『河合隼雄を読み直す』というシリーズをこれまで続けてきたが、
一通り書きたいことを書くことができたということで、
この回で一旦更新を終わりにしておきたい。
ここで一旦しめくくりとして、
あらためて「お前は誰だ?」と問われた時について考えてみよう。
(映画『君の名は。』でもそんなメッセージがあった)
「アイデンティティ」について
自分とは何か?
「お前は誰だ?」と問われたらどう答えるか?
まず、親がつけた名前と苗字があるはずなので、
「●● ○○」という人間だと言うことができる。
そうなると、「●● ○○」という人間は何なのか?
まず、日本名を名乗った場合は日本人ってことが前提になるし、
●●の子供として生まれたので●●家の人間ってことにもなる。
もし、仕事をしていて××って企業に所属しているなら、
××の人間として△△の仕事をしてる者ってことになる。
まだ学生で□□って学校に通っていた場合は、□□の生徒ってことになる。
以上のようなことを踏まえながら、
「これこそが自分と言えるもの」のことを「アイデンティティ」という。
アイデンティティを辞書的に説明すると以下になる。
(明鏡国語辞典より引用)
① 自己が他と区別されて、ほかならぬ自分であると感じられるときの、その感覚や意識を言う語。自己同一性。自我同一性。
② 組織体で、それを他と区別し特徴づけるもの。独自性。
これは「自己同一性」や「自我同一性」と言い換えられるワードでもある。
この言葉自体は古くからあったが、
近代においてエリク・H・エリクソンが心理社会的発達理論を提唱し、
その中で「アイデンティティ」の概念が扱われることで有名になった。
発達心理学的な見解だと、人間は幼少期や児童期は親の言うことをなんとなく聞いてるぐらいで、
自立して考えるはっきりした自我意識みたいなものは持っていないが、
それから思春期あたりの年齢になってから親への反抗や社会との接触の経験を積み重ねていって、
「自我同一性」を確立することで、アイデンティティを持った大人になっていく。
その時に芽生えた「自分が自分と言える個性」が「アイデンティティ」というワードで呼ばれているわけである。
他者とアイデンティティ
アイデンティティについては、河合隼雄さんの書籍『こころの最終講義』の『アイデンティティの深化』の章で詳しく取り扱われている。
その中で、以下のように書かれている。
たとえば誰かからまじめな顔をして、「河合さん、あんたはいったい何者ですか?」という問いを発せられたとします。これがふつうの会話だったらいいのですけれども、たとえば禅のお坊さんから「おまえは何ものか?」と言われたときに、「私は河合でございます」と言ったら、おそらく「喝ッ」とやられるのにきまっていますね。
(中略)
実際のところ、「私は大学教授です」と言っても、そんなものは話にならんのです。というのは、いずれ定年になりますね。それで大学を辞めたら私は私でなくなるか。そんなことはない。あるいは、今は「河合でございます」なんて言っていますけれども、ひょっとしたら養子に行くかもわかりません。それに河合だと言うけれども、河合という人はいっぱいいるではないか。「河合隼雄」、これなら少ないだろうと喜んでも、探すとどこかに同姓同名の人がおいでかもしれません。
このように、「あなたは何者か?」というアイデンティティを何で証明するのかということをやっていくと、だんだんと心細くなってくる・・・とのことである。
そうでありながらも、人間はどうにかして「これが自分だ」と言えるアイデンティティを確立しようとして、
家族との関係や、社会での役割をアイデンティティにしようとする。
一般的な人間は、自分の仕事だったり、社会的な役割だったり、
周囲の環境からそれを作り上げることが多い。
例えば、教師だったら教師だし、大工だったら大工、農家だったら農家。
実家の家業を継いだ場合は、〇〇家の人間として親と同じ仕事をして、
地元の人達とも仲良くして、○○という名前の地元の人間として生きる。
警察だった場合は警察として、どこに所属しててどんな役職なのかも大事になってきたりする。
その他の公務員の場合も国に仕える立場として、どういう役職かが大事になる。
サラリーマンだったら、○○という会社で、○○という課で営業をやっていたり人事をやっていたり、
平社員だったり課長だったり部長だったり・・・これも役職が大事になってくる。
しかしながら、こうしたアイデンティティはどうなのだろうか?
