三. 「蓋(がい)」を捨てよ

 ここで、『蓋(がい)』を捨てよというのは、五種類の蓋を捨てよということである。
 『蓋』とは、心に多い被さり、善い心の芽を成長させないもののことで、それには五種類ある。一には「貪欲の蓋」、二に「怒りの蓋」、三に「睡眠の蓋」、四に「動きの蓋」、五に「疑いの蓋」である。

第一、貪欲の蓋
 第一に貪欲の蓋を捨てよというのは、前の章では、自分の外側にある五感から生じる欲望についていましめたが、この貪欲の蓋は、自分の内部にある心の中に生じるものである。
 われわれが座禅の修行をしているときに、心に欲望が生じると、とある念がそれに続いて善い心におおいかぶさり、それを成長させなくする。従って、それに気がつき次第、それを捨てなければならない。
 欲望こそが、数々の悩みのすみかである。もし、心が欲望にとらわれれば、道に近づくことは難しくなる。
 以下、仏が説いていたことだが・・・
 もろもろの欲望は求めるときには苦労し、
 手に入れた時には、怖れが多く、
 失った時には熱脳をいだく。
 いつも楽しいときはない
 すべての欲から来るわずらいはこのようなものである。
 どうしたらそれを捨てることができようか。
 深く禅定の楽しみを知れば、
 そのためにあざむかれることはなくなる。 

・・・このような数々の理由から、貪欲の蓋をいましめなければならない。この主の欲望をいましめる教えは、経論のなかに数多く見受けられる。

第二、怒りの蓋
 第二に、怒りの蓋を捨てよというのは、怒りはあらゆる善法を失うことの根本であり、あらゆる悪道に堕ちるもととなるものである。
 悩みから怒りが生じ、怒りからは恨みが生じ、恨みからは怨念が生じるようになるが、こうした怒りの感覚は心を覆ってしまう。従って、これを蓋と名付ける。
 この怒りの蓋は急いで捨てた方が良く、それをいっそう増長させるようなことがあってはならない。
 
第三、睡眠の蓋
 次に、睡眠の蓋を捨てよというのは、内心が薄く暗くなるのを名づけて「睡」といい、五感が暗く覆われて手足をほうり出し横になって眠ってしまうのを「眠」といい、これらを合わせて睡眠の蓋とする。
 これはよく今世と後世の真実の楽を破る。このような悪法は実は最もよくないものである。なぜなら、他の蓋は自分でも気がつくから自分で取り除くこともできるが、眠っている間は死んだ人のように自分でそれを意識することもできない。意識できないぐらいだからこれを取り除くことも難しい。
 ある菩薩は、居眠りした者に対して注意したのは、人生の無常さに驚き目覚め、睡眠時間を減らすことと、ぼんやりしていることのないように努力せよといいっている。
 
第四、動きの蓋
 第四に動きの蓋を捨てよというのは、まず、動きには三種類ある。一に身の動き、二に口の動き、三に心の動きである。
 これらが動いている状態では、道を求める心は破られる。人間は心をおさめようとしても、なお定めることができないのが普通である。特に動き乱れてる心の場合はなおさらである。

第五、疑いの蓋
 第五に疑いの蓋を捨てよというのは、蓋の心が覆うようになってくると、何事においても信ずる心がおこらない。信ずる心がないのだから、仏法の中においても空しくなり得る所がない。
 とくに、禅定を妨げる疑いは、次の三種である。
 一に自分自身を疑うこと。
 二に師を疑うこと。
 三に仏法を疑うこと。
 それぞれに関して、疑いと慢心を起こしてしまったら、これは『禅定』をさまたげることになる。
 それから、仏法の中では「信」を基本とする。もし、信じることを行わなかったら、仏法のなかにおいても、ついに得るものがなくなってしまう。このように、疑うということの過失を覚え知って、まさに急いでこれを捨てるべきである。

 こうした五種の蓋のなかに、あらゆる「毒」になるもとがあり、それが根本となり、その中にさらに八万四千の煩悩がおさまるようになる。
 しかし、五種の蓋を除けば、その心は安らかにわずらいが無いようになる。われわれもまたそれと同じことで、この五種の蓋を除くことができれば、その心は安心であって清浄であり快楽である。
 


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