九. 「病患」を治せ

 我々が心を決めて仏道を修習する時、あるいは、元から身体に病気(『病患』)があったとすれば、いま心を用いることに原因して、心息から本来の病気を発動させることがある。あるときは、「身・息・心」の三事をよく適応させることができず、内にも外にも調和してない所があるので、そこの病気が発することもあるであろう。
 座禅というものは、もし、よく用心深くやっていれば、四百四病は自然に除かれ癒えるものである。その反対に、用心が適切でないと、かえって色々な病気が動いて来る。だから、自分の修行にも、人を導くためにも、よく病気の源を認識し、座禅の中で病気を治す方法をも知っておくと良い。もし、病気を治す方法を知らなければ、いったん病気が動いてくると、ただ行道に障害があるだけでなく、また、命そのものにも心配が出てくるであろう。
 いま、治病の法を明かすなかを、分けて二段とする。一には、病気が発する状況を説明し、二には治病の方法を説明する。

第一、病気が発する状況
 一に、病気が発して来る状況を説明するとは、病気が発することもまた多種多様であるけれど、略して言えば左の二種に過ぎない。一には、「四大」の増減による病。二には、「五臓」から生ずる病である。
 四大の関係から発する病とは、もし、「地大」が増減し過ぎると、身体が痩せてきたりする。もし、「水大」が増減し過ぎると、飲食したものが不消化になったり、腹痛や下痢などが起きる。もし、「火大」が増減し過ぎると、熱が出たり寒気が出たりしてくる。もし、「風大」が増減し過ぎると、身体の動きや、息の動きが悪くなってくる。
 このような四大の病が発するのに、おのおのの姿形がある。まさに座禅の中および夢の中でこれを察知するべきである。

 次に、五臓から病が生じる有様を説明する。
 心臓より病を生じるとは、身体が寒かったり熱かったり、口が渇くなどである。心臓は口を司るからである。
 肺臓から病が生じるとは、身体がむくんだり、心がもだえたり、鼻がふさがるなどである。肺は鼻を司るからである。
 肝臓から病が生じるとは、喜んだり、憂いたりして楽しまず、頭が痛く、眼が疲れるなどである。肝は眼を司るからである。
 脾臓から病が生じるとは、身体や頭面の上に風がちくちくとして少し痛み、飲食物の味を失うなどである。脾は舌を司るからである。
 腎臓から病を生じるとは、あるいは、喉が枯れてふさがり、腹が腫れ、耳が鳴るなどである。腎は耳を司るからである。
 五臓から病が生じることも様々であるけれども、おのおのその姿形がある。座禅の中、および夢の中などでそれを察知すべきで、それらによって自分でそれを知ることができるだろう。

 このように、四大、五臓からの病患の原因や起こり方は一様ではない。病気の状態も数多く、詳しくは説くことができない。
 我々がもし、止観を修習して病患が生じることがあるのを逃れようと思えば、まず、よくその原因を知るべきである。この二種の病は、通じて内外に原因して発動する。もし、寒冷や風熱、飲食を慎まないことから病が起これば、それは外に原因して発動したのである。もし、観行が間違っていることにより、あるいは、『禅定』の法が発するときにとりくみ方を知らないことなどによって、病患が生まれれば、これは内に原因して発した病だと言える。

 また、三種の病になる因縁の不同がある。一には、四大・五臓の増減から得ることで、詳しくは前に説いたようなものである。二には、鬼神のなすところによって病となることである。三には業の報いから病となることである。このような病は、初めて病気になったときにすぐ治すことにつとめれば、治りやすい。もし、時間が経ってしまうと、病は本物になってしまい、体は疲れ、これを治そうとしても治りにくいものになる。

