六. 正修の業(後編)

 さて、第二に、縁と生活の中で止観を修行することについてである。
 終始、正座をすることが、仏法に入るための最も優れた肝心なものではあるけれども、しかし、人間である以上は様々な関わり合いが多く、かつ、数々の「縁」に関わりを持つ。
 もし、あらゆる縁に従ってすべての物事に対してそこで止観の修習をするのでなければ、修行の心に隙間があり、そこで煩悩が所に応じて起こってくるようになる。それでどうして速やかに仏法と相応することができると言えるだろうか。
 もし、あらゆる時に、いつでも『禅定』と『智慧』のための修行を修する人は、必ずよく一切の仏法に通達するこ
とができる。

六種の縁について
 どんな風にやるのが縁と生活の中で止観を修習するというのか?
 ここで出てくる「縁」とは、六種のものがある。
 一に『行』、二に『住』、三に『坐(ざ)』、四に『臥(ふ)』、五に『作作(ささ)』、六に『言語』である。
 生活の中で物事に対して止観を修する場合は、六つのものがある。
 一に眼は色に対応し、二に耳は声に対応し、三に鼻は香に対応し、四に舌は味に対応し、五に身は触れるものに対応し、六に意は考えられる物事に対応する。われわれがこの一二の事象の中で止観を修習することを、縁と生活の中で止観を修習するという。
 
 まず、我々が何か行おうとする時、何処かに行こうとする時、このように考えると良い。自分は今、なんのためにそこへ行こうとしているのか。もし良くないことのため、どうでも良いようなことのためであるなら、行かない方が良い。もし、良いことのため、人の利益になることのため、正しいことのためであるなら、行くと良い。
 『行』の中に「止」を修するとは、そこへ行くことが原因となって数々の善悪の物事が出てくることになるが、悪い場合には得るべきものはない。これがよく分かれば妄念は起こらないのである。これが、「止」を修するということである。
 一方で『行』の中に「観」を修するとは、まさにこのように考えると良い。心が体を運ぶから、去るとか来るとかいったことがある。それが原因になって、そこにいろいろな良いことと悪いことなどが起こることになる。それを「行く」というのであるが、そこで行く心そのものを観察してみると、すべて見られる姿はない。まさに知るべきなのは、行く者もおよびいろいろな出来事も、つきつめてみれば『空』なのである。これが、「観」を修するということである。

 次に、もし『住』しようとするときは、まさにこのように考えると良い。自分は今、何のためにここに立ち止まろうとするのか? もしどうでも良いことのためなら、立ち止まらない方が良い。もし、良いこと、人のために役立つことのためであるなら、立ち止まると良い。立ち止まることが原因になって善悪などのものごとが起きるが、しかし、よく観察してみると、一つとして捕まえどころのあるものがない。それがよく分かれば妄念は起こらない。これが、「止」を修するということである。
 『住』の中に「観」を修するとは、心が制御しようとするから、身を立てて立ち止まる。そしてそれによって数々の善悪の出来事があることになる。その『住』の心そのものを観察すると、その心の姿形を見ることができない。これは結局、『空』なのである。これを「観」を修するということである。

 次に、『坐』においてであるが、これも先ほどと同様に、なんのためにそこに座ろうとしているのか、どうでも良いことなのか?を問いかける。そこで起きた出来事は、捕まえどころがないことが分かれば、「止」を修するという。心そのものを観察した時に、一切の出来事が『空』であることが分かれば、「観」を修するという。

 次に、『臥(ふ)』においてであるが、これもまた先ほどと同様であり、なんのために寝ようとしているのか、怠けるためのことなのか? 体の調子を整えるためなのか?を問いかける。そこで起きた出来事は、捕まえどころがないことが分かれば、「止」を修するという。心そのものを観察した時に、一切の出来事が『空』であることが分かれば、「観」を修するという。

 次に、『作作(ささ)』においてであるが、これもまた先ほどと同様であり、なんのために何かを作ろうとしているのか? 成し遂げようとするのか? どうでも良いことなのかどうか?を問いかける。そこで起きた出来事は、捕まえどころがないことが分かれば、「止」を修するという。心そのものを観察した時に、一切の出来事が『空』であることが分かれば、「観」を修するという。

