宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』という書籍を読みました。
これはちょっと一昔前に出た書籍で、ゼロ年代(2000年代)とそれ以前の作品から分析する大衆心理の変容みたいな批評本でした。
ちょっと昔に書かれた本とはいえ、現代社会の流れがよく読めてくるような内容で面白かったです。
導入部。1990年以前~2000年以降で起きたこと
まず、導入として書かれていたのは1960年代以前の話。
それは、高度経済成長期やテレビの普及があり、国民全体が一丸となることができた時代でした。
物質的には貧しく社会的に不自由でしたが、「大きな物語」が機能しやすく、「生きる意味」や「信じ得る価値」を持つことが割と容易で「モノはなくても物語はある」社会に近かった・・・ということが言われています。
1970年代に入り、そんな社会が徐々に崩壊していって、特に1995年が大きい転機となり一気に崩れていくことになります。
それから、「大きな物語」が失われた社会となり、「生きる意味」や「信じ得る価値」を社会に求めるのが難しい時代になりました。
批評家の東浩紀がその状況を日本における近代の崩壊として、
フランスの哲学を引用して「ポストモダン時代」と呼びました。
「大きな物語」が大きく崩れた1995年以降、サブカルチャーの文脈において、若者たちにはどういう思想が芽生えていったのか?
こうした問題に対しては、無力な立場の者はしばしば「行為によって状況を変える」ことより、「自分を納得させる理由を考える」ことで問題の解決が図られていきます。
1995年。アニメ史において一つの象徴的な出来事となったのが『新世紀エヴァンゲリオン』の放映。
主人公の碇シンジは、父親が司令官を務める組織に召還され、そこで「エヴァ」というロボットに乗って人類のために戦わされることになります。
しかし、そう簡単には上手くは行かず、父である碇ゲンドウから逃げようとしたり、エヴァに乗ることを拒否したり、内面に引きこもろうとするシーンが何度かある中で物語が進んでいきます。
そして、なんとか戦いに向かっていくことになりながらも、その決断は結果として人を傷つけることにもなってしまいます。
「社会が理不尽なゲームなら、そのゲームに参加しようとしない」という態度・・・
それから、「何かを選択すると誤ってしまうので、何も選択しない」という態度。
これらは、「引きこもり」の思想の象徴となりました。
しかし、2001年頃からそれも変化していきます。
小泉純一郎によるネオリベラリズム的な構造改革や、9.11のアメリカ同時多発テロ。
「格差社会」の意識や、社会にある危機感が浸透していき、頑張っていないと「自己責任」として切り捨てられる社会になっていきました。
そうした中でサヴァイバル志向が出てきて、アニメや漫画やドラマなどにおいて「サヴァイヴ系」と呼べる作品が増えてきました。
「大きな物語」が無くなり、さらに引きこもることもできなくなった状況の中で、「小さな物語」を中心的な価値として、自己責任で選択していくしかないという現実が突きつけられていきます。
以上の展開をざっくり言うと、
1995年からの引きこもり思想から、
2001年からのサヴァイブ思想への移行・・・という流れになります。
・・・こうした経緯がある中、90年代後半から00年代以降にかけて、アニメ・漫画・ドラマといった媒体で、その時代を象徴するような作品が出てきて・・・
それが「セカイ系」とか「サヴァイヴ系」とか「空気系」などとカテゴライズされています。
これらの特徴的な作品分類について書いていこうと思います。
代表的なジャンルについて
とりあえず代表的なジャンルと言える、
「セカイ系」「サヴァイヴ系」「空気系」、それから「学園青春モノ」
について書いていきます。
オタク界隈では有名なジャンル。
「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」 ・・・と説明される。
1995年放映の『新世紀エヴァンゲリオン』に代表される。
また、2000年代にも、ポスト・エヴァの残留のように
セカイ系の作品がポツポツと出てくるようになる。
内容は様々あるものの、極端な関係性から、
極まったような特徴を持つ作品が多く、強い影響力を持つ。
~代表作品~
『新世紀エヴァンゲリオン』、『Kanon』、『ほしのこえ』、
『最終兵器彼女』、『涼宮ハルヒの憂鬱』
~関連ワード~
【引きこもり】
セカイ系にあるシナリオ作りの手法自体は、究極の哲学にも近いもので、
極まったシナリオによるヒット作は、およそ天才にしか作り出せないと思われる。
問題はヒット作品の内容。
