七. 「善根」が発する相

 「座禅」や「止観」を修習した結果として、良い結果が発してくる有様を『善根』という。これを明らかにするにあたって、二種に分けて説明することにする。
 第一には、外面的な良い結果が発してくる有様である。ほどこしとして良い物を受け取ること、父母や目上の者から良いことが起こること、勉学の結果として良い結果が起きること、などである。これらは外面的な事象である。これは分かりやすい場合もあるが、次章に説く『魔事』と混同されやすい点もある。『魔事』については、いまここで詳しく説明はしない。
 ここで詳しく説明をしたいのは、第二に、内面的に良い結果が現れてくる結果である。それはすなわち、禅の法が開発して来ることである。
 これを説明するのに、三段に分けて説明する。一には、まさしく良い結果が発してくる有様を説明し、二には、その真偽を区別すること、三には、止観を用いてそれを養ってそだてるべきことを説明する。

第一、良い結果が発してくる有様
 第一に、どんな風になるのを内の善根が発した有様というのか? これにはほぼ五種類あって、発してくる有様が同じではない。
 一に「息道の善根」と言われるもの、二に「不浄観の善根」と言われるもの、三に「慈心の善根」と言われるもの、四に「因縁を観ずる善根」と言われるもの、五に「念仏の善根」と言われるものがある。

 一に、どんな風になってくるのを「息道の善根」が発して来る有様だというのか?
 我々がよく止観を修習し、身心が調整され、妄念が起こらず、それに至ってひとりでに心がだんだんと『禅定』に入る。
 それを発すると、身心が空寂になり、『禅定』の心が安穏であることを自覚する。この『禅定』の中で自分の身心の姿形はまったく見られないようになる。
 その後になっても、呼吸の仕方が乱れず、退化することもなく失敗することもなくなる。そしてその『禅定』の中で、八種類の感触のどれかが発して来ることがある。八触というのは、自分の体に動く、かゆい、冷たい、暖かい、軽い、重い、渋い、滑らかであるなどの意識が発することである。この感触が発するときに身も心もいっそう安定し、かろやかに喜ばしく、例えようがないほど清浄になる。これが、「数息観の善根」と言われるものが発して来た有様である。
 
 二には、「不浄観の善根」と言われるものが発し来る有様である。
 我々が『禅定』に至る中で、突然にして、他の男女が死に、死んでからその体がむくみふくれ、ただれ腐り、膿や虫が流れ出る有様を見て、ついには白骨がばらばらになっている有様などが見えることがある。そしてその心は悲しんだり喜んだりして、今まで愛していたものを憂うようになる。これは『九想』と言われる善根が発してきた有様である。
 あるいは、さらに進んだ『禅定』の中で、突然として身内身外の不浄なさま、ふくれ上がったり、崩れ落ちれバラバラになったりするさま、自分の白骨が頭から足まで節々あい支えているさまを見ることもあるだろう。そして、これらのことをよく見ても、『禅定』の心は安穏で、世の無常を驚き悟り、五欲からいくらか離れるようになり、我にも人にも執着しなくなる。これは『八背捨』と言われる善根が発してきた有様である。あるいは、また『禅定』の中で、身内身外、および、数々の外部にある物などが不浄なものであると見えることがある。これは『大不浄観』といわれる善根が発してきた有様である。

 三には、「慈心の善根」と言われるものが発して来る有様である。
 我々が止観の修習をしたことに原因して、『禅定』の中で突然と心を発して衆生を慈念する。あるいは、親しい人が楽を得た相により、すなわち深く禅定を発し、内心の清浄なることを得て、たとえようもなく喜び楽しむ。別に何事もない人、恨みを持っている人、一切の人々に対してもそのようである。そして、『禅定』から起こっても、その心は喜びと楽しみに満ちて、誰を見ても顔色が常に和やかである。これは「慈心の善根」と言われるものが発して来た有様である。

 四に、「因縁観」と呼ばれる善根が発する有様である。
 我々が止観を修習することに原因して、観心ともに静かに落ち着き、突然にして悟りの心が生ずる。過去・現在・未来にわたる無明・行などの『一二因縁』を推し進める時、因果の法則が無視されることはないと知り、数々の邪な執着心を破って、『禅定』を得て、安穏であって『智慧』が開発し、心に喜びが生じ、世間的なものごとは思わないようになる。これが『因縁観』と言われる善根が発してきた有様である。

