前回の続きです。
◆現代の若者意識、「さとり世代」「つくし世代」という言葉をよく考えてみる その1
~目次~
■「ゆとり世代」という言葉は使いません
■「さとり世代」について
■「つくし世代」について
■「大きな物語」が消失した社会での「つながり」
■オタク系の人の「つくし」行為
■自己軸の「さとり系」と、他者軸の「つくし系」
■昔の時代と今の時代
「大きな物語」が消失した社会での「つながり」
21世紀、現代社会は「大きな物語」が消失した社会と言われています。
昔の時代、戦後1945年から成長に向かっていった日本では、
高度経済成長していく夢を軸にしたような
「モノはなくとも物語がある」という風潮があり、
そこに「生きる意味」や「信じ得る価値」を見出していました。
しかし、そうしたものが徐々に崩れていく予兆が1970年代から既にあり、
最も大きなインパクトがあったのは1995年と言われています。
そこから、「大きな物語」が決定的に崩れていって、
個々人が持ってる「小さな物語」が乱立するようになりました。
こうした時代を、東浩紀という人はフランスの哲学を引用して
「ポストモダン時代」と呼びました。
書籍『つくし世代』では、新世代の転機は「1992年に小学校に入学した者」と言われています。
この時に、学習指導要領の改訂とか、バブル崩壊とか、
共働きをする家庭の数が過半数を越えるとか、
後のインターネット普及とかが出てくるようになります。
つまり、1990年代は変化が激しかった時なのだと思われます。
書籍『ゼロ年代の想像力』によると、
最も大きなインパクトがあったのは1995年で、
さらにそこから進んだ2000年代では、
漫画やアニメやドラマなどのカルチャーにおいて、
サヴァイバル志向の作品が増えたとのことでした。
◆書籍「ゼロ年代の想像力」に見る、作品分類について(セカイ系とかサヴァイヴ系とか)
加えて、テクノロジーの発展の方面では、
2000年代はインターネットの発達、無制限通信の可能、電子メールの普及、ケータイの普及、
さらに進むとMixiやTwitterといったSNSが登場してきて、
iPhoneから始まってスマホが普及していきます。
そうした中で、教育や雇用は相変わらず多くの問題を抱えていて、
「生きやすい」とは言えない世の中となっています。
・・・・以上が社会で起きている事象として、
そうした中で、若者はどう生きるのが理に適っているのか?
社会や大人があまり信用できない状況の中、
とにかく、「つながり」を作ることが大事となりました。
そして、「つながり」を作るツールとして、インターネットやケータイが鍵となっているわけです。
「つながり」を作るために「尽くす」。
これが「つくし世代」みたいな考え方の基本動機になるでしょう。
そもそも、日本人は昔から「共同体」を大事にする文化を持っているので、
「尽くす性格」は元々もってたりします。
ただ、現代はその「尽くし」の対象が、「村」とか「国」とか「お上」とか「会社」とかではなく、
「インターネット」を通じた横のつながりが多くできるようになった。
そう捉えると良いと思います。
オタク系の人の「つくし」行為
「つくし世代」は、「尽くし」をする世代ということで、
ボランティアをやって、パーティをやって、みんなを楽しませて、あわよくば恋愛して・・・
そうしたアクティブな場所の中で「尽くし」をするのは、
あくまで「パリピ」とか「リア充」とか呼ばれる人達のやり方です。
中には、そういうのを得意としない「オタク」な人もいます。
「オタク」は「尽くし」をしないのだろうか?