『新世紀エヴァンゲリオン』で何より特徴的なのは、主人公シンジ君の性格。
父親や組織の命令からなんども拒否しつつ、
戦った先で人を傷つけることになったら、またさらに内面に引きこもることになる。
こうした「理不尽な動員ゲームから、逃げようとする引きこもりの心理」に、
若い世代が共感してヒットした。
それから、「ポスト・エヴァ」として出てきたセカイ系の代表作である『Kanon』は、
一般的にエロゲーと言われるジャンル。
その他、『AIR』や『CLANNAD』といったKey関連の作品は、
(セカイ系に該当するかはさておき) ある種の人達に大きな影響を及ぼしてる。
こうした作品は、肥大化した母性至上主義や、
ポルノ・ファンタジーともしばしば結びついている。
ただ、『涼宮ハルヒの憂鬱』に関しては「引きこもり」文脈とは別とされるし、
セカイ系にも色々あると言える。
「生き残りゲーム」というコンセプト色が強いジャンル。
2003年に出てきた『DEATH NOTE』に代表される。
社会の状況や、与えらたゲームには理不尽極まりないが、
それをとにかく「攻略して生きていく」ということに主眼を置いた内容。
書籍『ゼロ年代の想像力』では、
「それまでの社会(のルール)が壊れたことに衝撃を受けて引きこもるのが碇シンジなら、社会の既存のルールが壊れていることは『当たり前のこと』として受け入れ、それを自分の力で再構築していこうとするのが夜神月なのである。」などと説明される。
ドラマ化された作品だと、『野ブタをプロデュース』とかがある。
これも学園内における人間関係攻略が主眼にあり、
身近にあるサヴァイヴゲーム的な内容と言えるものだった。
~代表作品~
『DEATH NOTE』、『野ブタをプロデュース』、『バトルロワイヤル』、
『Fate/StayNight』、『コードギアス 反逆のルルーシュ』
~関連ワード~
【決断主義】
とにかく「決断」をして生き残ろうという風潮。
その結果、人が傷ついてもかまわないというものでもある。
小泉内閣登場から、「自己責任」というワードのもと、
作られていく格差社会など、政治的事情も関係している。
社会にとっては相応しい姿と言える一方で、人を傷つけることをものともしない態度や、
自らの立場は本当に正しいものなのか疑問をもたない方向性でもある。
決断主義は時に暴走し、殺伐とした状況を作る危険性も含んでいる。
こうした「決断主義」の力は、昔から人間の諸悪としても根付いている力でもある。
(『DEATH NOTE』の結末も、死後の世界も天国も地獄も否定している、
人間中心論的で、唯物論的なものだったと言える。)
「引きこもり」と「決断主義」の二つは対の関係になっていて、正反対の性質を持つが、
「決断主義」は、夜神月のように魅力的に写る一方で、
「引きこもり」側にはそれを止める力がない。
従って、決断したものが生き残るデスゲーム的な風潮をどう止めるか?が、
社会において大きな課題となる。
【空気系】
別名「日常系」とも呼ばれる。 日常を淡々と流れていく様を描いているだけだが、
作品としてゆるやかな楽しさが盛り込まれていて、エンターテイメントとして機能している。
強いメッセージ性があるわけではないが、癒し性能が高く、
「空気」のような存在感を持つことから、「空気系」と呼ばれるようになった。
とにかくユル~い感じの内容のジャンル。
『Kanon』や『涼宮ハルヒの憂鬱』を作った京都アニメーションが、
続けて『らき☆すた』や『けいおん!』を作っていったので、
それらが代表作品としてよく挙げられる。
他にも、「空気系」の成立以降、近いようにユル~い感じの作品が大量に出てくるようになる。
これらは、脱サヴァイヴ系の風潮とも解釈することができる。
~代表作品~
『らき☆すた』、『けいおん!』、『あずまんが大王』、『ひだまりスケッチ』
先に述べた「空気系」の元祖とも説明されてるけど・・・一応区別しておく。
空気系よりも現実に近い内容で、身近な人同士で「つながり」を作ることや、
連帯感を持つことによって、日常の中での達成感を味わうもの。
セカイ系やサヴァイヴ系で表現される極端な世界観でなく、
現実の生活の中に「ロマン」を求めるという、
「ロマン主義」に通じる所があるのがこの辺の作品の特徴。
「空気系」よりも内容が現実的である場合や、
シリアス入りのストーリーである場合、こっちに該当すると思う。
漫画だと『もやしもん』あたりも該当する? これは学術的内容が入るのでややマニアック。
あと、『涼宮ハルヒの憂鬱』も、「セカイ系」でいながら、
学園祭でのライブシーンに繋がるあたり、この要素を持つと言われている。
~代表作品~
『ウォーターボーイズ』、『パーランマウム』、『スウィングガールズ』、『もやしもん』
