不定期連載『陰陽哲学基本概要』シリーズ。 記事一覧はこちら。
前回は「天」と「地」の概念について基本的なことを説明した。
引き続き、易経における「天」と「地」、
それに則した「陽」と「陰」の意味ついて説明していこう。
「陽」と「陰」は多様な意味を含んだ概念でもあるが・・・
書籍『易経(徳間文庫)』より引用すると、以下の意味にまとまる。
陰は、柔・弱・低・暗・受動的・女性的なるもの、陽は、剛・ 強・高・明・能動的・男性的なるものである。
しかし、この両者は固定的・絶対的なものではなく、常に相互に転化するものである。陰は陽に変じ、陽は陰に変ずる。易における変化は、この陰陽の消長交替が基本である
ここに書かれているように・・・
- 陰は、柔・弱・低・暗・受動的・女性的なるもの
- 陽は、剛・ 強・高・明・能動的・男性的なるもの
・・・ということでまとめることができる。
さらに「この両者は固定的・絶対的なものではなく、常に相互に転化するものである。」のあたりも重要で奥が深いのだが・・・
それは一旦置いておくとして・・・
「陽」と「陰」の意味の中で、「剛」と「柔」のワードで説明される性質がとくに強いので、それについて説明していこう。
剛健の天と柔順の地
易占いにおいて「天」を表す象徴の別名は「乾(けん)」、「地」を表す象徴の別名は「坤(こん)」と呼ばれている。
乾は陽の状態が三つ揃ったもので、坤は陰の状態が三つ揃ったものであるため、
いわば極陽と極陰みたいな概念である。
そして、一般的な易のテキストだと、乾の意味を一言で説明すると「剛健」、坤の意味を一言で説明すると「柔順」といったワードがよく使われている。
したがって、一般的な易の教えからを踏まえた「天」と「地」の意味は、ほとんど「天⇒剛健」と「地⇒柔順」の性質を持つものとして捉えられている。
そのため、「陽」は「剛健に向かうもの」な意味になってくるし、「陰」は「柔順に向かうもの」な意味にもなってくる。
「陽」と「陰」の概念は他にも色んな意味を含むものではあるが、易経においては大体それが中心になっている。
「陽」の基本は「剛」、「陰」の基本は「柔」となっていることに加えて、
「天」と「地」はそれぞれ「健」という字と「順」という字がついて「剛健」と「柔順」になっているわけである。
それから、天の力が人間の肉体に現われた場合、剛のように強い者になる上に、天の力を得て「健やか」である性質が出てくる。
これは易経の原文で「乾」を説明する箇所に書かれている「天行健なり」の言葉にも表れている。
天行健。君子以自彊不息
天行健なり。君子はもって自ら彊(つと)めて息(や)まず
ここでの「健」は「天のように休まず動き続ける」という意味を持っている。
したがって、この性質が肉体に現われた場合も「天のように休まず働き続ける」ような意味になるわけである。
一方で地の力が肉体に現われた場合、柔の性質を持つことに加え「順」の性質を持つ。
これは柔と似たような意味だが、天の「健」が休まず動く能動性を意味することに対して、地の「順」はそれに対応する受動性を意味する。
このように、易経の教えを踏まえると、「陽⇒剛 / 天⇒剛健」と「陰⇒柔 / 地⇒柔順」のような意味が基本となる。
男性的な陽と女性的な陰
さらに付け加えて説明すると、陰陽と男女の概念の関係を考えた場合、
陽は男性性(男性原理)で、陰は女性性(女性原理)に該当する。
陽は太陽、陰は月にも見立てられていて、さらに太陽と月に男神と女神が見出されることは西洋文明でも起きていることである。
それらにはやはり人類が普遍的にそう捉えたくなるイメージがあるのだろう。
加えて、書籍『易経講座』では、男性の陽原理的な性質と、女性の陰原理的な性質についてが説明されている。
令和の時代である現代では、男性中心主義の社会からフェミニズムが台頭することによってジェンダー論がより白熱しているが・・・
安岡正篤氏の男女の見解を引用してみよう。
男女なんかは誰にも分かる陰陽のよい例であります。体格堂々、筋骨隆々、活動力があり、頭がよくて理知的で、才能があり、アンビションもある、これは陽性で誠に男らしいという感じを与える。
反対にこのような能力の女があったら、これはいいなあとは思われない。それは女性は陰原理的存在だからで、真実ではないからである。女は筋骨やさしく、内面的、静止的で、理知的よりは内省的、情緒的、才能的よりは道徳的、徳性的である。 これがいわゆる女らしいというのであります。
さて、現代のジェンダー論的に・・・これはどうだろうか?
安岡正篤氏は1898年の生まれであり、昭和の時代や大正の時代よりもさらに前、明治の時代である。
明治から大正にかけての時代の価値観と、易経の教義から出てきたこうした話は、令和となった今の時代でどこまで通用するか分からないが・・・
それでも人間の肉体の在り方、男の肉体の特徴と女の肉体の特徴には不変の原理もあるため、こうしたことも正当性を持った道理としてあるのではないだろうか?
西洋的な陽と東洋的な陰
また、書籍『易経講座』では西洋と東洋の関係にも触れていて、
西洋の文化は陽原理的であり、分析的・分化的であることが説明されている。
西洋は分析的・分化的であることから、自然現象を物理的なモノのように分析して捉えて、科学を発展させることに成功した。
また、分化的であることによって人間と自然は対立した存在のように捉え、自然を支配する方向に物事を考え、自我の力が強く働き、個人主義や人間中心主義が発達していった。
西洋人のこうした性質は表音文字(※)を使っていることにも関係しているらしい。
(※アルファベットのように一つの文字が一つの音素を表す文字)
それに対して、東洋の文化は陰原理的ということになる。
陰原理的とは統一・含蓄を本領とすることで、人間中心の自我よりも自然の方に重きをおいて、その中に自己を発見するようなことである。
西洋人は人間と自然が対立していて自然を征服しようとするが、それに対して東洋人は征服するというより人生と自然を調和してそこに生きていくようにするのである。
・・・現代の日本人や中国人といった東洋人達は実際にそれができているかは怪しい問題だが・・・
それこそが本来の東洋の文化の本領なのである。
東洋人のこうした性質も扱っている文字が関係していて、表意文字(※)を使っているとそっちが近しくなるらしい。
(※事物の概念を一文字で表す文字。絵文字のように事物の形象をかたどったものや、一部の漢字が該当する)
そして、西洋は人間中心主義によって文明をどんどん発達させていくが、陽が行き過ぎることによって東洋を求めるようになるらしい。
そのため、西洋では第一次世界大戦後、さらには第二次世界大戦後になって一層、東洋研究が盛んになっていたらしい。
実際、戦後西洋では易が取り入れられて、自然科学・精神科学・哲学の方面で研究されるなど、日本よりも易について真摯に研究されていた事実があった・・・とのことである。
そうした西洋⇔東洋の間にあるサイクルにも、壮大な太極のサイクルがあると解釈することができるわけである。
以上。「陽」と「陰」がそれぞれどんな感じのものなのか、なんとなく分かってきただろうか?
引き続き、この二元の概念がどのように発展し、違う意味に派生していくのかをつきつめていこう。
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