親の家系を継ぐことをアイデンティティにしていたが、
もし、別の人の養子になって○○家の人間でなくても良いとなったらどうなるのか?
何か特定の仕事をすることをアイデンティティにしていた場合、
退職して何も無くなったら何者でもなくなってしまうのだろうか?
部長とか課長とかの役職についててそれをアイデンティティにしていた場合、
その会社が倒産して無くなったりしたらどうなるのか?
このように、他者から与えられた役割を自分のアイデンティティにすることについて、河合隼雄さんは疑問を持っていた。
そういうふうにどんどんかわっていくということを考えると、これこれが私のアイデンティティですとえらい喜んでいても、ほんとうは宙に浮いているときと同じではないのか。もちろんアイデンティティを、職業とか、もろもろのみんなが考える支えで考えることは大事なんです。大事なことなんですけれども、それだけではだめなのではないか。すると、いったい私を「私」たらしめているものは何なのか、いったい何が私を支えているのか。
つまり、他者由来のアイデンティティは大事なことではあるものの、
揺れ動いて変わることがあるものなので、それだけでは駄目ということである。
人間はそれだけの生き物じゃないということで、
他の可能性を探っていかなければならない。
以上で説明したような他者由来のアイデンティティは「社会的な個」であり、
一方で、無意識に潜む自己のようなアイデンティティは「精神的な個」とも呼ぶことができる。
(以上の用語は河合隼雄さんのものではないが、別分野で重要視されている。)
そして、河合隼雄さんのユング心理学で目指すことは、
「精神的な個」を探っていくことと同義になる。
ゆるぎないアイデンティティーとは?
「精神的な個」のような「揺るぎないアイデンティティ」について探っていくため、
河合隼雄さんは書籍『こころの最終講義』で一つ重要な例を上げている。
それは「小学生の子に神様への手紙を書いてもらおう」という試みから
実際に教育委員会の人に頼んで企画してやってみた時のことである。
(ちなみにアメリカの子供たちが書いた『かみさまのてがみ』という本が実際にあり、谷川俊太郎さんが訳している)
その中にあった小学二年生の子が書いたものが非常に良かったということで、
河合隼雄さんが例として取り上げている。
その中にこういうのがあります。 私は非常に感激したのです。ちょっと長いですけれども読んでみます。
かみさまへ
かみさまはどうやってかみさまになれたのですか。おばあちゃんが、かみさまは月にいるよといっています。おじいちゃんが死なはったら、おじいちゃんも月にいってかみさんになっているかなと思います。
わたしは、おばあちゃんが死なはってかみさまにならはったら、どんなかみさまができるだろう、きっとがんこなかみさまになると思います。だって、わたしの弟といつもテレビのとりあいをしているからです。弟は野球だし、おばあちゃんは時代げきだからです。わたしもよくおばあちゃんとテレビのとりあいのけんかをしま す。わたしはまんががとっても大すきです。だからけんかをします。かみさま、そんなところみないでね。わたしはずかしいからね。
それからが大事なんです。
わたしもいずれか死んでかみさまになります。かみさまになったら、えらいかみさまになろうと思います。
これに対して河合隼雄さんは「この子はこの年齢のときから、ある意味でアイデンティティを持ってる」と評している。
「死んでかみさまになります」という意志は非常に強固なアイデンティティにもなり、
とにかく、職業があろうとなかろうと、何しようと、死んだって大丈夫なアイデンティティであるということで、非常に感激したわけである。
さらに、この子は人生における相当な深さを持っているし、
それは強さともいえるし、揺るぎなきものを持っているとまで評している。
そして、この子にそれだけの強さがあるのは、
「この子のファンタジー」を持っているからだとしている。
だからこそ「ファンタジー」が大事だという結論になり、
「われわれはアイデンティティを深めるためには自分のファンタジーを持たねばならない」と、
河合隼雄さんは主張している。
われわれも先の子のようにファンタジーを持とう、ということで、
先ほどの手紙の内容のようなことをそのまま信じようとしても・・・実際には難しいし、それで済む話ではないので・・・
「自分なりの」ファンタジーを作ることが大事だと強調していた。
もし、そうしたファンタジーを他者から与えられた場合はどうなるのか?
