今回はヌーソロジーの基本中の基本概念・・・
『等化』と『中和』について説明していきたいと思う。
この概念は本当に基本中の基本なので『ヌーソロジー基本概要+(プラス)』や『変換人型ゲシュタルト論』でも当然やっているが、それでも簡単に理解できるような概念でないので、ここでしっかりと説明しておこうと思う。
とくに『等化』は基本であり究極の概念である。
『等化』が完璧に分かれば、ヌーソロジーが完璧に分かるというぐらいにすべてが分かるような概念だと言っても良いだろう。
しかしながら、だからこそムズイし、それを理解することは究極的なことでもある。そんな概念である。
『等化』と『中和』についてはアニマンダラ先生が自身のチャンネルで説明している動画もあるので、そちらも参照してみると良いと思う。
これを見て、「自分もやってみるか」とも思ったので・・・
やってみることにします。
~目次~
・基本中の基本な説明
・弁証法
・陰陽論
・具体的な話。幾何事象編
・具体的な話。社会事象編
・社会
・日常
・医療
・相対主義のおさらい
基本中の基本な説明
まず、『等化』について簡単に説明すると・・・
一番目に発生する概念である『負荷』と、二番目に発生する概念である『反映』の次に発生する、三番目の概念が『等化』である。
二つの対立的な概念があったとして、初めにあった概念の方が『負荷』で、その次にあるのが『反映』とすると・・
『等化』は、その二つをコインの表と裏のような関係だと理解する視点を得ることである。
それから、その次にある四番目の概念が『中和』である。
これは『等化』と反対の概念であり、両者をコインの表と裏のような関係として理解しないで見る・・・つまり、ごくごく普通の視点で物事を見ることに該当する。
二つの対立概念があった場合、基本的に『等化』でないものが『中和』という理解で良い。
というのも、ヌーソロジーにおいては『等化』の理解がとにかく難しいものであり、まずはそれを理解することが先決である。
『中和』はむしろ日常にありふれた概念なため、『等化』が分かった後に「等化でない普通の概念」を追っていけば『中和』は容易に理解できる。
そのため、この記事は「等化と中和について理解する」ことが目的であるが、『等化』をとにかく正確に理解することを主軸にやっていこうと思う。
『ヌーソロジー基本概要+(プラス)』や『変換人型ゲシュタルト論』にある図では『等化』については回転運動で説明している。
『負荷』と『反映』という、
背反するものを統合するような「回転」の作用、
または、対称性を見出す作用にあたる。
数字では「3」に対応する。
『負荷』と『反映』を新たな次元の視点で見る力を持つ。
ここに対称性を見出す作用と書かれている通り、「対称性」がキーワードであるため、それが言わんとしていることが分かれば『等化』を理解することができる。
これが分かると「次元上昇による意識の統合」が分かるし…
ちまたで言われている「アセンション」の真の意味も理解できるわけである!
・・・しかしながら、これだけではすぐには理解できないだろう・・・
ということで、具体例も絡めつつちゃんと説明しよう思う。
弁証法
『等化』の説明でよく使われるのは「弁証法」である。
これは古代ギリシャの頃からあった考え方だが、哲学者ヘーゲルが提唱した弁証法が特に有名である。
ヌーソロジーの書籍『ワンネスは二つある』でも弁証法が引用されていて、『等化』の説明として割と分かりやすいものとなっている。
まず、第一の命題があったとして、これを「テーゼ(正)」と呼ぶ。
次に、それに対して否定をしようとする反対の命題があったとして、これを「アンチテーゼ(反)」と呼ぶ。
さらに、その二つを本質的に統合した命題があり、これを「ジンテーゼ(合)」と呼ぶ。
「ジンテーゼ(合)」に向かうためには、「テーゼ(正)」と「アンチテーゼ(反)」の中で否定するべき要素を破棄しつつ保存するべき要素を保存し、矛盾する要素を対立の過程から発展的に統一しなければならない。これを「アウフヘーベン」と呼ぶ。
