不定期連載『変換人型ゲシュタルト論』シリーズ。 記事一覧はこちら。
◆◇究極の瞑想方法?「止観」について◆◇
仏教には「止観」という瞑想方法がある。
これについては、『変換人型ゲシュタルトとは?(前編)』の項でもチラっと紹介したが、
ヌーソロジーの基本においても重要なので詳しく説明していこうと思う。
原始仏教・中国から伝わる瞑想方法
まず、「止観」とは何か?
これは元々は原始仏教の教えから派生してできた瞑想方法である。
書籍『「止観」の源流としての阿含仏教』によると、
原始仏教的な思想において、仏教は人間が内在的に持っているものを体験して自覚していく宗教であり、
その体験の基礎となるものが「瞑想・禅定」だとされている。
※禅定:心を一つの対象に集中して、平静を保つこと
さらに、先の書籍では「止観」について以下のように書かれている。
仏陀の瞑想・禅定は、止・観という言葉で表現されます。
心を練って一切の外境や乱想に動かされず、心を特定の対象に注ぐのを止 (Samatha舎摩他)といい、それによって正しい智慧を起こし、対象を観るのを観 (vipasyana毘婆舎那)といいます。
仏陀は経典の中で、止を修したならばいかなる貪欲でも断じ、観を修したならば最高の智慧を獲得することができると述べています。
これは、仏陀の修行の基本となるもので、この見解はそのまま後代に継承されており、先に述べた天台智頭の『摩訶止観』も、これを承けているわけです。
このように、心を特定の対象に集中する「止(サマタ)」と、そこから対象を純粋に観る「観(ヴィパッサナー)」を基本とし、それを両輪のように合わせたものが「止観」となるわけである。
それから、天台智頭の『摩訶止観』という文言が出てきた。
これは6世紀頃の中国で天台宗を創始した智顗(ちぎ)という僧侶のことを言っている。
天台教学の大成者と言われるほどに有名な僧侶だった智顗は、
法華経に書かれているような仏教の教義を重視しつつも、
「止観」の実践も同様に重視し、『天台小止観』や『摩訶止観』という講義を行った。
それが講義録として残され、後世において有名な瞑想マニュアルとして伝えられるようになった。
『天台小止観』は短めにまとめた初心者向けのマニュアルで、
『摩訶止観』はそれより長く色んなことが書かれているため上級者向けな位置づけになる。
『天台小止観』の内容を引用すると、止観について以下のことが書かれている。
(関口真大訳の現代語訳天台小止観より引用)
夫泥洹真法、入乃多途、論其急要、不出止観二法。所以然者、止乃伏結之初門、観亦断惑之正要、
止則愛養心識之善資、観則策発神解之妙術、止是禅定之勝因、親是智慧 之由籍。
若人成就、定慧二法、斯 乃自利利他法皆具足。
涅槃(さとり)の世界は、そこに入るためには種種の途(みち)があるけれども、そのなかでも最も効果的で肝要なものはなにかといえば、止と観の二法に勝るものはない。なぜかといえば、止は、まよいへのとらわれをおさえつける第一歩であり、観は、まよいそのものも断ちきる力であるからである。
また止は、人の心識(こころ)を愛養するためのよきたすけ、観はものごとの正しい理解を発すための妙術である。止は、禅定を得るためのすぐれた因となり、観は正しい智慧を発するよりどころであるからである。
もしこの禅定と智慧の二法をなしとげれば、 自分を利益し、他の人人のためにもなる生活態度がおのずからその人の身に備わって来ることになる。
後に、平安時代前期に最澄が天台宗を日本に伝えるため、
日本の天台宗でもこうした文献が重宝され、止観が重視されるようになっている。
『天台小止観』と『摩訶止観』は、
日本語訳されたものが一般に売られているし、
調べると色んな情報が出てくる。
また、『天台小止観』に関しては当サイトでもまとめたことがある。
そもそも、智顗は始めは「禅」を重視していたらしい。
禅は「心が動揺することのなくなった状態」を意味するサンスクリット語の「ディヤーナ(dhyāna)」という言葉から派生しているものなので、とにかく心を静める瞑想の方向に向かう。
これは確かに純粋な瞑想に近いため分かりやすく、東洋思想としてよく注目されている。
しかし、仏教の修行を続けているうちに、
「止観」の方が重用だということに気付いたらしい。
こちらの方が「止」と「観」のハイブリッドさがあり、
「静」にも「動」にも転じることができるため重要ということだろうか?
仏教とヌーソロジーは、やっていることが一致する箇所がチラホラあるが、
悟りの入門あたりの話だと「止観」が肝になってくるようである。
まるで、智顗もヌーソロジーに近いセンスを持っていたかのように、その辺の考え方が似ていると思う。
哲学における「止」と「観」
さて、さらに西洋哲学の話をしていこう。
前回、エルンスト・マッハの哲学についてを取り上げた。
マッハは上記のイラストのように目の前の光景を「知覚正面」として見ることを重要視した。
このように物事を見ることで、本来は認識することが難しい「事象そのもの」へと向かうことができるのではないか?
