二つの意識

 さて、ここからは、「天台小止観」の内容から派生して言うことができる、独自の内容の解説をして行こうと思う。

 まず、この「天台小止観」は、読んでみると分かる通り、「止」の瞑想「観」の瞑想がメインとなっている。
 それらは、車の両輪のように相互に必要なものであり、それぞれ、「止」は『禅定』に、「観」は『智慧』に繋がっている。
 そして、この「止」と「観」は、他にも様々なものに派生して繋がっていると捉えることができる。

 この「止」と「観」の二つは、言い換えると「静」「動」に対応していると捉えることができる。ここで、心の動きを静めて止めるのが「止」であり、そこから心の動きを観るのが「観」である。
 また、これは身体の動きに関しても言えることであり、心を「止」の状態に置くことによって、身体を「静」の状態に置くことができる。そして、そこから身体を動かすには、心を「観」の状態に置きつつ、身体を「動」の状態に移行することになる。

 それから、人間は、俗世的な「欲」や「情動」と言ったものを持っている。これが、仏教で言う「煩悩」を引き起こすものにもなる。こうした「俗世的なもの」は、普段の人間の「心」ということになる。
 こうしたものと「止観」とを合わせると、「俗世的なもの」や「普段の心」を止めるのが「止」であり、逆に、それらを観るのが「観」ということになる。
 これを言い換えるならば、普段の心を「常」とすると、「不常」に向かうのが「止」であり、「常」を観るのが「観」であるとも言える。

 このように、「止」と「観」の二つは、人間の持つあらゆる「二つの動作」や「二つの意識」とも繋がりがあることを、ここで押さえておいてもらいたい。
 


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