六. 正修の行(前編)

 「止観」を修習しようとする者は、とくに注意深くこの一章の中の要点をくみ取らなければならない。
 止観の修習には二種類ある。一には、座禅の中で修習すること。二には、縁の中で修習することである。

 第一に、座禅の中において止観の修習をするというのは、仏道の修行の中でもとくに座禅が優れたものとするから、まず座禅についての止観の説明を、五ヶ条に分けて説明することにする。
 一には、初心の間に乱れがちな心を打ち破ろうとして止観を修する方法である。
 二には、心が沈んだり浮いたりする弊害をなおそうとして止観を修する方法である。
 三には、『便宜』によって止観を修する方法である。
 四には、『禅定』の中の微細な心についてのあやまりを治そうとして止観を修する方法である。
 五には、『禅定』と『智慧』とを均等に扱うために止観を修する方法である。

第一、初心の間に乱れがちな心を破ろうとして止観を修する
 第一の、初心の間に乱れがちな心を破ろうとして止観を修するというのは、どういうふうにやることか。
 われわれが初めて座禅をやってみるときは、どうしても心が荒く乱れがちなものである。だから、まず「止」を修してこれを除くことに努力しなければならない。そして、「止」を修してみてもどうしても駄目な時は、「観」を修してみると良い。これを、初心の間の乱れがちな心を打ち破るために止観を修習する方法という。

 いま、この止観の修習の仕方を説明するのに、二段に分けておく。一に、「止」を修習する方法を説明し、二に、「観」を修習する方法を説明する。
 「止」には三種がある。一に、「縁」をなにものかに繋いで、それを守ることによって心を散らさないようにすることである。そこで仏は・・・
 心を繋いでほしいままならしめないこと
 また猿を鎖につなぐがごとくにせよ

・・・と言っておられる。
 二に、心が動いてきたら、それを押さえてかけ出さないよう散らさないようにすることである。仏は・・・
 この眼・耳・鼻・舌・身の五根は、
 心をその主体としている。
 だから汝らは、
 まさによく心を制御するべきである。

・・・と、教えている。
 三に、自分自身の心を「止」そのものにすることである。すなわち、心に思うところがあるにつれ、そこに一切のものごとがある。すべては「因」と「縁」の関係から生じるもので、それ自体にそれぞれの主体性があるものではない。そのことを知れば、すなわち心に取らない。もし心に取るところがなければ、そこで妄念の心の動きはやむ。それを名づけて「止」という。仏が・・・
 一切の諸法の中、
 因縁は『空』であって主体性はない。
 心を休めて物事の本願に達する。
 それを志して真の修行者というのである。
・・・と言っている。
 我々が初めて座禅を学び、十万三世の一切の仏法を修そうと思うなら、まさに重い願いを発し、一切のありとあらゆるものを悟りの世界へと導き、この上ない道を求めるべきである。
 一切の諸法とは、すなわち、心についての一切の法を明かすのである。一切の善のものごと、不善のものごと、どちらともいえない無記のものごと、一切の煩悩のものごと、一切のこの世の有為、生死、因果のものごとなどは、みな心の中に有るのである。
 もし我々が、心はそれ自体は性質を持たないものであることを知れば、どうして諸法に実なるものがあろうか。もし、諸法が実なるものでないなら、それは虚なるものである。もし虚であることが分かれば、つまりは『空』であって、主体性のあるものではない。もし、『空』であって主体性のあるものではないなら、それに取りつく必要はない。もし、それに取りつくことがなければ、そこで妄念の心はやむ。もし、妄念の心がやめば、すなわち無為になる。無為なるものがこれ諸法の本源である。もし、その心を本源におちつければ、それに染まったりとらわれたりすることがない。もし、それに染まったりとらわれたりすることがなければ、一切の生死の業や行いは止む。もし、生死の業や行いが止めば、それが悟りである。
そこで仏は・・・
 心があって心を知らず、
 心は心を見ない。
 心に想を起こせばそれが愚痴を呼ぶ。
 想が無いのがすなわち悟りである。