第二、治病の方法
 二には、簡略ながら治療の方法を説明しよう。
 すでに深く病源の状況を知れば、まさに適切な方法をなしてこれを治すべきである。治病の方法は数々のものがあるけれど、要点を上げて言うと、止観の二種の方法を出ない。
 どんな風にやるのが「止」をもって病を治すやり方なのか? ある師が、ただ心を落ちつけて止めて病んでいる所におけば、すなわちよく病を治す、と言っている。その理由は、心はこれ一期の果報の主人である。
 またある師は、ヘソ下一寸を『ウダナ』と名付ける。これは「丹田」とも言われている。もし、よく心をそこに止めてこれを守って散らさず、時間が長く経過して久しければ、すなわち治ることが多い、と言っている。
 またある師は、常に心を足の下の方に止めて、生活面のどんなときでもそうしていれば、すなわちよく病を治すと言っている。その理由は、人間は四大が不調になると数々の病患が多くなるが、これは心が上に向かうので四大が調えがたくなるからである。もし、心を落ち着けて下の方におけば、四大が自然に整ってきて数々の病が除かれるのであると言っている。
 またある師は、ただあらゆるものは「空」であって、実体がないものであると知って、病の相にとらわれず、ただ寂然としているだけで、治ることが多い。その理由は、心の思いが四大に強く影響することに原因して病が生じることがあり、心を休めて調和していれば、数々の病がすぐに治るのであると言っている。
 このように、病を治すやり方には様々な説があり、その方法も一様ではない。故に、我々はすべからく知るべきである。よく「止」の法を修すれば、よく数々のわずらいを治すことを知るべきである。

 次に、「観」をもって病を治す方法を説明しよう。ある師は、心を観察し、六種の呼吸法を用いて病を治せと言っている。これはすなわち、観がよく病を治すのである。六種の呼吸法とは、それぞれ『吹(すい)』『呼(こ)』『嘻(き)』『呵(か)』『嘘(こ)』『呬(し)』と呼ばれるものである。
 それから、それとは別に、一二の呼吸法というものがある。それは、『上息』『下息』『満息』『燋息(しょうそく)』『増長息』『滅壊息』『暖息』『冷息』『衝息』『持息』『和息』『補息』と言われる呼吸法であるが、この一二種の呼吸法は、みな観想の心から生じる。
※詳細についてはここでは省くことにする。

 次にある師は、上手に「仮想観」を用いて数々の病を治せと言っている。もし、人が「冷」をわずらっているときに、身の中に火気があって起こると思えば、それでよく「冷」が治せるようなものである。
 次にある師は、ただ止観を用いて、身の四大のなかの病は正体がない、心の中の病もまた正体がないと認識せよ。病はそれだけで治そうとしなくても、自然におのずから治るであろう、と言っている。

 以上、このような様々な説がある。『観』を用いて病を治すことも一様ではないが、よくその意を得れば、すなわち病として治せないものはなく、必ず治る道理である。
 まさに知るべし、止観の二法は、もし人がよくその意を得れば、すなわち病として治らないものはない。
 もし、それがいわゆる鬼病であるなら、まさに心も強く持ち、さらに呪術を用いることに加え、もってこれと助けて治すべきである。もし、それが「業病」と言われるものであるなら、必ず、補足となる「業」を修することを懺悔としてすると良い。そうすることで、病患はおのずから滅するであろう。

 この止観の二種の治病の法は、もし、我々がよくその一の意を得れば、すなわち自分のためによくこれを行うとともに、またよく他人をかねて助けていくこともできる。いわんやまたそろってそれらに通達すれば、なおさらである。すべてを知らないのでは、もし病気になってしまった時に、治すことができないで、修行も中止してしまわなければならないだけでなく、恐らくは生命にも関わる心配が生じる。そのようなことでは、どうして自分が修行し、人にも教えることができようか。
 だから、止観を修習しようと思うならば、ぜひとも必ず内心の治病の方法を理解しておかなければならない。内心の治病の方法も多種多様である。とてもその一つ一つを詳しく文章にして伝えることはできない。もし、習い知りたいと願う者は、まさに自分でさらに研究を進めるべきである。
 以上で述べたことは、ただこれその大意を示したのみである。これだけでそれらを用いようとすれば、恐らく不十分な点も生じるであろう。
  


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