生きることに対しては否定的な特徴も見られる。これも、仏教全体に見られる特徴であり、さらには、仏教以外でも『神秘主義』のような立場の教えにも、この傾向が見られるものである。
 これも真に受けるというよりかは、よくある傾向という風に捉えた方が良いと思う。

 以上のように、「天台小止観」では、仏教の特徴とも言えるような教えがよく言われている。
 それから、この講義がなされた時代がそれなりに大昔であるため、その時代を思わせるような箇所もいくつかある。例えば、「衣食住」の用意について書かれている箇所など、このページでは詳細を抜粋することは省いたが、当時の中国を想定していることが言われているわけである。
 しかし、「天台小止観」には、現代においても通じていることが言われているため、そうしたものを理解してみると、やはり感慨深いものだと思う。
 こうした教えはそのまま鵜呑みにできるというものではないが、やはり、かなり参考にはなるため、そういうものとして扱っていきたいと思う。
 


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