引き続き、父性原理と母性原理について書いていく。
今回は「父性原理と日本」ということで、
父性原理について詳しく言及していく内容にする。
~父性原理・母性原理のおさらい表~
父性原理と「個」
父性原理は欧米の人にとっては分かりやすく、
日本人にとっては分かりにくい概念である・・・と以前に述べた。
なんで分かりにくいのだろうか?
日本は東洋諸国の一つであるが故なのか、
日本で一般的に「父」という言葉で連想されるものが、
ここで言う「父性原理」と逸れることがよくあるからである。
父性原理は「父」という言葉が使われているので、
「父親」みたいなワードがチラついてくるが、
これは「父親の原理」というよりは、もっと抽象的に「切る原理」と理解した方が良い。
それから、父性原理を理解するためのキーワードは「個」である。
個人の確立、個人の成長、個人差の肯定・・・
それらは「全体の場」に対して「切る」作用が働くことで「個」が確立するような・・・
そんなイメージのものが父性原理に該当する。
母性原理において「優しさ」が大事であるように、
父性原理による「個人の成長」を育む力もまた、とても大事なものとなる。
個の成長がない父性原理は、優しさのない母性原理ぐらい醜悪なものだと言ってしまって良いかもしれない。
「競争」と「個」
父性原理にはそうした「個」を育む力がある一方で、
河合隼雄さんは書籍『子どもと学校』で以下のように書いている。
父性原理では個人差つまり能力差を認めるので、競争ということが大切だ。しかし、母性原理では絶対的と言っていいほどの平等感がある。ところが次が大切な点なのだが、全体が平等であることを前提として、そこに何らかの組織をつくろうとすると、一様に順番をつけるより仕方なくなる。これは能力に関係なく、昔は「長幼序あり」という考えによっていた。 しかし、ここに現代の日本のように、父性原理による能力差の考えが混入してくると、すでに論じたような、途方もない一様序列が、成績によってつけられることになってしまう
父性原理は「個」の成長のために競争が大切だとのことある。
それから、母性原理的な日本から父性原理による発想を導入することによる問題点についても書かれている。
これもまた深い問題であるが・・・
要するに、[平等を前提として何らかの組織を作ると、順番をつけなければいけない]
⇒[昔は、能力関係なく長幼序あり(年長者と年少者の間の上下関係)の考えに頼っていた]
⇒[今は、父性原理による能力差の考えにより、成績によって順番をつけられることになってしまう]
・・・ということである。
昔ながらの「長幼序あり」で順番をつけるのが良いのか?
それとも成績や能力で判断するのが良いのか?
能力で判断する場合は具体的にどうすれば良いのか?
そうした議題になるとまた正解の難しい話になるが・・・
この話の肝は「母性原理の国で父性原理の発想を導入すると、混乱が必然的に起きてくる」という点である。
そして、現代の日本人はその問題について真剣に考えなければならない立場にあるわけである。
そんな感じで、良い面も悪い面もある行動原理が「父性原理」なため、
その二面性については今後もじっくりと掘り下げていきたい。
マッチョとは違う父性原理
日本において父性原理を理解するにおいて、
はっきりさせておかなければいけないのは、
なんというか・・・「父性=マッチョで強そうな人」というイメージではないことである。
日本人の持つなんとなくな「父親」イメージもそれに近いからそうなってしまうらしい。
まぁ確かにマッチョな方が父性原理的に有利に働くのでそれも一理あるのだが・・・
どっちかというと「切る」の原理がベースにあるということで、
「父親=ロジカルに決断してくれる人」な感じのが近いかもしれない。
日本人は西洋人よりもロジカルに物事を考えるのが苦手である。
だから「マッチョな体育会系」⇒「父親らしい」「男らしい」ってなりがちなのだが・・・
そういう話ではないので気をつけよう。
どうやら、日本だとこの辺のイメージは「武士」のイメージが近いらしい。
母性原理が根本にある日本では、武士のように強そうな人でも、実は母性原理の方を本質的に持っていたりする。
長いこと鎖国であった江戸時代の文化は、日本独自の「男らしさ」が根付いていたのかもしれず、その風潮が今でも表れているかもしれない。
あるいは、江戸時代でインテリとして権威を持っていた「儒学者」とかのイメージも、日本的な父性原理に近い。
日本は近代化によって理系的な「科学」が優位になる前は、文系的な「儒学」が優位になっていたため、古典的な日本のインテリはそんな感じのものに固執する性質があるらしい。