弁証法の考え方だと、こうした「テーゼ」と「アンチテーゼ」からアウフヘーベンして「ジンテーゼ」に行く流れで世の中の物事が発展していく。
また、物事の本質を理解するにおいてもこうした構造を踏まえる必要がある。
古代ギリシャの頃から哲学者は「真理とは何か?」を探求していたが、それは単純に導けるものではない。ああでもないこうでもないとテーゼとアンチテーゼを繰り返し・・・それらに対するジンテーゼを発見したら、またさらにテーゼとアンチテーゼが出てきて新たな答えを考えていく・・・
弁証法はそんな哲学のスタンスから生まれた考え方である。
そして、ヌーソロジーにおける『等化』も、大体ここで言う「ジンテーゼ」のようなものなため、この説明は分かりやすい。
一番目のもの(テーゼ)と二番目のもの(アンチテーゼ)を統合するようなものが『等化』に該当するわけである。
それから、ヌーソロジーではそれに加えて四番目の『中和』があるため…
「ジンテーゼ」はヌーソロジーの場合、『等化』と『中和』を包括するという解釈が妥当となる。
へーゲルの弁証法における「ジンテーゼ」は物事を統合した後、解決によって安定する側面もあるだろうから、そうして「安定すること」が『中和』に該当するだろう。
ヌーソロジーではヘーゲルの「テーゼ」「アンチテーゼ」「ジンテーゼ」のような概念をもっと数学的に捉えようとするし、「対称性」というワードを用いて理解しようとする。
それが次元論とも関係してくるし、さらにもっとつきつめると現代物理学や素粒子の構造とも関係してくる。
その辺を構造論として厳密にやるのがヌーソロジーだと言って良いだろう。
陰陽論
次に『陰陽論』について。
これもヌーソロジーに近しい宇宙論としてよく出てくるものである。
あらゆる物事や神羅万象を「+(プラス)の陽」と「-(マイナス)の陰」みたいな二つの概念で捉える・・・みたいな発想が古代中国でずっと伝えられていて、それが日本にも伝わって「陰陽五行」みたいな呪術の文化が出てきたりする。
「陰陽太極図」とか「陰陽魚」と呼ばれる以下のマークもたまに見かけるものとして出てきたりする。
「陰陽」自体はいろんな所で出てくる概念なので、それを厳密にやろうとすると・・・易経における陰陽、老荘思想における陰陽、儒学的な思想における陰陽、陰陽五行思想における陰陽・・・など色々あるが・・・
「陽」と「陰」の二つの概念は統合が可能であることがその本質にある。
陽の中には陰が含まれているし、陰の中には陽が含まれている。
また、陽が善で陰が悪ということでずっと続くことはなく、陰が善で陽が悪ということでずっと続くことはない。陽と陰の関係は移り変わるものになっている。
さらに、「陽極まれば陰になり、陰極まれば陽になる」というように、「変化」が起きることが前提にある。
以上のように、陰陽論でよく言われることは「陰と陽は関係が移り変わるもの」とか「物事を善と悪に分けずに包括していくもの」みたいなものなので、そんな理解で大体OKである。
陰陽論で「善悪に分けない」ような認識の仕方は東洋思想でよくあるモノの見方であり…
上記の「陰陽太極図」もその象徴のようなものである。
東洋全般に通じる「分けない」発想は仏教にもあるし、老荘思想にもあるし、仏教と老荘思想が合流した禅の思想にもそうしたものがある。
中国で禅宗を創始した仏教僧である達磨(ダルマ)は、武帝に「仏教の第一義とは何か?」と問われた時、「不識」と答えた。
この禅問答の解釈には諸説あるが・・・「良い悪いに分けない」や「下手な認識をしない」みたいな意味だとも解釈できるだろう。
禅の流派は精神の統一と安定に至るために、「良/悪」だとか「幸/不幸」だとか「快/苦」といった認識を下手に行わないように日常を過ごしたりする。
これをヘーゲルの弁証法に当てはめた場合、「テーゼ」と「アンチテーゼ」のような二つの問題を見たとき、どちらかが良いとは下手には捉えず、どちらかに「善/悪」のレッテルを張らないようにする。
そうしていくと、その次の段階である「ジンテーゼ」的なものも見えてくるのかもしれない?