というような哲学的視点から、独自の現象学が提唱された。
エルンスト・マッハの哲学は、後にエトムント・フッサールにも影響を与えて、マッハの現象学よりも、もっと改良された現象学が発案されるに至った。
さらに、フッサールの弟子のマルティン・ハイデガーの哲学の話にも繋がってくる。
こうした一連の現象学を掴んでいくために、
フッサールは「エポケー」という行為を重要視した。
エポケーは原義においては「停止、中止、中断」を意味する古代ギリシア語であり、哲学において使われるようになってからは特別な意味を持つようになった哲学用語である。
哲学用語としての「エポケー」の意味を分かりやすく言うと、「判断を留保すること」になる。
フッサールの現象学においては、現象を純粋に捉えるためにこの「エポケー」が必要になる。
「エポケー」とは具体的にどういうことなのか?
まず、我々は一般的に「目に見えるものや五感で認識できるものが客観的な実体としてに存在する」という認識で目の前の光景を見ている。
例えば、「目に見える対象」を「リンゴ」としてみよう。
自分が今いる場所に、すぐ手の届く範囲にリンゴがあったとしよう。
我々が普通にそれを見ると「リンゴがそこに見えるんだから、リンゴがそこに実体として客観的に存在するだろう」みたいに認識するはずである。
フッサールはこれを「自然的態度」と呼んだ。
しかし、フッサールの哲学における「エポケー」は、そうした自然的態度を「カッコに入れる」ことを意味する。
これは「正しいことにはしないで横に置いておく」みたいな意味である。
こうしたエポケーをすることで初めて、目の前のリンゴの「存在」や、リンゴがあるという「現象」を正しく捉えることができると主張されているのが、フッサールやハイデガーの「現象学」である。
そして、この行為は、目の前に何が見えても、それが何であるかの思考は一旦「止(サマタ)」することと同義だと言えるのではないだろうか?
あるいは、目の前にリンゴがあるのに、そうした「自然的態度」を素直に受けないとなると、思考を止めるような行為が必要になる。
つまり、「エポケー」と「止(サマタ)」は、「エポケー=止(サマタ)」と言えるように同様の行為であり、この二つは西洋哲学においても仏教においても真理に通じていると言えるわけである。
それから、現象学でやるべきことだと「エポケー=止(サマタ)」の後は「現象を捉える」流れになる。
これも「ただ観る」ことから始めることが大事になるため、今度は「観(ヴィパッサナー)」が重要になってくると言うことができる。
このように、西洋哲学にある「エポケー」の発想を取り入れて、
「止観」のような瞑想をやってみるのも良いと思う。
ヌーソロジー入門の真髄とは?
何度も書くようだけど、
ヌーソロジー入門において最初の関門となるのは『次元観察子ψ3』の発見である。
その真髄となる行為は何だろうか?
それは・・・・
「ただ観る」
ということにつきるかもしれない。
観るものは何でもいい。
純粋な「点」とか「4次元を知覚するための図」とかも良いと思う。
とにかくこれらを「何も考えないで観ること」が大事である。
ここでは分かりやすい説明のため「リンゴ」を使用しよう。
目の前にリンゴがある。
しかし、「リンゴがあるなぁ」とは認識しない。
目の前にあるものは「リンゴ」とも分からない。
また、「分からない」という言葉すらも出てこない。
ただ目の前のなんだか赤い物体を観るし、
「赤」という認識もしない。
ただとにかく無心で観るように観る。
そうしていると、とにかく物事を「分別しない」境地に行き着くようになる。
この境地が古今東西で色々と言い換えられていて、「無」だとか「空(くう)」だとか「ゼロの状態」だとか呼ばれて、古今東西の識者によって説明されているのかもしれない。
古今東西で説明されているそんな「無」の境地は、
ヌーソロジーの道にもなっているわけである。
他のことも取り入れつつやるなど
以上のように「ただ観る」だけでも次元観察子ψ3の境地に達することは可能である。
しかしながら、これだけでは難しいので・・・
前々回で説明した、ダグラス・E・ハーディングの方法とかも組み合わせると良いと思う。
これをやっていると「止」「エポケー」「無分別」・・・みたいな状態にならないだろうか?
もしそうなることができれば成功の糸口をつかんでいると思う。
次元観察子ψ3についての話はまだまだ続きがあるので、
これから後述していくやり方を合わせることで、
理解ができるようになるかもしれない。
↓続き
2013:The Day God Sees God 人類が神を見る日 [ digital edition ]
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