不定期連載『サイキックの研究と分析』シリーズ。 記事一覧はこちら。
◆◇ミクロの世界に着目できるか?◆◇
「サイキック」と「素粒子の性質」とを絡めていくと重要になってくるのが、
「ミクロな存在に着目できるか」という話です。
「波の世界」へのアクセスは、
「ミクロへのアクセス」が通路になってきます。
さて、自分は以下の3つの本を書きました。
「4次元」についてと、ヌーソロジーについてと、
「魔術や魔法」全般についての本です。
この3つ全部に共通で書いた話があります。
それは・・・
人間の「意識」は人間の「脳細胞」で出来ていると言えるし、人間の「脳細胞」は「原子」で出来ている。それから、「原子」は「素粒子」で出来ている。従って、我々の「意識」も、「素粒子」のようによく分からないものに通じていてもおかしくないのではないか?
・・という話です。
つまり、サイキックな感覚を理解するには、
我々の脳の中にある「細胞」、あるいは、身体全体にある「細胞」の「素粒子」的な性質を持つ所を知覚しなければならない・・・ということになります。
これは、ミクロを知覚するということで、「ミクロ知覚」と呼ぶことにします。
ちなみに、水素原子の大きさは「約10のマイナス10乗m」、
その中の原子核の大きさは「約10のマイナス15乗m」と言われているので、
「素粒子」はそれ以下の世界ということに・・・
「脳細胞が素粒子と繋がってるのなら、我々の意識も素粒子に繋がっているのでは?」という説は、
ロジャー・ペンローズの「量子脳理論」でも似たようなことが言われています。
ペンローズの仮説は、脳細胞にある「マイクロチューブル(微小管)」が量子の性質を持つため、
意識と量子は関係しているというものでした。
そして、意識においても、それに着目できる方向性と、着目できない方向性が出てくるようになります。
「粒以上の大きさのもの」と「粒以下の大きさのもの」という区分
ここで、「ミクロなものに着目できる方向性」と、
「着目できない方向性」という、二つの方向性が出てきます。
普通の人は、「目に見えるもの」や「大きさのあるもの」に着目しやすいです。
特に、目立っているものほど「ある」と強く認識するようになります。
「存在する」とは、「多くの人々に存在が認識される」ということであり、
より「目立つこと」が前提として必要になるんですよね。
まぁ、だから広告とかで「目立ったもん勝ち」な風潮が出てくるわけです。
それとは逆に、目立たないものや目に見えないものは、なかなか着目されずらい傾向にあります。
「目に見えるもの」は「粒以上の大きさのもの」で、
「目に見えないもの」は「粒以下の大きさのもの」とした場合、
サイキックが分かる人と分からない人は、
「粒以上の大きさのもの」しか分からないか、「粒以下の大きさのもの」が分かるか、
で区別することができます。
前者は「物質の世界」しか分からない人で、後者は「非物質の世界」が分かる人とも言えます。
「ミクロ知覚」ができて身体の中にある「量子的性質」を持ったものが理解できて扱えるタイプと、そうでもないタイプがいるというわけです。
サイキックが「分かる人」と「分からない人」の違いは、これで説明することができます。
安定したものと不安定なもの
「粒以上の大きさの世界」と「粒以下の大きさの世界」の違いには、
実は「安定」というものが絡んでいます。
基本的に「安定」した動きが確立されてるのが、「粒以上の大きさのもの」です。
古典的な物理学がそれで、ニュートンが築き上げた古典物理学では、基本的に「粒以上の物質」を扱っています。
それをベースにして「科学」が出来上がり、
「科学」は「現象が確実に再現できる」ことで成り立っています。
そうした中で「よく分からない領域」に足を踏み入れることになったのが「量子力学」なわけですが、
それは同時に「不安定」な領域に踏み入れることにもなりました。
「素粒子」のワケの分からない性質を嫌う物理学者がいるのは、
「安定」を望み「不安的」な性質を嫌うからという理由もあるかもしれません。
そして、「人間の意識は安定を望む」ということを、
脳科学や心の問題に詳しい養老孟司という人が言っていました。
※本をいっぱい出してる。『バカの壁』という著書(2003年)がベストセラーになったことで有名な人
「安定してるもの」とは、「〇〇と言ったら必ず××という望んだ答えが返ってくること」とか
「望んだ動きをするもの」です。
人間はこれを望み続けて、テクノロジーを発展させていきました。
しかし、それと対極にあるのが「自然」であり、
植物とか石とか生物とか、自然のものほど、不確実な要素が出てきます。
だから人間は、不確実な自然を排除して、なるべく街をコンクリートとかで埋めて、
自分達の意識でコントロールできる街作りを目指していった。
・・・ってことを、『虫から人間社会を考える』って講演を聞きにいった時に言ってました。
(あと、「子供」も凄く「不安定・不確実なもの」なので、少子化の原因もそこにあるとまで言っていました。)
「粒以下の大きさのもの」には、人間が望んでいる「安定」とは逆に、
不安定・不確実な問題が付きまといます。
量子力学には「不確定性原理」とか、見るからに不確実な名前のものがありますが、そんな感じなわけです。
地球上にありふれてる「自然」もそうで、それは魅力もあるのだけども、不安定感もあるわけです。
以上の性質は「波の世界」の性質でもあります。
そんなわけで、安定と「物質の世界」、不安定と「波の世界」はそれぞれリンクしているので、
「安定」と「不安定」の対が大事になります。
普通の人は安定したものを望んでるものだから、
普通はそっちの方向に行くし、そっちの方が正しいと言えば正しいわけです。
しかし、養老孟司さんが問題提起をしているように、
そんな社会の中でも、その裏の考え方の必要性というのもあったりします。
例えば、そういうのを説いてるのが「仏教」だったりします。
仏教では「諸常無常」とか「色即是空、空即是色」とかいったことを説いています。
「諸常無常」とは「この現実の世界のあらゆる事物は、絶えず変化し続け、今の姿が永遠ということはない」的な、そんな意味です。
「色即是空、空即是色」はなかなか難しいですが、「色」が「空」であり「空」が「色」であるってことで・・・「見えるもの」が「見えないもの」で、「見えないもの」は「見えるもの」ってことで・・・まぁ、これもつまり「目に見えるもの」が「安定して存在し続けるわけではない」ということに繋がってきます。
このように、物事は常に移り変わるものだということが分かっていれば、
目に見える今の出来事が全てだと囚われて悩む必要はない・・・といった考え方があります。
つまり、一例として「仏教」が持ってるような考え方も、
現代社会で問題解決をするにおいて正しいこともあるってことです。
そういう方向性でも「サイキック」と「仏教」と、それから「自然」と「生命」はリンクしています。
以上、サイキックの入り口には「ミクロ知覚」があるけれど、
ミクロの世界に着目することは、不安定・不確実なものを認めることから始まるという話でした。
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