最近、中沢新一さんの書籍『ポケモンの神話学』を読みました。
めちゃくちゃ今更感がありますけど・・・
この本はもともとあった『ポケットの中の野生』(2004年に出版)のリメイクで、
2016年に「ポケモンGo」のブームを受けて加筆修正して改題して『ポケモンの神話学』として出版されたようです。
中沢新一さんは思想家、人類学者、宗教史学者…など多様な肩書きを持ってる学者ですが、
そんな人が持ち前の宗教学や精神分析学の知識を活かしてポケモンの魅力を真面目に分析して語りつくしてできたものがこの本です。
内容は精神分析学や民俗学の用語も交えるもので、
「対象a」とか「タナトス」とか「トーテミズム」とかいう言葉まで使って
かなり深くとらえようとするため、難解なものも多いですが、
ポケモンの魅力を改めて考えるのに良いヒントにもなるものと言えるでしょう。
ちなみに、自分(Raimu)とポケモンとの付き合いはもうそれはそれは長いもので、
自分が小学生の時(確か小学校3年生ぐらい)からブームに乗っかってやってて、
以下のCMがやってた時から知っていました。
このCMも懐かしいもので、「昔のポケモンはこんなレトロなものだった」というのを思い出します。
それから、ルビー・サファイア、ダイヤモンド・パール辺りからは一旦ポケモンから離れるようになりますが・・・
X・Y辺りから再びポケモンに戻ってきて、また全シリーズをやり始めるようなハマり具合になっています。
中沢新一さんの『ポケモンの神話学』を読んでいたら、
自分もポケモンの魅力について改めて考えて、
それについて書きたくなってきました。
ポケモンの魅力まとめ
もちろん、ポケモンはゲームなので普通のゲームとしての面白さもあります。
RPGとしての面白さ、とか、
対戦ゲームとしての面白さ、とか、
ポップなグラフィックによる刺激的な面白さ、とか、
キャラクターが可愛いからこその面白さ、とか、
ゲームとして当たり前の面白さも多く含むため
そうした普通の面白さ要素ももちろんありますが・・・
それらは除くようにして、
中沢新一さんが言及しているようなポケモンの面白さを踏まえつつ、
ポケモンの魅力の要点を自分なりにまとめてみると、
以下のようになると思いました。
・野生の虫取りのような面白さ
・モンスターの可能性
・モンスターボールというコンセプト
・レトロゲーム的な良さ
・相棒モンスターを持つ魅力
それぞれについて書いていこうと思います。
野生の虫取りのような面白さ
これはポケモンの魅力として一番有名なものです。
ポケモンの生みの親であるゲームクリエイターの田尻智さんが、
子供の頃にやってた虫取り遊びをヒントに閃いて、ポケモンが作られたことに由来します。
そして、当初のポケモンが画期的なものとなったのは通信ケーブルの存在で、
ゲームボーイのソフト内でできたモンスターのデータがソフト内だけでは完結せず、他のソフトへ送ったり、貰ったり、対戦することができました。
そもそもゲームボーイには当初から通信ケーブルの存在はあったものの、それを活かしたゲームはほとんどありませんでした。
しかし、その機能を活かしたことが大ヒットにつながったのも有名な話です。
「交換」や「対戦」による他ソフトとのやり取りが画期的であり、これによって「電子空間の中に生き物がいる感じ」が増しました。
そして、電子空間の中の生き物を、電子空間内の冒険で集める楽しさも増して、ポケモンが目指す「野生の虫取りのような面白さ」が存分に発揮されるようになりました。
それから、モンスターのデザインが自然にいる感じなのもウケたと言えるでしょう。
初代御三家と呼ばれるヒトカゲ・フシギダネ・ゼニガメの三体が特に有名で、この三体は自分が子供の頃もみんなにとても好かれてた覚えがあります。
他にも、中沢新一さんがお気に入りなニョロモとか(あの渦巻き模様は実際のオタマジャクシを元にデザインされている)がいて、自然の中にいる感じのデザインが良いと評されていました。
デザイン的に「自然の中にいる生き物」って感じのモンスターだと、虫取り遊びのように子供の好奇心をより旺盛にさせることができます。
(しかしながら、これはモンスターデザイン次第の問題でもあるため、シリーズが進むにつれて多様なキャラが増えて、だんだんと難航してくることにもなります。)
モンスターの可能性
次いで、モンスターの可能性についてですが、
「モンスター」というのは如何に精神分析学的に奥が深い存在なのか?については、
中沢新一さんはかなり深掘りして言及していました。
書籍では『インベーダー』や『ウルトラマン』の話もしていて、そこに出てくるモンスターや怪獣が持つ「どこから来るのかわからない」「つぎつぎと際限なくあられる」といった性質についてを挙げていて、その存在を重要視していました。
