不定期連載『変換人型ゲシュタルト論』シリーズ。 記事一覧はこちら。
『次元観察子ψ6』については今回で最後にしよう。
最後は「他者化」についてである。
「他者化」については以下の『「自己」を見つけるために』の項でも説明した。
「他者化」とは、端的に説明するならば・・・
「完全に他者になりきるように、他者みたいな存在と自分が同一化すること」みたいな意味である。
例えば、自身が警察官のような仕事をしていたとしよう。その仕事が本当に自分自身で選んだものであるならば良いかもしれないが、親の意見に従ったからそうなったとか、公務員として安定しているからその仕事を選んだとか、親や社会の言葉の影響が強かった場合はどうなるのだろうか?
そうなると、自己が本当に警察官を望んでいるわけでもないのに、警察官としての「他者」になりきらなければいけなくなってしまう。「警察官」という存在と同一化することで、本来の自己から離れるようになってしまう。
そのような同一化現象が「他者化」である。
こうした例は、一般的な会社員でも当てはまるし、専業主婦でも当てはまる。
人は自分自身の意識で人生を選んでいるようであるが、その意識は「他者」の影響を受けることが多い。
だから、普通に生きているつもりでも、うっすらと「他者化」をして生きているかもしれない。
そして、そうした「他者化」が意味する「他者」は『次元観察子ψ6』にある「他者」とほとんど同義である。
自己探求の道の中心には『次元観察子ψ5』があるように、他者探究の道の中心には『次元観察子ψ6』がある。
ヌーソロジーはそうした「他者化」と逆の方向を目指すため、それを理解することがヌーソロジーを学ぶ前提として重要である。
他者化と4大欲求
また、以下の記事でも「他者化」についてを説明していた。
ここでは物質世界における4つの大きな「欲求」として、「金」「暴力」「セックス」「承認」の4つを挙げた。
これらをここでは「4大欲求」と呼ぶことにしよう。
大体、人間はこうした欲求にシンプルに翻弄されやすいのは心当たりがあるだろう。
たから、多くの他者はこうした欲求を満たすように動いているし、社会はそれによって動いている。
これらの欲求を満たして生きていれば幸せになれるのならば、そのための努力をしていけば良いだけなのだが、人生はそんなに単純ではない。
加えて、それらの欲求に加えて、人間は常に「他者の言葉」にさらされている性質がある。
だからそれに乗せられて没頭すると、他者化してしまうのである。
例えば、親や学校に「良い人間になりなさい」と言われ続けたらそれに影響されることもあるし…
テレビメディアや広告メディアが提示する「カッコ良い人間になろう」みたいなメッセージに影響されることもある。
このように、言葉と人間の関係は切っても切ることができない。
誰もが抱えている問題であるため、人間社会は常にその問題が発生するものである。
他者化を判断するための指標となるもの
言葉に影響されることは人間だったら誰でも起きることだが、どうなったら「他者化している」と明確に言えるのだろうか?
その境目は曖昧であるから判断が難しい。
他者化しているかの指標になるキーワードの一つは「善悪二元論」である。
善悪二元論とは、何か特定の生き方や考え方を善とし、そうでないものを悪と考えることである。
例えば、真面目に勉強して良い企業の会社員になって普通の人生を生きることを「善」とするなら、そうでない生き方が「悪い」となる。
あるいは、キリスト教が信じられているような文化の場合は、キリスト教を信じるような生き方が「善」であり、そうでない生き方は「悪い」となる。
このように「良い / 悪い」のジャッジをはっきりさせて物事を考えていくことが、善悪二元論である。
こうしたことは誰でも考えることだが、それが行き過ぎてないか、強固過ぎてないかが大事である。
とはいえ、何が善で何が悪なのか・・・非常に難しい問題だと思う。
世間で常識とされてることが大体正しい場合もあれば、実はそれは権威を持っている人が決めたことで万人向けではなくて、正しいとは言えないこともある。
逆に、そうした世間で言われていることに逆らうことが正しい場合もあるが、それはそれで必ず正しいとも限らない。
よくよく考えて正しい善だと思ったことを実行している分には良いが・・・
善悪観が極端だったら要注意である。
よくよく考えたらズレてるような価値観を他者に押しつけていたり、あまりにも行き過ぎてるものがあれば他者化しているかもしれない。