 次に、『言語』においてであるが、これもまた先ほどと同様であり、自分はなんのために語ろうとしているのか?  どうでも良いことを論説したいだけなのか? 人の役に立つことなのか?を問いかける。そこで起きた出来事は、捕まえどころがないことが分かれば、「止」を修するという。人が何かを語る時、心の動きによって喉から舌にかけてが動き、音声や言語が出る。そこで、語る者の心そのものを観察した時に、一切の出来事が『空』であることが分かれば、「観」を修するという。

六種の感について
 それから、「眼」「耳」「鼻」「舌」「触」「意」の6つに関して、止観を修することについてである。
 まず、「眼」でものを見ることのなかで「止」を修するとは、どういうことであろうか? 
 ものを見る時に、水のなかの月のように、定まったものもなく実体があるわけでもないものであると知り、もし気に入ったものを見ても、それに対するとらわれを起こさず、嫌なものごとを見ても怒りを起こさず悩みも起こさず、その他の様々なものごとに接しても迷いを起こさず、いろいろに乱れた心を起こさない。これが「止」を修習するということである。
 一方で、眼でものを見るときに「観」を修するとはどういうことなのか?
 見るということに定まった姿があるわけではない。なぜなら、眼耳鼻舌身などの五感が合わさって、眼で見えるものが出てきて、そこで認識したものが原因となって意識が生じ、意識が生じた時に色々なものごとを分別する。これによって善悪などの色々なものごとがあることになる。そこで、逆に色を念ずる心を観察してみると、姿も形も見られないし、実体がない。見る人も見られた色々なものごとも、結局は『空』なのである。

 次に、「耳」で声を聞く時に「止」を修習するというのは、聞いた声について、声は響きのようなものであると知り、気に入った声を聞いても愛する心を起こさず、いやな声を聞いても怒りの心を起こさず、好きでもない声、その他の様々な声を聞いても心を動かされないようにする。これが「止」を修習するということである。
 声を聞く中に「観」を修習するとは、こう考えると良い。聞こえてきた声はすべて『空』であって、所有者はいない。耳識が生じるから、次に意識が生じて分別の心を起こす。そこで、声を聞いた心を観ずると、その姿形や実体を見ることはできない。聞いた人も聞いたものごとも、結局は『空』なのである。

 次に、「鼻」で香を嗅ぐときに「止」を修習するとは、嗅いだ所の香は、モノノケのごとく、実体はないものであると知り、好ましい香を聞いてもそれにとらわれる心を起こさず、いやな臭気にもいかりの心を起こさない。いやでもない香、好きでもない数々の香にも心を乱されないようにする。これが「止」を修習するということである。
 香を嗅ぐなかに「観」を修習するということは、こう考えることである。いま、嗅いだ香は、虚なるものであって、実体のあるものではない。なぜなら、鼻識からそうした意識が生じる。そこで香を嗅いでいる心を観察してみると、そこに姿も形もない。結局、いろいろな物事は『空』なのである。

 次に、「舌」で味を受ける中で「止」を修するとは、これも先ほどと同様であり、好きや嫌いなどの分別を起こさず、心を乱さないようにするというこどである。
 「観」を修するとは、味を感じている心は『空』であることを観察することである。

 次に、「身」で触を受ける中で「止」を修するとは、これも先ほどと同様であり、あらゆる感触に対して分別を起こさず、心を乱さないようにするということである。
 「観」を修するとは、触るという性質は虚なるものであり、身も実体のあるものではなく、触ることを感じている心は『空』であることを観察することである。

 次に、『意』の中で止観を修習することは、それぞれ『行』『住』『坐(ざ)』『臥(ふ)』『作作(ささ)』『言語』の意として説明した通りである。ここでは重ねて説明しない。

 われわれが、もしこのような行いの中で止観を修習していけば、真に仏道の修行をしていくことになるのである。こうした大乗仏教の教えを修習していけば、その人は世間において、最上であり最勝であって、ともに等しい者はいない。仏がそれを誉めたたえて説いたごとくである。
 静かに林樹の間に座り、
 寂然として諸悪を滅し、
 淡泊にして一心を得る。
 この楽しみは天や人の楽しみではない。
 人間は世間の利益や、
 名や衣やよき寝床を求めるが、
 その楽は真に安心なものではない。
 利益を求めれば満足することはない。
 粗末な心を着てこじきを行い、
 動止に心は常に一にして、
 自分の智慧の眼で
 あらゆるものごとの実相を観察し、
 数々のものごとのなかに
 みな平等な見方をもって接し、
 智慧の心が寂然としているなら、
 この世の中にはともがらもなく抜きんでた人となる。
 


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