そこから、精神分析学的な考察に入っていきます。
われわれは無数のものを認識しながら世界を生きている中で、意識の中に「へり」(池・穴などに接したすぐそば。そのものに入るすぐ手前)のようなものを持っていて、その「へり」の部分は、なんとも言語化しづらいものとか、意識化したい欲動があるんだけどはっきり意識化しづらいものとか・・・そんなものがあるらしいです。
(書籍ではそれを「対象a」と呼んで説明されています。)
そして、そうした「へり」からさまざまなかたちをとって現れてくる、なんとも言えない存在が表象してくることがあって、その象徴として「モンスター」が出てくることがあるらしいです。
言い換えると、われわれの無意識にある精神で、「重要な気がするんだけどなんだか言語化がしづらいあやふやなもの」が「モンスター」として出てくることがあるし、
また、「モンスター」を見るとそうしたものを連想して、親しみたくなることもあるわけです。
とにかく「未知のものと出会う体験」が人間にとって大事であり、そこには人間の無意識が望むものもあり、その象徴として「モンスター」があるみたいなことを、中沢新一さんは言いたいようでした。
そして、ポケモンのストーリーはそうしたモンスターを、ライバルと戦わせたり、友達と戦わせたりします。
敵役はいるものの、完全懲悪がすべてな世界観とは違う感じであり、ライバルとの「競争」や「対戦」の方が大事な世界観となっています。
これらのモンスターは自らの意識の「へり」にある「精神」の比喩かもしれず、己の「精神」の象徴たるモンスターをバトルさせるのは、一種の他者との「対話」とも言えるかもしれません。
だから「モンスターを戦わせる」というコンセプトがウケたわけです。
あとは、モンスター系のゲームは当然ながらモンスターデザイン次第でクオリティが決まるため、
ポケモンはブランド力を活かして高いクオリティを維持するようにしていると言えるでしょう。
モンスターボールというコンセプト
ポケモンはモンスターを戦わせるゲームですが、ただモンスターがいるだけだったら、普通にペットを飼うみたい自分のそばにおいて、そのまま戦わせたりすれば良いものでした。
ポケモンのアイディアでそれよりも+αになっているのは「モンスターボール」の存在です。
ただのモンスターゲームだったらこの発想はなく、ポケモンにあって他のゲームにはないユニーク要素がこれになります。
何故、このアイディアが導入されたのか?
モンスターがコンパクトに収まった方が、世界観の運用上都合が良いというのもあるかもしれないし、通信ケーブルでモンスターを交換できるようにするには、モンスターボールのようにコンパクトに収めたり、データとしてパソコンに預けたりできた方が、世界観の設定として便利でしっくりくる・・・といった理由もあるかもしれませんが・・・
中沢新一さんは「知性」というワードを使ってその重要性を説明しています。
モンスターボールは、ポケモンの世界観的にはテクノロジーによって生み出されたものであり、いわば人間の「知性」の象徴となっています。
そして、モンスターボールによってモンスターを「縮減化」して、パソコン通信でやり取りできるデータにまですることを「世界を知性の対象に変える働き」というように解釈されていました。
つまり、モンスターを「知性」によって自在に扱うことができるというコンセプトが重要なものとなっていて、「モンスターボール」はその象徴となっているわけです。
レトロゲーム的な良さ
ポケモンにはレトロゲーム的な良さがあります・・・いや、正確には「あった」ものでした。
これはゲームボーイで発売された「初代ポケットモンスター」に限定した話になります。
昔のポケモンのドット絵は、今みたいに綺麗な感じではないけど独特の雰囲気がありました。
それが良かったのもあるかもしれません。
中沢新一さんは、ポケモンと似たような表現に「ラスコー洞窟」というものを挙げていました。
それはフランスの西南部ドルドーニュ県にある不思議な洞窟であり、そこには馬・山羊・羊・野牛・鹿・かもしか・人間・幾何学模様の彩画・・・と様々な壁画が描かれているそうです。
その壁画は古代オーリニャック文化で残されたものとされ、描かれた時期は、なんと20,000年前の後期旧石器時代のクロマニョン人にまでさかのぼるらしいです。
中沢新一さんは、古代のラスコー人がこうした壁画を描いていたことについて、言語化しづらいものを表現するための「魔術」に近い思考法である、とまで書いています。
そして、ポケモンのドット絵の雰囲気もそれに近いと言えるのではないか?