例えば、海外でユダヤ教やイスラム教の聖典を信じて生きてる人は、
そこに書いてある創造論を本気で信じて生きている人もいる。
海外だとそういう文化も普通にあるため、
それをイメージしてもらえれば分かりやすいと思うが、
ファンタジーを他者から提供されていると、その結果、宗教みたいになることもある。
ファンタジーを持つために大人しく宗教へ帰依する人生もそれはそれでアリなのかもしれない。
しかしながら、現代日本では古典的な宗教はあまり好まれなくなっているし、
みんなそういう人ばかりな世の中なのも発展性がない。
色んな人がいる現代においては、
より一層「自分なりの」ファンタジーを作ることが大事となるわけである。
以上のように、河合隼雄さんはファンタジーの可能性と重要性について強調しているが・・・
一方で、現代はそれが難しい世の中になっていることも言っていた。
このことは私は現代の非常に大きな問題だと思います。 といいますのは、自然科学がすごく強固に発達してきましたから、われわれはファンタジーと現実をどこかでいいかげんにして、なにかそこらに地獄があるように思ったり、そこに極楽があるように思ったりすることができにくくなっている。日本人には、西の方に浄土があると思って、舟に乗って出ていったという人たちが、事実、いるくらいですから、そういう実在的な空間の中に何関係を見出して、自分の心のよりどころというものをつくろうとすることができた民族なのですが、それは今は非常にむつかしくなっている。
つまり、自然科学が強固に発達することにより、
ファンタジーを心のよりどころにするのが難しくなっている・・・というわけである。
しかも、以上は1985年頃に語られた講演の内容である。
西暦2020年代に突入した令和の時代の現代ではさらにどうなのか・・・
それは我々自身が考えていかなければならない問題になっている。
スピリチュアルとファンタジー
「精神的な個」や「ファンタジー」の話からどうしても繋がってくるのは、
スピリチュアルなものだと思う。
スピリチュアルの語源である「Spiritual」は、
「精神的な」とか「精神上の」を意味する単語なので、
物質について考える思想に対して、精神上のものについて扱う思想が本来のスピリチュアルに該当する。
スピリチュアルの界隈では、
「自己を探ることはタマネギの皮をめくっていくようなもの」みたいな比喩が言われたりする。
あるいは、「スピリチュアル的な気付きはタマネギの皮みたいなもの」とか「悟りとはタマネギの皮みたいなもの」みたいな意味でタマネギの比喩が使われたりすることもある。
要するに、めくればめくるほどその先がある構造が大事なわけである。
「精神的な個」や「自分なりのファンタジー」を見つけるために、
自己探求をひたすらやってみても、めくればめくるほどその先があるような果てしないものかもしれない。
しかし、その先にはタマネギの中心があるように、確固たる「自己」があるかもしれない。
また、その先に「魂」は存在するのだろうか?
そもそも、「魂」は肉体が亡くなっても残るとされているものであり、
死んでもまだ存在する自分といったら自分の持っている不滅の魂ということになる。
「魂」はこの世界に存在し、死後も残るということで良いのだろうか?
それから、「魂」という言葉が出てくると、
「前世」という言葉も連想して出てくるようになる。
通常の人間は前世といったものは記憶もないし認識もできないため、
もちろん存在しないことになっているが、
輪廻転生については古代インドの宗教で断片的に出てきていたことから始まり、
そこから輪廻転生の説が確立されて伝えられるようになっている。
前世や輪廻転生の説もまた、あるということにするのが正しいのだろうか?
あるいは、あると仮定して話を進めるべきなのか?