・・・と思いきや、全然そんなことは無かった。
インターネット上の創作カルチャーはすさまじいものがあります。
外に出て活動するのが苦手なタイプでも、
絵、テキスト、音楽、何かしらの情報処理のスキルがあれば、
インターネット上にアップできるようになりました。
これは、「デジタル社会における尽くし活動」と言えます。
ネット上で素晴らしい創作活動をしてる人がいたら「ネ申」(神)として称賛され、
ニコニコ動画では、お金を振り込みたいぐらいの作品をアップすると、
「振り込めない詐欺」というタグが付いて、これまた称賛コメントの嵐となります。
プログラミング開発の世界においても、
「フリーソフト」や「情報提供」の文化がかなり重要で、
時にはそれが生命線となることもあります。
便利なものを作ってフリーソフトとして配布すると、
その便利なソフトをみんなで使うことで「みんな助かる」し、生産性も上がるようになります。
あるいは、技術的に難しそうな情報は、困る人が出てきた時のために
情報をまとめておいてアップしておくこともしばしば行われます。
プログラミング作りはそういう文化によって成り立っています。
まぁ、中にはしょーもないオタクな人ももちろんいますけど、
アクティブなパーティ好きにもしょーもない人がいるかもしれないし、
そこはそういうものだと思います。
自己軸の「さとり系」と、他者軸の「つくし系」
さて、「さとり世代」と「つくし世代」の二つの性格の傾向は、同時に発生したものと捉えて、
「さとり系」と「つくし系」という二つの傾向として捉えることにします。
そして、片方は「自己軸」というのに向かっていて、
もう片方は「他者軸」というのに向かっているとしましょう。
それらは、「大きな物語」が消失した後の時代の「インターネット・SNS世代」にある
二つの傾向ということになると思います。
「つくし系」は、「他者軸」に向かっているタイプで、
「他者に尽くす」ことを重視するものです。
これについては、「つくし世代」の特徴としてこれまで書いてきた通りです。
1992年から小学校に入学した人に限らず、
ネットを通じた「つながり」を重視する人は、
誰でもこういう特徴を持つということが言えて、
それが「若者らしさ」ということになると思います。
「さとり系」は、何か世間からはずれた価値観を持っているタイプで、
仏教哲学みたいなのをやる性格?って感じになる?のかもしません。
1995年に放映されたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』にある思想と、
さとり系の考え方はかなりシンクロしていて、
「世界を救うための決断をすると誰かを傷つけるかもしれない」という、
「引きこもり」に通じた思想というのもそこにあって、
さらには「スキゾフレニア(分裂症)」に通じた性質もこの辺は持っています。
こうしたことは、「自己軸」に向かっているタイプの特徴となります。
若者が、「他者軸」に生きて失敗した大人を見た場合、
違う様に立ち回るという発想を持つようになるのは理に適ったことです。
社会適応よりも、自己探求に向かう人を「さとり系」と呼ぶと良いと思います。
さとり系は大衆の発想に合わせたりすることは重視しないので、
多くの人を集めたりすることはどちらかと言えば苦手です。
他の生き物を捕食するようにガツガツしていくのも好きではないので、
そうした人は「草食系」と呼ばれることもあります。
本能的に欲望のまま行動するというよりも、いくらか考えつつ行動するので、
世間をよく見極めていることもあり、
そこまで欲を持たないようになっています。
・・・で、以上が「さとり系」と「つくし系」の二つの傾向であり、
どっちにも良い方向と悪い方向があるということも見そえておきましょう。
いや、良い・悪いというか、前向きか後ろ向きかということにしておきましょう。
まとめると、以下の図のようになります。
まずは、「つくし系」にある2方向についてですが、
やはり、世の中には愛情に満たされて余裕のある人と、
愛情に飢えていて余裕のない人とがいます。
余裕のある人の中には、愛情を分け与えるのが上手い人もいて、
それから、より多く人の需要に合ったことで「尽くし」が出来る人には、
たくさんの人が集まるようになります。
そうした人は「改革」をすることができる能力を持っています。
さらに、「つながり」を作るためのツールとしてネットまで使うことで、
ワンチャン大きなことができるかもしれません。
これは、「前向きなつくし系」の人が持ってる「可能性」と言えるでしょう。
一方で、余裕のない人は、余裕のある人から愛情諸々を受け取る必要があったり、
それから、余裕のある人の真似したり、
他の人の真似をすることで「つながり」を作ったり、
余裕がない中で「尽くし」をしていくことになります。
そして、どこか余裕がない中でそうしたことをしていると、
「他者化」のリスクを背負うことになります。
「他者化」とは、「他者と同一化する」という意味です。
例えば、サラリーマンだったら企業戦士と同一化してるし、
