「天台小止観」内で伝えられている「仏教」の教えは、やはり『神秘主義』としての側面が強い所がある。
そもそも、「神秘主義」とは何だろうか?
「神秘主義」とは、古代からある秘儀や密議として伝えられる「神」について追求する立場であり、そうした「神」を認識したり、「人間」が「神」へと近づくようにしたり、最終的にはそれと一体となることを目差す立場である。
古代における「神」は、一方では宗教的な教義として伝わっていることもあるため、「神秘主義」とは、宗教的な教義の中に良いものを見出そうとする立場でもある。そのため、「神秘主義」は、「魔術や魔法」に近い立場でありながらも、いくらか宗教的な特徴を持つこともある。
そもそも、「仏教」とは「仏」を目差す宗教だと言えるものである。そして、仏教で言われている「仏」を目差す態度は、神秘主義で言われている「神」を目差す態度にかなり近い。
そのため、「仏教」の特徴と「神秘主義」の特徴は、かなり通じているのである。
こうした「神秘主義」の教えの特徴として言えることは、まず、俗物を否定する傾向がある。一般的な人間が支持する俗世の魅力や誘惑がある中、仏教の仏法のようなものに突き進むようにするため、片方を卑下なるものとして扱い、もう片方を至上なものとして扱うことがある。
それから、もう一つ言えることとしては、特別な人間のみが「神秘主義」の教えを受けている場合もある。その理由については諸説あるが、「神秘」の追求がそれだけ難しいことであるという理由もあり、その内容は口伝で継承されるのが伝統的なやり方という場合もある。また、その内容は一般人が理解するには非常に難しいとなると、特別な修行者だけがそれに没頭するようになる。
仏教の場合は、衆生を悟りに導くという『大乗仏教』的な考え方から、一般に対しても開いた教えがされることもあるが、やはり、専門の修行者が自身の修行を突き詰めるということもある。
この「天台小止観」の教えも、そもそも、仏教徒として出家した人向けのものとして言われているものでもあるため、専門の坊主として、経典に書いてあることを参照したり、仏の戒律を守るのが当然という内容になるわけである。
こうした「神秘主義」のような教えは、一般的な現代人にとって、そのまま通ずるものとはなり得ないものである。
しかし、「神秘主義」で言われていることは、「自分とは何か?」「人間とは何か?」「神とは何か?」「この世とは何か?」といった疑問にも通じていることであり、そのスタンスの中には学べるものも存在するため、そこから学び取れることを学び取ることが大事なのではないか?と思う。