・・・と説いている。もし、このように自分自身の心が「止」そのものになりきれば、まさに知るべし、この人は必ず悟りを得るであろう。

 第二に、どんな風にやるのを「観」を修習するというのか。「観」に二種がある。一には『対治の観』、二には『正観』である。
 一に、『対治の観』というのは、身体の不浄さを観る行法により淫欲の心と対治し、慈悲の心をもって怒りや恨みの心と対治することなどで、このような「観」をみな、対治のための観と名づける。これについては、今ここで詳しく説く必要はない。
 二に、『正観』とは、諸法の実相を観ずる『智慧』のことである。仏が詳しく説いているように・・・
 諸法は確固たるものではない。
 常に心によって存在する。
 すでに理解して『空』を見る者は、
 一切のものに想念を起こさない。

・・・という。もし、我々が初めて座禅するとき、心が考えるところに従って、一切の諸法は念ずる所にはなく、先に説いたように「止」になりきろうとして、妄念がやまないならば、その時はまさに心に考える一切のものごとにそのまま従ってみるのも良い。
 そこで出てくるものは、もしかすると善、あるいは悪、あるいは善でもなく悪でもない無記なもの、あるいは『三毒』といわれる、『貪(とん:むさぼり)、瞋(じん:いかり)、癡(ち:おろかさ)』などである。
 もし、一切の世間のことを念ずれば、そこでまさに反対に起こるところの心そのものを観ずると良い。
 このような心は、これは有るものだろうか。無いものだろうか。もし無いものであるなら、つまり心は無いのであるから、どうしてその心があり得ようか。もし心は有るものであるとするなら、これは過去・未来・現在のどこにあるとしたら良いのか。もし過去にあったものであるとするなら、過去とは既に滅したものである。どうして心だけがあり得ようか。もし未来に在るものだとするなら、未来はいまだ来ないものである。どうして心だけがあり得ようか。もしこれ現在に在るものだとすれば、現在は一刻として止まってはいない。捕まえどころがないなら、心が在るということもない。
 また、もし、心は現在に在ると思うなら、現在の心にどのような姿形があるのかを観察するべきである。明らかに観察してもその姿も形も見ることができないとすれば、すなわち、心は捕まえどころがないのである。捕まえどころがないとすれば、つまり、心は有るとはいえない。
 また、もし、生じたり滅したりするのが心の姿であるとするなら、心は、生じたり滅したりするものであるとしようか。また、生滅しないものであるとしようか。もし生じたり滅したりするものであるとするなら、すべての草木などにもみな生じたり滅したりすることがある。また、心の相があるとするべきである。もしそれが心の姿ではないとするなら、どうして生じたり滅したりすることをもって心の相であるとすることができようか。そこでまさに知るべきである。心の相はつかまえどころがない。心には相がないのだから、心は存在するものではない。
 また、現在の刹那刹那の生滅によって心が成り立つのであるとするなら、今、明らかに生滅を探ってみても、なお捕まえどころがない。それがどうして心になり得ようか。また、もし現在に生滅があるのであるとするなら、それは過去の心が滅して現在の心が生じたのであるとするのか、滅しないまま生じたのであるか。もし、過去の心が滅して現在の心が生じたのであるとするなら、それはどこから生じたのか、もし滅しないままで生じたものだとすれば、まさに二つの心が並んで存在することもあるであろう。しかも実はそうではない。どうして滅しないままで生じたものだといえようか。もし滅して生ずるのでもなく、また滅しないで生じたものでもなければ、まさに知るべし、すなわち生があることがないのである。もし生ずる、ということがなければ滅するということもないはずである。もし生も滅もないなら、どうして生滅をもって心とすることができようか。故に知る、心は捕まえどころがないのである。
 もし、観察される心がつかまえどころがないなら、どうしてそれを観察する『智慧』を捕まえられようか。もし、観察する心も観察される心もないなら、すべての心はみな捕まえどころがないことになる。もしすべての心が捕まえどころがないなら、一切のものごともまた捕まえどころがないことになる。もしすべての物事が捕まえどころがないなら、すなわち心にはよりどころがないことになる。もし、心によりどころがないなら、深く思い込むこともない。もし、深く思い込むことがなければ、すなわち、歪んだもの想いは断ぜられる。もし、そうなれば、心に分別がなくなり、争いの心も止み、心にとらわれるいざこざはなくなるようになる・・・
・・・そこで、身も心も自然となってくると、『正定』 を得るようになる。『正定』を得ると、真実の『智慧』が発して、一切の生死の業や行為と離れることができる。
 以上、仏は、初心の人が荒く乱れがちな心を対破しようとして、「止観」の修習をする方法を説いていた。