 五に、「念仏の善根」と言われるものが発して来る有様である。
 我々が止観を修習することに原因して、見心ともに空寂となり、突然として諸仏の功徳の相好が不可思議であること。仏の持つ神通力が不可思議であること。仏が様々な説法をして広く衆生を利することが不可思議であること。これらのような無量の功徳の不可思議なることなどを思うことがある。この時、敬愛の心が生じ『三味』を開発する。
 身心ともに快楽、清浄、安穏であって、数々の悪想はなく、『禅定』から起こっても、身体は軽く機敏であり、自然に功徳が我が身にそなわり、人にも敬愛されることを自覚する。これが、『念仏三昧』と言われる善根が発してきた有様である。

 また、我々が止観を修習したことに原因して、もし、身心ともに清浄であることができ、あるいは、無常の想、苦の想、無我の想、不浄の想、世間にあり離れるべき想、食の不浄の想、死の想、断の想、離の想、尽の想の『十想』が発することがある。
 他にも、六念の法や、一八の変化など、一切の法門が発してくる有様も心得るべきである。

第二、真偽を分別すること
 第二に、真偽を分別することについてだが、これは二段に分ける。一には邪偽なるものを説明し、二には真正なるものを説明する。
 どのようなことがあれば、邪偽の相であるというのか?
 我々が上に説いたようにあらゆる禅を発する時、それにつれて、あるいは身や手が乱れ動いたり、ある時は身が重くて物に鎮圧されるような気持ちがしたり、ある時は身が縛られているような気持ちがしたり、ある時は数々のあやしいものが見えたり、ある時は数々の悪い考えが起こったり、ある時は外の錯乱した善いことを思ったり・・・このような、数々の邪なるものが禅とともに発して来るのを、『邪偽の禅』とする。
 これらの邪な『禅定』は、もし人がこれに愛着していると、九十五種の鬼神の法と相応し、ついには失心したり気が狂ったりしてしまうことがある。あるときは諸の鬼神などが、その人がその禅にとらわれているのを知って、すなわち勢力を加えて、その人に数々の煩悩や邪禅定や邪智を発させる。そして、その弁才や神通力が世の中の人を感動させる。それを見た者は悟りを得たと言ってことごとく信じてひれ伏すようになる。しかも、実は、その内心は倒錯しているわけだから、もっぱら鬼法を行う。
 このような人は、命が終わってからも永く仏にならずに、かえって、鬼神道の中に堕ちる。もし人間として生まれたとしても、悪いことを行って地獄に堕ちることが多い。
 我々が止観を修習しているとき、もし、このような禅を行い、これらの数々の邪偽の相があったならば、まさにこれを退けなければならない。どういう風にしてこれを退けたら良いのか? 心を正しくしていていれば、すなわちまさに滅し去る。もし滅し去らなければ、まさに止観を用いてこれを打破することが必要である。
 
 二つは、次に正しい禅が発してくる有様を説明する。
 もし、座禅の中であらゆる禅が発する時、先に述べたような邪法があることなく、正しい禅が発すに従って「定」と相応して空明清浄なることを覚え、内心喜び、こだわりなく快楽になり、心を覆うものがなく、善い心が開発し、信敬の心が増長し、智慧は明らかで、身心が柔軟であり、微妙虚寂であって、無為無欲で、出入することが自在であるならば、これが正しい禅が発して来た有様である。
 誓えば、悪人と事を共にすれば、つねに悩まし合い、善人と事を共にすれば、日時が立つにつてていよいよその良さ美しさが見えてくるようなものである。邪正の二禅が発する有様もそのようなものである。

第三、止観を用いてそれを養って育てるべきこと
 第三に、つぎに止観を修習してあらゆる善根を長養することを説明しよう。もし、座禅の中で諸の悪い結果が発してきたときは、まさに止観の二法を用いて修習して、それを増進するべきである。
 どんな風に修習してこれを増進するのか? 
 もし、「止」を用いるのが良い時は、「止」をもってこれを修し、「観」を用いるのが良い時は、「観」をもってこれを修するのである。
 略して大意を示せば、以上のようなことである。
 


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