このように、自己探求や精神世界の話は、
どんどんスピリチュアルなものにまで発展していくようになる。
自身の精神世界をそうして突き詰めていくと・・・
「心の現風景」や「魂の現風景」とでも言えるような、
自分の魂がもともとそこにいて、どこか懐かしく、ずっといるだけで落ち着くような、
そんな世界に到達することもある。
このような「心の現風景」にまでたどり着くと、
「自分だけのファンタジー」を作るにおいてとても心強いものとなる。
最近の日本にあるスピリチュアルはすっかり俗物化していて、
あまり良いと言えないものも多く普及してしまっているが・・・・
本来のスピリチュアルは「魂の世界を探るもの」と言っても良い。
今の世の中で本当に必要なのは、
そういうスピリチュアルなのではないだろうか?と思う。
まだまだ深いアイデンティティー問題
アイデンティティの話はまだまだ深い。
アイデンティティは「見つけた!」となったらそこで終わりなのだろうか?
先ほど、自己探求について「タマネギの皮のようなもの」という比喩を書いた。
アイデンティティもタマネギの皮のように何枚もめくることができて、
その中心に位置する精神があるかもしれない。
しかし、もしかすると中心と思った所が成長して、さらにめくれることもあるのかもしれない?
河合隼雄さんは書籍『こころの最終講義』にて「アイデンティティはいつできるというものではない、全生涯を覆って流れている問題ではないか」と結論づけている。
ユングという人は、自己実現の過程、プロセスということを非常に強調しますが、私も 、今いったようにアイデンティティというのは、どの一点で確立するか、どこで確立させるかという考え方ではなくて、 確立の過程を歩んでいるというふうに考えたほうがおもしろいのではないかと、考えているわけです。 そう思ってエリクソンの本を読みますと、彼も「無意識的につづく一生の課題だ」というような書き方をしているところがあります。
以上のように、ユングの自己実現もそのようなものであるとして、さらにエリクソンも実は一生の課題であると書いてる所もあるらしい。
このようにまだまだ深いアイデンティティの話については、
書籍『こころの最終講義』の『アイデンティティの深化』の章でより詳しいことが書いてあるので、
もっと知りたい人は読むことをオススメしたい。
物語の重要性
ユング心理学をベースに、日本文化や教育や宗教といった多岐に渡る分野について考えている河合隼雄さんだが、
その探求の結果、「物語」が重要ということに行き着いている。
書籍『こころの最終講義』では以下のように書いている。
長年にわたって私は心理療法に従事してきた。それをはじめた最初から、「心理療法は 「科学であるか」という問いが重くのしかかっていて、それについてずっと考え続けながら、 この仕事をしてきたと言っていいだろう。 心理療法が科学であることを相当に確信している人もあるし、そんな「非科学的なものは信用できない」と高言する人もある。私はそのどちらにも単純に賛成できなかった。そして、いろいろと考え続けているうちに、最近になって、思いついたひとつのキーワードが「物語」ということであった。
社会を見ると大変なことばかりある世の中だが、
人は「物語」によって強くなることができる。
また、自身のアイデンティを深めるような「魂の物語」が分かれば、
より本質的な自己に根付いたアイデンティティが強固になり、
それによって強い精神を持つこともできる。
ユングの場合は、その物語を辿るために「神話」にまで行き着いたため、
それぞれの国の宗教の根幹にある神話を重要視していた。
自分の物語を探った場合、壮大な「神話」にまで行き着くかどうかはまた、
人それぞれの問題になってくるが・・・
日常よりの物語を持つ人もいるかもしれないし、神話よりの物語を持つ人もいるかもしれない。
社会全体、地球全体で色んな人が生きていることを踏まえると、
日常を生きることにこだわる役割の人もいるし、神話に向かって生きる役割の人もいる。
それは各々のタイプ次第となるし、各々のタイプや役割を整理するために、タイプ論的な思考が必要になってくるかもしれない。
神話にタイプ論・・・その背景にある構造を明らかにするとなると、スピリチュアルや哲学にも繋がってくるし、
さらに色んな分野が繋がることで、もっと色んなことが分かってくるかもしれない。
現代社会で自然科学が強固になっているのは必然的なことだが、
そんな社会だからこそ、「自分の物語を持つこと」をヒントに世の中を生きてみてはどうだろうか?
河合隼雄さんの書籍を読み直すと、
そんなメッセージがあることが分かってくる。