第二、心が沈んだり浮かれたりする病的な状態を対治するために止観を修する
 第二に、心が沈んだり浮かれたりする病的な状態を対治するために止観を修習することである。
 われわれが座禅をしているとき、その心が暗くふさがって意識がはっきりせず、ぼんやりすることがある。あるいは、時として睡気が多いことがある。そういうときには、まさに「観」を修してこれを照らすと良い。もし座禅をしていて、その心が浮動し、さわいで落ちつかないようなときには、まさに「止」を修してこれを止めると良い。これが心の沈浮の病を対治するために止観を修習することの原則である。
 ただし、薬と病の兼ね合いによってこれを用いると良い。もし、効果が得られなかった場合は、両者が一致しなかったという失敗があるわけである。

第三、便宜に従って止観を修する
 第三に、便宜に従って止観を修習することである。我々が座禅をするとき、心が沈みがちなのを治すために「観」を修してこれを照らしてみても、心が明るく清らかにならず、役に立たないならば、その時は試みとして、逆に「止」を修してこれを止めてみると良い。もし「止」を修してみて、身も心も安静になり、明るく清らかな気持ちになれば、「止」が良かったのである。
 また、我々が座禅をしているときに、心が浮動するのを治すために「止」を修してみても、心が落ちつかず、役に立たないのであれば、試みとして逆に「観」を修してみると良い。そこで上手くいくようになるのであれば、「観」が良かったのである。
 以上が、便宜に従って止観を修習することである。

第四、座禅の中で起こってくる微妙な心を対象として止観を修する
 第四に、座禅の中で起こってくる微妙な心を対象として止観の修習をすることである。まず、我々が止観を用いて荒く乱れがちな心を破ると、その乱れがちな心が既にやんで、『禅定』の境地に入ることができる。その『禅定』の心は微妙なものであるため、体が『空』であることを悟り、快楽であることを自覚する。あるいは、鋭い心の動きが発してきて、その心で偏った邪な真理を取ることもある。もしその『禅定』の中で、心もむなしく偽りであるものであることを知らなければ、必ずそれに対して愛着を生じる。もし愛着の念を生じると、それにとらわれて、それをもって真実のものとする。
 心が「虚なるもの」であって、真実なものでないと知れば、それに対する愛もとらわれも起きない。これを「止」を修習するという。また、「止」を修しても、心でなお執着して、愛やとらわれのための心がやまなければ、その時はまさに「観」を修習し、『禅定』の中の微妙な心を観察するべきである。
 このように、『禅定』の中の微妙な心の欠陥を破ろうとすることが、座禅の中で起こってくる微妙な心を対象として、止観の修習をすることである。

第五に、禅定と智慧を均等にするために止観の修する
 第五に、『禅定』と『智慧』を均等にするために止観の修習をすることである。
 われわれは座禅のなかで、「止」を修することによって、あるいは、時には「観」を修することによって、『禅定』に入ろうとする。それだけでは『禅定』の境地に入ることができても、『智慧』がないのである。それでは「煩悩」を断ち切ることができない。その時は、「観」を修することによってこれを打破するべきである。
 また、もし、我々が座禅をしているとき、「観」を修習することによって、『智慧』を発していても、それだけでは『禅定』の心が足りないことがある。『智慧』の力だけが多く、『禅定』の心が足りないと、心が散り動いてしまう。風のなかの灯火が物を照らすことが明確でないようなものである。
 そこで仏は・・・
 もし、『禅定』の心が無ければ、
 空・無想などの真理を観察する『智慧』があっても、
 これを倒錯した智慧と見なし、狂える智慧とする。
 これをもっては、生死の業や行為から離れることができない。

・・・と言っている。
 その時は、まさに「止」を修習するべきである。「止」を修習することによってすなわち「定」を得て、「定」の心を得るが故に、密室の中の灯火のように、闇を破って物を照らすことがきわめてはっきりするようになる。
 以上が、『禅定』・『智慧』の二つの力の均衡を保って止観を修習することである。

 我々が、もし、終始正座をする中で、このような五つを踏まえて修習をしていけば、よく仏法を修するが故に、必ず一生においてむなしく過ぎることはない。
 


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