と中沢新一さんは言いたいわけです。
さらに、中沢新一さんが好きだった『インベーダーゲーム』の話をすると、素朴な真っ黒な画面から、光の固まりである「インベーダー」がふわっと出現して、ひらひらと飛行して、そしてまたふっと消えていってしまう様は、「まるで素粒子みたいだな」と感じたそうでした。
このように、よりレトロなグラフィックで構成された記号ほど、「未知なる存在」や「未知なるモンスター」の魅力が引き立つことがあります。
当然、これはゲームの進化によって無くなってくる要素であり、最新のゲームになるほど、どちらかというと「表現の幅が広がったことを活かした表現」に向かうようになっていきます。
相棒モンスターを持つ感覚
最後の締めくくりとして重要なのはこれかな?と思います。
モンスター系のゲームの特徴として、大体、みんなお気に入りのモンスターを見つけます。
そして、ポケモンではそれを相棒のように扱っていきます。
ポケモンのアニメだと、主人公サトシにとってのピカチュウが一番有名ですが、
他の人もそれぞれそんなモンスターを持つようになっているでしょう。
これは「モンスターの可能性」に加わった魅力であり、相棒モンスターの存在が、人間にとってより重要なものになっているわけです。
ポップ化によって消えゆくもの
以上。ポケモンの魅力で一番重要と思われる要素を挙げていきました。
これらはポケモンの本質と言えるものですが、もちろん、ポケモンには商業的なゲームとしての本質も持っています。
商業的なゲームとしての本質とは、やはり売り上げを伸ばすためにより楽しくするための要素であり、グッズ展開や海外展開も考えて、マーケティング戦略的により広げていくためにゲームを運用することです。
そんな感じで、商品として売られたゲームは、どんどん「ポップ化」もとい「大衆化」して広がるようになります。
そして、そんなポップ化によって遠ざかっていくポケモンの魅力もあります。
このことについては、ポケモン発案者の田尻智さんも気にしていて、
書籍『ポケモンの神話学』の最後の方で以下のように書いています。
ところで『ポケットの中の野生』の書かれた当時の「ポケモン」は、現在の「ポケモン」観とは異なっていることに御注意申し上げたい。
中沢さんの取材をお受けした一九九七年三月の時点での「ポケモン」の世界は、オリジナルそのままの姿形をしていた。世の中にはゲームボーイの「ポケモン」だけが存在していた。中沢さんとの対話は、この絶妙なタイミングで行われたと思う。
ちょうどその瞬間、小学生を中心に「ポケモン」人気は急拡大の過程にあった。一九九七年三月にゲームソフトとして累計出荷本数三百万本を突破している。翌四月一日からはテレビアニメ「ポケットモンスター」が、テレビ東京系六局、地方局二十四局で放映される直前であった。このアニメが始まり、一度観てしまうとピカチュウが「ポケモン」の代名詞のような強烈な印象を受ける。
<中略>
しかしこの時期を境にゲームとアニメのどちらか、あるいは両方の体験をしたかどうかで、物語のリアリティにズレが生じている。
時を置かず、一九九七年にゲーム、アニメ、カード、マンガ、および関連商品群の販売数が一気に広がった。
中沢新一さんが言っていたのは、あくまで「ゲームのポケットモンスター」(それも初代のもの)であり、「アニメのポケットモンスター」がまたそれとは違ったイメージの「ポケモン」として広まることになり、さらにそれはアニメだけでなく、カードが出たりマンガが出たりグッズが出たり・・・キャラクターグッズとしてどんどん展開されるようになっていきました。
加えて、ゲームの内容もゲームボーイ⇒ゲームボーイカラー⇒ゲームボーイアドバンス⇒ニンテンドーDS⇒ニンテンドー3DS⇒ニンテンドーSwitchと・・・ハードが変わるごとにどんどん更新されていってます。
モンスターのデザインも、第2世代、第3世代、第4世代、第5世代と・・・今は第8世代まで続いていることで、どんどん改変されていき、その中でポップなものが目立つようにもなっています。
※ちなみに、8世代までだと全部で約898種類のポケモンがいることになる
さらに、世界中で人気が出ることで海外展開が進むようになったため、その影響も大きいです。
最近だと、アメリカが作ったような公式ムービーまであります。
これはこれで面白いんだけど、中沢新一さんが注目した要素と比べるとどうなんでしょう?
