八. 「魔事」を覚知せよ

 まず、『魔羅』とは何か?
 これは、中国語では「殺者」という意味である。
 修行者の『功徳』の財産を奪い、『智慧』の命を殺してしまうからである。
 次に、『魔事』とは何か?
 仏は、『功徳』と『智慧』をもって衆生を悟りに導くことを仕事にしている。ところが、『魔』も同じように、つねに人の善根を破壊して生死の世界に流し込むことを仕事としている。もし、心を仏道におくと、道が高ければそれだけ魔も盛んになる。だからどうしてもよく『魔事』を認識しておかなければならない。
 ただし、魔には四種類がある。一に「煩悩の魔」と言われるも、二に「陰入界の魔」と言われるもの、三に「死魔」といわれるもの、四に「鬼神魔」といわれるものである。
 前の三種の魔は、みな世間にありふれたことがらである。今はとくに説明はしない。
 「鬼神の魔」の様相だけは、すべからく知るべきであるから、略して説明しよう。
 「鬼神の魔」には、およそ三種類がある。一に『精魅鬼(しょうみき)』、二に『堆剔鬼(たいてきき)』、三に『魔羅鬼』である。

第一、精魅鬼
 一に「精魅(しょうみ)」とは、一二時の獣が変化して数々の姿形をあらわすものを言う。
 あるいは、愛すべき少年や少女の姿、尊敬すべき老人や先輩の姿、恐るべき身相をあらわしたりするなど、様々な種類があって一様ではないが、修行者を惑わすものである。
 この数々の「精魅」は、我々を悩まそうとするときには、おのおのその時刻に当って現れて来るという。干支で言うと、もし、寅の時にくるのは、虎・豹などである。もし、卯の時に来るのは、兎・鹿などである・・・など、一二支にのっとったものが来ることが多い。我々がもし、よく気をつけていて、いつもこの時刻に来るものは、これこそ獣の「精魅」であることを知り、その名を呼んで、これを遠ざけると良い。すると、すぐに滅し去るだろう。

第二、堆剔鬼
 二に、「堆剔鬼(たいてきき)」とは、また数々の悩みを我々にもたらす。ある時は、虫や蠍のように人の顔面をちくちくと刺す、ある時は、我々の両腕の下を撫で回したり、あるいは、突然に我々を抱きしめたり、あるいは、またその言説や音声がいちじるしくうるさいこともある。また、数々の獣の形となるなど、その姿は一様ではない。それが来てわれわれを悩ませば、まさにすなわち覚知して、一心に眼を閉じてひそかにこれをののしって、このように言ってみると良い。
 自分は今、汝を認識している。汝は、火を食い、香を嗅ぎ、油を盗んだ悪鬼であろう。邪見であって、破滅を喜ぶ種類のものである。自分はいま、守るべき掟を持っている。ついに汝を恐れない。
・・・と、このような態度で接すれば、鬼はすなわち退却するだろう。このような数々の妨げをなして人を悩ます状況を断ずる方法は、ならびに禅経のなかに説かれているとおりである。
 
第三、魔羅鬼
 三に「魔羅」とは、また我々を悩ますものである。この魔は化けて多く三種の色・声・香・触の境界の姿となり、来たって人の善心を破る。
 一には、人の感情にそぐわないことをする。すなわち、恐るべき形相で人を恐怖させるなどである。二には人の感情に順ずることをする。すなわち、愛すべき姿形となって人の心に愛着の念を生じさせる。三にはその他の情にそぐわないことでもなくそぐうことでもないようなことをする。すなわち、普通の姿形であるが、その人の心を動乱させる。これ故に「魔」を「殺者」と名づける。それは、人の眼・耳・鼻・舌・身の五感から惑わすものでもある。

