不定期連載『変換人型ゲシュタルト論』シリーズ。 記事一覧はこちら。
◆◇「自己」を見つけるために◆◇
ヌーソロジーとは何か?という問題に対して、
シャーマニズムとか、数学に惹かれる人がやるものとか、これまで書いていった。
もう一つ言われていることは、ヌーソロジーは「自己×他者」の問題について考える「自他論」だということである。
ヌーソロジー学習で肝となるのは「自己」である。
これは我々が持っている意識について考える際も肝となってくる。
デカルトが自著『方法序説』の中で書いた
「我思う、ゆえに我在り」という言葉が有名だが、
「我とは何か?」となると、実はとても他者の影響を受けやすい。
普段の我々は意識は、基本的に他者の影響を受けることが多い。
というかそもそも、実は人間の意識はそうなりやすいようにできている。
理由の一つは、幼児から成長する際の意識形成の問題である。
人間は幼児の段階ではただ漠然と光景を認識する所から始まっていて、
だんだんと成長するにつれて、物と自分の境目が分かってきて、
自分の身体についても漠然と分かってきて、
さらに「他者」という存在がいるのが分かってくる。
それから、「他者からの視線」をベースに「他者にとっての自分がこうだろう」というイメージから「自分はこうだろう」という意識を確立していく。
人間の成長における意識形成のベースが「他者からの視線」になっているから、
人間は他者の影響を受けやすいようになっているわけである。
もう一つは集団行動の意識からそうなる。
人間の最大の長所は社会性を持っていることで、集団行動によってその成果を発揮する。
単一の個体だったら勝てない野生動物がいっぱいいるので、集団でいることが生きていくために大事となる。集団でいるには社会性を持ってる必要があり、社会性を発揮するためには、常に他者の視線や他者の考えに合わせて生きることを意識していかなければならない。
これはちょっと考えれば分かることだし、なんとなく生きていてもそうなってくる。
さらには「言語」がそうした意識を膨張させていく。
言語もまた人間の最大の長所と言える能力であり、人間はこれによって社会性をさらに強固にした。
ちょっとした鳴き声による意思伝達程度であれば野生動物でも可能である。
しかし、人間は言語によって物語を作り、さらにその作られた物語に対して没頭して、そこに自身の魂を置くことができるほどに、言語に依存することができる生き物である。
以上のように、人間がどれほど他者の言葉の影響を受けやすい生き物かは、あらゆるエピソードを思い返せば理解できるだろう。
特に受動的に生きているほど「他者の要求を受ける存在=自分」となってしまうのが人間である。
「他者化」とその逆を行く道
そして、完全に他者になりきるように、
他者みたいな存在と自分が同一化することを「他者化」という。
特に人間は集団で生きていると他者化していく。
戦士、アイドル、軍人、性奴隷、社畜サラリーマン、コミュ力お化け、金儲けの権化・・・・
よくあることなので、考えると思い当たる人は多いかもしれない。
けど、他者化している人は、同時に「他者の助けになってる人」であることも多いので、
実はみんなにとっては優秀に評価される。そこが人間社会の難しい所でもある。
ただ、ヌーソロジーは「他者化」とは逆方向の自分を探っていかなければならない。
自分とは何か?
そして、自分の中に奥深くに潜む、確かなものを「自己」と呼ぼう。
そうなると、自己とは何か?
この問題は実はすごく難しい。
それを探していくためには、「無意識」まで探るしかない。
しかし、普通の人が無意識を探ると、
「他者から植え付けられた意識」ばかりが出てくるものなので、
本当に自分固有の意識を見つけるのは難しい。
無意識を探るのはすごく難しく、
掘れば掘るほど深かったから、ユングは「集合無意識」を発見したし、
それを正解とするしかなかったのである。
科学の枠外にある「自己」
ヌーソロジーにおける自己探求に必ず必要なのは、
科学の枠外にある「自己」を探ることである。
無意識を掘り下げていった先にある、科学の枠外にあるレベルの「自己」は、
ほとんど「集合無意識」の領域にまで近くなる。
だから自己探求の話はシャーマニズムの話にまで繋がってくる。
こうした科学の枠外にある自己を「Spirit Self」と呼ぶことにしよう。
「Spirit」は、精神とか魂とか、
(物質や肉体に対義語として)霊的な心みたいな意味である。
Spiritに「ual」がつくと「Spiritual」となり、「精神上の」とか「精神的な」みたいな意味になる。
日本語の「スピリチュアル」はかなり俗物化してしまったワードだが、
元々は純粋にそうした概念を追っていくものである。
それから、「Self」はユングが使ったワードで、
個体が持つ意識・無意識の全体を踏まえて、
その全体の中心に存在する「自己」のことを言う。
それらを合わせて「Spirit Self」である。
ヌーソロジーをちゃんとやると、自然と「Spirit Self」を探す作業になる。
「Spirit Self」が掴めない人は、ヌーソロジーを理解するのが難しいので、
まずは先に自己探求をひたすらやった方が良いかもしれない。
自己探究のジャンルとなると、瞑想とか、自分探しの旅だとか、
ひらすら内に向かって読書をするのとかが有意義となる。
「占い」とかも有意義だと言える。
欧米で流行っている「マインドフルネス」みたいな発想も良いかもしれない。
仏教で悟りを開く時の境地に近い「常に落ち着いた状態」が「サンマ・サティ」と呼ばれていて、
それがアメリカで普及してできたのがマインドフルネスである。
他者化しやすい西洋社会でありながら、東洋の思想が注目されていて、
その発想が瞑想からビジネスにまで幅広く応用されている。
しかしながら、あまりビジネス利用ばかりに向かい過ぎると本筋から逸れてしまうため、
その点も注意が必要である。
あくまで重要なのは「Spirit Self」の発見である。
人はつい他者依存をしてしまう生き物である。
人がどうしても他者依存をしてしまうのは、不安があるからであり、どうして不安があるかというと、その原因は自身の家庭の問題や、育ってきた環境の問題にまでさかのぼるかもしれない。
あるいは、認知の歪みや思い込みから、考えが偏ったり不安になったりすることもある。
それらは後天的なものから来てるかもしれないし、先天的なものから来てるかもしれない。
そうなると、そうした分野専門の心理学が必要になってくる。
安定した自己を確立するにはまずはそっちが大事なので、
そっちをしっかりやるのも良いかもしれない。
逆に言うと、「自己」が確立していて、「Spirit Self」が直観的に分かっている人は、
ヌーソロジーを理解するのが容易いかもしれないとも言える。
そして、ヌーソロジーがはっきり分かるようになると、
「Spirit Self」の感覚が強固になるし、確信が持てるようになる。
「自己」を探るのは、掘れば掘るほど深くなっていくぐらい難しいものだが、
それを可能にするための知恵として利用できるものが、
ヌーソロジーだと思ってもらいたい。
↓続き
2013:The Day God Sees God 人類が神を見る日 [ digital edition ]
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