また、正しいと思ったことが実は誰かの「言葉」によって膨張されていたことであり、真実とズレていることもある。
善悪二元論もまた、言葉によって強固になる。
例えば宗教だと・・・特定の国の宗教の戒律や聖書に書いてあることが「正しい」としたら、それに反する者達が正しくないことが強固になる。
例えばメディアだと・・・テレビメディアにせよネットメディアにせよ、大衆はそこで言われている言葉につい影響を受けてしまい、メディアに操作されるように思想が強固になることはよくあることである。
そうした言葉によって本来の自身が望むものと違うものになってしまったら他者化しているし、自身の思想を他者へ強引に押しつけることまでしていたら、それも他者化している。
また、そうした言葉で提示されていることが、真実とズレていればズレているほど良くない方向に行っている。
4大欲求みたいなものが加速し、自身の自我にとって都合の良いものを信じるように物事を認識していて、善悪観が極端に歪み、実は真実とはズレたことをやっているかもしれない。
我々人間は誰しも4大欲求のようなものを持っているし、言葉を扱って生きている。
だからこうした問題は誰しもおちいりやすい難しい問題なので・・・皆そうしたことに気をつけて社会を生きていかなければいけないわけである。
他者化は悪いことなのか?
さて、これまで他者化をネガティブなもののように説明してきたが・・・一概にそうとは言えないものでもある。
ここで、「孔子と老子」の話を思いだそう。
老子側の思想を「陰」と捉え、孔子側の思想を「陽」と捉えると、双方はそれぞれ『ノウス(NOOS)』と『ノス(NOS)』に該当することを以前に説明した。
自己の方向へ行く「自己化」の道が老子の思想に通じてるように、他者の方向に行く「他者化」は孔子の思想に通じているわけである。
しかし、孔子の思想は悪かったと言えるのだろうか?
彼自身は「仁(思いやりの心)」を至上とし、仁を持っていて賢い者が国王やリーダーになれば世の中が良くなるという思想で頑張っていた人だった。
「孔子の言葉」は後世において強烈なものとして残り、その言葉がまた他者化を引き起こし、孔子の思想通りに世の中が動かない負の連鎖が続いていく結果になってしまっているが・・・
それでもそうした言葉を受けて、国家のために尽くそうとして他者のために動くことは決して悪いことではない。
他者化は悪い結果を起こすものでもあるが、国家のため、世の中のため、社会のため、他者のために動いていくには、そのリスクを負わないといけないものでもある。
このように、他者化を決してネガティブなものとして捉えないことも、ヌーソロジーを深めていくにおいて大切なことである。
画一化、他者化、他者の哲学
それから、「他者化」は言い換えるならば「画一化」でもある。
より合理的な他者になることは、画一的な人間になることと同義である。
「画一化」が社会にとって合理的だから行われる例はたくさんある。
まず、単純に軍隊は画一的なものを持っていると強い。画一的に「勝てる行動」を忠実にできる兵が多い軍隊は、それだけで強力な戦術を持っている。
営業マンもまずは画一的な方が良く、画一的な大衆を相手にした方が稼ぐことがやりやすい。
プログラマーも画一的な思考で画一的なスキルを一つは身につけた方が良く、独自の発想で考えるのはそれを学びながらにした方が良い。
デザイナーも画一的でグローバルに通用しやすいデザインを一つ学んだ方が世間で通用しやすい。
スマートフォンだって、iPhoneのようになるべく完成度の高い画一的なデザインがされてて、かつ使いやすく設計されたものが普及していた方が便利だと言える。
このように、「画一化」はつきつめるだけで一つの大きな教材になる、非常に奥が深い分野で、つきつめていくと多大な時間を要するものなのだが・・・
社会を変えるためには必要なことであり、そうした社会の中で物事を学ぶのが人間のやるべきことなのではないだろうか?
こうした類の話はヌーソロジーとは真逆の方向性のものなのであるが・・・ビジネスや社会に通じる話なため、よく考えた方が良いだろう。
また、そうした「他者の哲学」を考えて理解することもまた、それより上位の次元を理解するためのカギになるかもしれない・・・
(続く)
2013:The Day God Sees God 人類が神を見る日 [ digital edition ]
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