父性原理を理解するためのキーワードは「合理性」である。
「科学的に物質の原理を解き明かして、より効率的な生産を行う」のが「科学的合理性」なのだが、
「上の立場の人や知識を持ってそうな人の言うことを聞いて無難に頑張る」みたいなのは「儒学的合理性」と言って良いかもしれない。
日本人が考える「合理性」や「父性原理」は、そんな「儒学的合理性」のように、なんだか西洋本来のものと逸れて変なことになるような風潮がある。
ロジカルに考える父性原理
何度も繰り返し述べるが、父性原理で重要なのは、
「全体の場」に対する「個の確立」である。
つまり、全体に対して「NO」と言うような「切る」原理が父性原理の本質である。
したがって、どれだけマッチョな強さを持っていても、
理屈が通ってない全体に対して「NO」と言えなければ意味がない。
理屈が通った強い意見を言うのに必要なのは、
自分の言ってることの正しさが論理的に導ける能力と、理詰めで物事が説明できる能力である。
・・・ということで論理的思考力やロジカルシンキングといったものがキーワードになってくる。
したがって、「数学」や「物理」や「科学」といった理系の学問も重要となってくる。
それから、「科学」の力もまた父性原理を象徴するものだと言える。
父性原理の父性は「父性=マッチョで強そうな人」よりも、
むしろ「父性=科学に強い人」のイメージのが本来の意味に近いかもしれない。
科学のように頭で考えたものが正しいとすることは、
「個」の強い力が求められる分野であり、能力の高い天才がいるほど発展するものでもある。
数学や物理や科学などの理系的な分野の役割は、ここ数年で大きく変化していった。
河合隼雄さんの書籍『子どもと学校』が出版されたのは1992年だが、
21世紀はそこから時代が進み、2000年代からのコンピューター発展期を通過し、
インターネットが飛躍的に普及し、IT系の会社が増えて、コンピュータープログラミングを扱う仕事なども増えた。
IT系の会社はここで説明しているような父性原理が機能しやすい。
なぜなら、インターネット自体が父性原理が機能している社会から発明されたものであり、
そこで作られるシステムも父性原理と親和性があるからである。
したがって、日本の古い文化を習って機能している組織よりも、
IT系の文化から習って機能しているような組織は、父性原理の長所を発揮しやすい。
事実、自分(Raimu)が現在プログラマーとして勤めている会社も、
役職者がITに強い人が多いおかげか、父性原理の長所である「個人の成長」を重視するような風潮がしっかりとあるように思っている。
それから、システム開発は効率を追い求める仕事なので、テレワークへの移行といったシステム改革にも強い。
個人的には、2000年代からのITの推進によってこうした会社が出てくるようになったのは大事なことだと思う。
しかしながら、従来通りの古い文化で機能する会社も一般的には多く、
システムエンジニアの仕事をする人は、IT系の会社と関わることがありながらも、一般的な会社とも関わることがある立場となる。
これは父性原理的にもなかなか大変な役割なのかもしれない・・・
それから、ITの推進の話だと、最近はコンピュータープログラミングを公教育に導入する動きまである。
これはすべての生徒がプログラミングができるようになることを目指すというより、
論理的な問題解決能力をコンピューターを使って育むのが目的となっている。
こうした公教育がどこまで上手くいくかは分からないが、
父性原理が必要という需要にも合っている動きなのでは?と思う。
そして、「父性原理と母性原理」論において、
河合隼雄さんがよく強調するのは「現代日本において父性原理を育んでいく必要がある」ということである。
母性原理が強い日本は「個を育む力」がどうしても弱くなってしまうため、
ユング心理学の目的である「個性化」でもそこがどうしても課題になってくる。
あるいは、河合隼雄さんがそれを強調するのは、
数学科出身の数学教師でもあった背景がそれを突き動かすのかもしれない。
数学的な背景を持つ河合隼雄さん自身が構築したロジカルな自我は、
父性原理のあるべき姿としてとても参考になると思う。
父性原理については「日本の苦手分野」として今後も考えていくとして、
次回は「母性原理と日本」について書いていく。
母性原理について詳しく考えていくと、その逆である父性原理の重要性についても分かってくるようになる。
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