 一つのものの中で三種のものとなって人の心を惑わし乱す。気に入ったものになったり、あるいは、父母、兄弟、諸仏の幻、男女など、愛するものになって、人の心そのものに執着させる。
 気に入らないものになるとは、あるいは、虎・狼・獅子・鬼など、数々の恐れるべき姿になって人を恐れさせる。
 その他の気に入るものでもなく、気に入らぬものでもないものになるとは、ただ普通の姿形となることであるが、人の心を動き乱して『禅定』を失わしめるものである。故に名づけて魔とするのである。数々の良い音声悪い音声となり、あるいは数々の苦薬のものごととなって、来たって人の身に触れるものは、みな「魔事」である。その様相は衆多で、詳しく説きつくせるものではない。
 要点を挙げて言えば、眼・耳・鼻・舌・身を通して人を惑わし、善心を失わせ、数々の煩悩を起こさせるものは、みなこれ魔の軍である。万事に平等な仏法を破壊し、貪欲、憂鬱、睡眠などの数々の障害を起こさせるからである。
 われわれは、それが『魔事』であることを気付いたら、自分でそれを退けることにつとめなければならない。
 
 『魔事』を退ける方法には二種類ある。
 一には、「止」を修してこれを退ける方法である。およそ数々の外の好悪の魔の境を見ると、みな虚なるものであると知って、愛しもせず恐れもせず、また、取捨せず分別せずに心を休めて、静寂にしていれば、彼は自然に滅する。
 二に、「観」を修してこれを退ける方法である。もし、上に説いたような数々の魔の境界を見て、「止」を用いてみても去らなければ、そのときは逆にそれを見た我が心を観察してみると良い。もしその心が無いなら、彼にはなんの悩ます所があろうか? このように観察するとき、あい次いでまさに滅し去るであろう。
 もし、そうしても去らなければ、ただまさに心を正しくしているのみで、恐れを生ずることなく、身命を惜しまず、心を正しくして動ぜず、魔界の本性はすなわち仏界の本性であり、一つであって、二つではないのであるから、魔の世界においても捨てるべきものはなく、仏の世界においても取るべきものもない。そこで仏法が自然に現れ、魔境は消滅するだろう。

 また次に、魔境が滅し去らないのを見ても、憂いを生じる必要はない。もし滅し去るのを見ても、喜びを生じるべきではない。その理由は、いまだかつて座禅をしている人に、現れて来た魔が変化して虎や狼になり、あまつさえ来てその人を食ってしまったことは無い。また、いまだかつて魔が変化して男か女になり、あまつさえその人の夫となり妻となるのを見たことはない。まさに知るべし、みなこれ幻化なのである。愚人はそれがわからず、心に驚きや恐れが生じ、またとらわれを起こし、それによって心が乱れて禅定を失い、気が狂ったり、病気になったりする。これらはみな人間が無智でそうなるのであって、魔がそうしたのではない。
 また、もし数々の魔の境界が自分を悩まし乱して、何年も何カ月だっても去らなくても、ただ心を正しくして、しっかりとしているが良い。身命を惜しまず、憂いや恐れをいだくことなく、まさに大乗経に示されている魔を退治するための呪術などを使い、あるいは、声に出さずにそれを念じ、『仏・法・僧』の三宝を念じつづけるが良い。もし、『禅定』を出るときもまた、呪術を使ってみずからこれを防ぎ、懺悔をして、掟を守るが良い。邪は正をおかさず、ついには自然に滅するであろう。

 『魔事』は多種多様で、とても説き尽くせるものではないが、よくすべからくこれを認識しておく必要がある。これ故に、初心者の修行者は必ずよき指導者に親近する必要があるというのは、これらのような困難なことがあるからである。
 この魔が人の心に入ると、人をして精神を狂乱させ、あるいは憂い、あるいは喜び、それによって病気となり、または死にいたらせることさえもある。ある時は、数々の邪な『禅定』、『智慧』、『神通力』を得させる。そして、説法し教化をすると、人々がみな信じるようになる。けれども、後にはかえって大いに他人の真の善事が破壊され、および正法を破壊する。
 これらのような数々の不思議なことがあって一様ではない。説明しつくせるものではない。今、略してその要点だけを示したのは、人々が座禅の中で数々の魔の影響を受けないようにしたいためである。
 要するに、もし、邪なるものを追いやって正なるものに帰そうとすれば、まさに諸法の実相を観ずるべきである。もし、止観を修習すれば、邪に破られることはない。
 


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