座標マッピング
以上、「セカイ系」「サヴァイヴ系」「空気系」といったジャンルについてでした。
これらのジャンルを座標にして整理したら、しっくりくる図ができました。
「空気系」は、舞台が現実に近い場合と、ファンタジーに近い場合があるので、
「空気系(現実)」と「空気系(幻想)」の二つの傾向があるとしましょう。
今世の中に出回ってる作品逹も、以上の図のどこかに当てると、
大まかに該当するかもしれません。
昔からあるジャンル
書籍『ゼロ年代の想像力』で語られていた「昔からあるジャンル」に該当するものに、
「カウンターカルチャー」「ラブコメ」「純文学」「左翼的ロジック」などが挙げられるので、
それらについて書いていきます。
「大きな物語」に対して行われる、権威に反抗するための作品。
1960年代後半ぐらいからぼちぼち出てくるようになり、
アニメや漫画などのジャンルよりも、
どちらかというと、ロックなどの音楽の分野で盛り上がっていた。
先の書籍では『ブルーハーツ』(1985年)がその代表として挙げられているが、
それ以前に、『ザ・ビートルズ』といった
ロックミュージックにまでさかのぼる所にその潮流がある。
(さらに元をたどっていくと、近代科学や唯物論に対する、
オカルティズムやスピリチュアリズムの潮流にも行き着く。)
『ブルーハーツ』は、「僕たちは大きな物語には乗れないけれど、その分、真実を知っている」といった立場がウケたが、
「大きな物語」の消失によって、
「そもそも何に反抗したら良いか分からない」の状況に近くなって、
そうしたカウンターカルチャーがどんどん機能しにくくなっていった。
『ブルーハーツ』のコピーバンドをすることで、
学園青春活動を行う内容の『パーランマウム』という作品のように、
学園青春モノに変化するのが現代の潮流になった。
もはや説明不用。恋愛を絡めたコメディ。「ラブ・コメディ」の略称。
ポルノジャンルにもいくらか近い。
代表と言われる作家が、漫画家の『高橋留美子』で、
『うる星やつら』『めぞん一刻』『らんま1/2』『犬夜叉』などのヒット作で知られる。
「萌え」の元型を作ったとまで言われる、超大物古参の漫画家。
「空気系」の元型を書いてるとまで言われている。
それらの特徴として、書籍『ゼロ年代の想像力』では、
「ヒロインがその母性を拡大させて欲望の対象となる男性を、ふたりの物語を盛り上げる共同体ごと飲み込んでしまう」・・・という風に語られている。
「肥大化した母性」の危うさを持っていることが言及されていた。
しかし、その一方で、『犬夜叉』でまた方向性が変化し、
話の内容的に「母性」への脱却が見られたということについても語られていた。
高橋留美子さんに関して言えば、時代を象徴している、今後も期待できる作家である。
【純文学】
いわゆる、古くから続く文学の流れ。
先の本の著者は文学は否定したくはないが、
伝統文学には、情報社会から生まれたテキストや、ラノベといった文化を否定する風潮があり、
それには異を唱えたいらしい。
【左翼的ロジック】
「グローバル資本主義を無理やり大きな物語に見立てて物語批判によって脱構築しなければいけない」
とかなんとか。
1960年からグローバル資本主義が中心だった時代に通用していた、古典的で頭の固い考え方。
今の40代以降(現時点だと50代以降?)の批評家や知識人に多いらしい。
成熟してない情報から生まれた文化を軽く見て、
ライトノベルも初音ミクもAKBも取るに足らないものとして無視される。
そういう風潮はよろしくないと先の著者は言ってる。
先の著者の想い
あと、書籍『ゼロ年代の想像力』書かれていたこととして・・・
2000年代以前の批評はあるが、2000年代以後の批評が無かった。
2000年代以後の作品を取り扱い、全体のバランスを取るべく、色んな人を相手にしてきたが、中には発想が古くて話にならない人も結構いた。旧世代で新世代に関心を持つ人は、多いわけではない。
それはさておき、普段批評を読まない人の中には、魅力ある文化の仕組みや状況に、強い興味を持つ人もたいくさんいるので、そうした人たちの期待や需要に応えたい。
・・・みたいなことが書かれていました。
改訂版の『ゼロ年代の想像力』(2011/9/9出版)の最後の章では、ギリギリ3.11地震についてと、AKB48などについて書いてありましたが、主に2000年代の批評が中心でした。
なので、現時点で2010年代が終わりにさしかかってる中、2010年代を批評したらどうなるのかが気になりました。
・・・・以上。
書籍『ゼロ年代の想像力』は
まだまだ他にも色んな内容が書いてあるので、
気になった人は読んでみると良いと思います。