そうやってポケモンがポップ化していくことで、
以下の魅力はどのようになっているでしょうか?
①野生の虫取りのような面白さ
②モンスターの可能性
③モンスターボールというコンセプト
④レトロゲーム的な良さ
⑤相棒モンスターを持つ魅力
①のような野性味はいくらか失われているかもしれません。
②のようなモンスターの可能性は、キャラクターゲームとしての大衆性が混じってくる感じになってるかもしれません。
そもそも、中沢新一さんの言う「モンスター」と、例えばディズニーが作るような「キャラクター」みたいなのは恐らく別物で、ポケモンの場合だとそれらが混じるような状態になってきます。
④のレトロさも、ゲームがどんどん進化していくことで当然失われていきます。
その代わり、グラフィックが綺麗になり、表現の幅が増えるようになっています。
そのため、シナリオとか音楽とか景色とかキャラクター(人物)に力を入れてるのが最近の傾向と言えるかもしれません。
そんな感じで、技術が発展することによって得た利点を活かすような方向へ、ポケモンというコンテンツが進化していってるのだと思います。
それから、いつまでも魅力として残りそうなのはやっぱり⑤かな?と思います。
相棒ポケモンを持つ楽しさに関しては、いつまでも残るものとなるでしょう。
(まぁ、ガチ対戦とかだととにかく強いポケモンが使われる傾向に偏るので、それも難しいことがあるけど……)
ポケモン公式でBUMP OF CHICKENが作ったミュージックビデオ『GOTCHA!』でも、そんな相棒ポケモンへの愛が表現されているようです。
最新作で復活した魅力
田尻智さんは書籍『ポケモンの神話学』(旧タイトルは『ポケットの中の野生』)で
最後にこんな言葉で締めています。
「ポケモン」の世界を支える柱を見つめていると、あたかも無数の点が増えていくようである。 『ポケットの中の野生』の生々しい感触も遠ざかる気さえしてくる。 しかし、ディテールを取り戻そうと神経を研ぎすませてみると、 元の世界へ戻るヒントが見えてくる。 自然と科学の力のバランスを均衡させたとき、数字の重要なものとそうでないものが分けられ「ポケモン」の本当の姿が戻ってくるのである。
田尻智さんのこの言葉こそ、ポケモンが目指したいことのすべてが表れていると思います。
ポップ化によって野生の生々しい感覚から遠ざかることを懸念しつつも、新しい物事に挑戦して原点に戻ることを試行錯誤したい。
ポケモンの生みの親のそんな姿勢がここに書かれているようです。
ゲームフリークは任天堂に追従して、今後もそういう確固たる理念を持ってゲームを作っていって欲しいです。
そして、2022年の最近発売された『Pokémon LEGENDS アルセウス』では
そんな理念が実現できたのか、画期的な出来栄えとなっていました。
綺麗なグラフィックが作れるニンテンドーSwitchの機能を最大限に活かして、『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』のようなオープンワールド風の要素を取り入れながらも、野生にいるモンスターを捕まえる楽しさを新たなやり方で蘇らせたような・・・そんな魅力のある内容となっています。
加えて、世界観も和風と古風を強調していて、これも新たな表現への挑戦となっているし、「ポケモンは恐いものだ」という世界観へと一新したことも画期的です。
ゲームフリークがこのようなゲームを作ってくれて大変嬉しいため、今後もその活躍に期待したいです。
やっぱり自然も大事にしたい
さて、最近は新型コロナの影響で子供たちの間でも自宅遊びが増えていて、ゲームの需要が飛躍的に増加しているご時世となりました。
自分(Raimu)も小学校の頃からスーパーファミコンやゲームボーイ、そして初代のポケモンをバリバリやってたゲーム世代ではあります。
しかし、小学校時代に関しては、割と外で遊んで自然と触れてた記憶もあって、保育園の時にザリガニを触ってた時のことなんかもよく覚えています。
ゲームが一番合理的に楽に面白いことができるツールになるのはよく分かるし、ポケモンで済ませられるならポケモンで済ますのが楽なのも分かりますが・・・
「できれば、本当は」という感じで、自然で楽しめるものなら自然で楽しみたいとも思います。
具体的には「虫取り」や「釣り」あたりで遊ぶのが妥当になるんでしょうか?
とにかく、自然の生き物にとりあえず触るような機会や、そうした遊びができれば欲しいものだと思います。
やはり、むしろそういう原点を大事にするためのポケモンであって欲しいな・・・と、よく思ったりします。