兵士だったら兵隊の一員と同一化してるし、
不良は不良で、ある種の不良グループの一員と同一化しています。
ある特定のコミュニティの人達と、自分も同様に混ざっていくには、
その人達と「同一化」していくことが必要な時もあります。
それから、ある特定の人達の要求に応える場合も、
「他人の要求に応える善良な人」と「同一化」することで行う時もあります。
こうしたことはむしろ人間社会に必要なものでもあり、どこにでもあるものですが・・・
自分は本当は何がしたいのか?という「自己との対話」といったものを
忘れるリスクがあるのが「他者化」というものです。
「尽くし」や「つながり作り」を積極的にしていくためには、
意識を「他者」に向けていく必要があり、
それに没頭していくと、人間は「他者化」に近づいていくことがあります。
従って、つくし系は「他者化」のリスクを常に負っていると言っても良いでしょう。
さて、そんでもって、「つくし系」に2方向あるように、
「さとり系」にも2方向あるわけです。
さとり系で前向きな人は「悟り」に向かいます。
これは文字通りの意味です。悟りって何?って話になりますが・・・
とりあえず、気付くべき真実に気付く人、ってことにしましょう。
つきつめるとお釈迦様の悟りにまで通じているかもしれません。
さとり系で後ろ向きな人は、「引きこもり」に向かうと言えます。
あるいは、メンタルバランスを崩した場合は、何かしらの精神病にまで近づくかもしれません。
あと、さとり系の人は立場的に、哲学者ニーチェが言っていた
「ルサンチマン(強者に対する嫉妬心)」を持ちやすいです。
「つながり」を作るのが得意なわけではないのがこっち側の人の特徴であり、
人間は集団行動が得意な者が強い生き物なので、
こっち側の人は(天才がたまにいますが)世間的には劣勢になりやすいです。
それから、「ニヒリズム(虚無主義)」にも行きやすいです。
「ニヒリズム」もまた、哲学者ニーチェの言った言葉で、
ネガティブなニヒリズムは「受動的ニヒリズム」と呼ばれいて、
世間で流行っているものや、世の中にあるものは何も信じられないと感じるようになります。
気持ちが後ろ向きになった時、「虚無」にまで近づくことがあるのが
さとり系の人が持ってるリスクと言えます。
以上、「さとり系」と「つくし系」の二つの傾向がある中で、
理想中の理想を言うと、双方の長所を持ってると心強いです。
それはおよそ一握りの人ぐらいしか達成できない理想でしょうけど・・・
ニーチェの言う「超人」・・・いや、さらにそれをも越えた「超人」となると、
そういう人のことを指すのかもしれません。
昔の時代と今の時代
以下の図について。
色々書いてて思ったのは、
これは昔の人にも当てはまっているのでは?ということです。
昔は「つくし」の対象が「村」だったり「国」だったり「会社」だったりしたわけです。
そして、今は別の「つながり」を作っていってるのが「現代におけるつくし系」ということでした。
「さとり系」の事情もまた、昔と今とではだいぶ違うでしょうけど、
恐らく、人類が発展していくために、近いものが昔の時代にもあったでしょう。
思うに、元々の人間自体は大きく変わっているわけではないのかもしれません。
スピリチュアルの界隈では、インディゴチルドレンとかクリスタルチルドレンとか、
高貴な魂が最近よく降りてきているとか言われてますけど、
色々といるし確認のしようがない(笑)
結局は大体一緒で、「つくし」の対象や、
大人が用意した環境が変わったと捉えると良いのでは?と思います。
そんでもって、昔と今とではどっちが良いのでしょうか?
考えてみれば、昔の方が生活に余裕がない場合は、
より強固な集団行動が余儀なくされて、
「他者軸」に没頭せざるを得ない事情が出てきます。
確かに、現代はインターネットやコンピューターが「他者軸」に向かわせる所がありますが、
しかしながら、それは利便性とも一体になっているため、
生活に余裕を作ることにも貢献しています。一概に悪いとは言えません。
しかし、昔に利点があるとすれば、それは「自然と近かった」ことです。
人間が自然と触れ合うことは、
自然に近い身体の感覚を忘れないということになります。
これは「自己軸」に向かうための鍵にもなります。
逆にいうと、昔の時代でも「自然」と無関係に生きていれば、
それはまるっきり「他者軸」に生きているし、
今の時代でも、「自然」と触れる機会や時間を作れれば、
そこから「自己軸」の道を作ることができる・・・ということも言えます。
今の時代は、テクノロジーと資本主義の発展が、
実は、終着点と言える所にまで行き着いているのだと思います。
人類の歴史的に一つの節目みたいになっているので、
人間の在り方も一つの節目となっているでしょう。
現代における「さとり系」と「つくし系」の二つ傾向も、
その節目の中で出てきていて、とても重要なものになっているでしょう。
ただ、その二つの背後にある方向性自体は、
人間が昔から持ってるものだ、ということです。
そんなわけで、
「どうなるかは人間次第」
ということは、昔の人も今の人も変わらないと思います。