「止」と「観」は、人間の意識において、それぞれ「主観領域」と「客観領域」と関わりのあるものだと捉えることができる。
まず、人間の持つ「普段の心」は、「客観領域」だと言えるものである。人間の普段の心は「客観」によって作られているものであり、それは周囲から「見られる」という視線や、「他人は世界をこう見ているであろう」という想像から、「普段の心」である自分の意識が作られている。
こうしたことも、瞑想によって分かってくることの一つである。
「止観」における「止」は、そうした「客観領域」の意識から脱することになる。そして、そこから『禅定』を得るようになると、今度は、意識が「主観領域」へと移行するようになる。
「主観領域」に入り込むようになると、今度は白昼夢のような幻想が見えてくるようになり、そこで「菩薩」が出てくることもあれば、「魔事」のように邪なものが出てくることもある。こうしたものが出てくるということは、「止」によって、意識が「主観領域」に入り込んでいるというわけである。
一方で、「止観」における「観」は、『禅定』の状態から「客観領域」を観ることを意味する。そうすることによって、この世の仕組みが見えてくるようになり、『智慧』が芽生えてくるようにもなる。
また、「止」の状態から出てきた「魔事」を避けることに「観」が有効なのは、「主観領域」に没頭し過ぎたことによる弊害が、「客観領域」をちゃんと観ることによって防ぐことができるからである。
このように、「止」と「観」の重要性は、「主観領域」と「客観領域」の二つの重要性にも繋がっている。
また、仏教や止観の修習で必要な「心がけ」とは、結局の所、「主観領域」と「客観領域」とを行き来するのに必要な「心がけ」でもあり、仏の真理を重んじながらも、俗世を生きたり観たりすることの大事さも忘れないようにするための「精神性」が、そこで必要になってくるということである。