それが分かると「陽」と「陰」の統合の道のようなものも見えてきて、それが悟りに繋がったり、次元上昇に繋がったりするため、そうした東洋思想の「不識」の境地と『等化』には親和性があるわけである。
具体的な話。幾何事象編
さて、ここまでは弁証法と陰陽論の抽象的な話だったので・・・
もっと具体的な話をしていこう。
説明をしていくにあたって、箱白さんの書いた同人誌『高次の存在と世界に関する一考察』の内容を参考にする。
これに書かれている「疑心暗鬼になりがちなやつ」で出てくる話は、『等化』や「高次元の視点」を理解するにおいてもとても良い例だったので、それと似た例を用いて説明していこう。
まず・・・なにかしらの形を持ったなんかの物体があったとしよう。
そして、それぞれ別の場所にいるA君とB君がその物体をみて、それがどんな形をしているのかを知ろうとしている。
A君から見たらその物体は・・・以下のように円形で見えているようだった。
なるほど・・・それなら物体は球か何かなんだろうか・・・と推測できる所だが・・・
一方でB君から見たらその物体は、以下のように正方形みたいな形で見えているようだった。
ん? どういうことなのだろうか?
A君とB君はどちらが正しいのか?
どちらかが間違ったことを言っているのだろうか?
そこで、新たにC君が登場してきた。
C君は実際に高次元にいるような超越者であり、高次元からの視点で見ることができるので、A君の視点から見ることもできるし、B君の視点から見ることもできる。
さらに、そこから物体の周りを回転して移動できるように、様々な視点から見ることができる。
C君が言うには・・・A君とB君はどちらも言ってることは正しいが、A君とB君の言ってるのとは全然違う形が見えることがほとんどだし、全体像を見ればそれが何なのか分かってくるらしい。
あと、B君の言っていることをもっと詳しく聞いてみると、その物体は四角形のような形で見えているだけでなく、見え方に少し光と影のようなものがあるらしい。
さて、この物体は何なのか分かるだろうか?
・・・
答えは円柱の形をした物体であった。
以上のことは、A君とB君は視点によって違う物体に見えていて、確かにどちらも正しいということと…
C君のように次元の違う視点を得ればその全貌が分かるということを表している。
このような視点はヌーソロジーの『等化』を理解するにおいても良いヒントとなる。
また、A君とB君は次元論でいうとx軸・y軸・z軸方向で自由に動くことができない位置にあり、A君は円形でしかその物体を観ることができないし、B君は四角形でしかその物体を観ることができない。
さらに、これはA君だけでなく、A君が住んでいる国全体がそのように見ることしかできなかったらどうだろうか?
A君は円形でその物体を観ることしか経験できないし、家族や周りの大人たちもそのようにしか見えなかったら、それらの経験においてはむしろ円形が正しいとしか言えないのではないだろうか?
以上のように「経験」という観点からこのことについて考えるべく、次の項の話に移っていこう。
具体的な話。社会事象編
今度は「人間は経験から判断する」ということについてをつきつめてみよう。
西洋哲学には「イギリス経験論」というものもあるぐらいなので、経験の話は哲学的にも奥が深い。
18世紀あたりの哲学者だとヒュームが経験論についてやっていた。
合理論のデカルト、経験論のヒューム、それらを統合するようなことをやったカント・・・みたいなざっくりとした構図がその辺りの哲学にある。
そして、「人間は経験から判断する」ことは我々が日常的に感じることだったり、一般的な事象でもよく起きることである。
ここで「社会」「日常」「医療」の三つのテーマからその事象の例えを挙げて考えてみよう。
社会
まずは「社会」をテーマにした事例ということで、人間社会において大昔から言われているようなことがある。
それは「国家が悪いから社会が悪い」みたいな原理である。
これを学者のように難しく考えるでもなく、むしろ庶民のような感覚で捉えると、なにか社会がものすごく悪い感じになった場合は、国家を牛耳る王様のような人が悪いし、国王の君臨する政治家だったり、国王が指揮する国王軍みたいなのが悪い。そんな風に世の中が捉えられることがよくある。
こうした国家は「権威の象徴」として庶民に捉えられ、国家に属して権威を持ったエリートのような者と、属さないで権威を持たない庶民みたいな構図で分断できたりする。
そうした中で「国家や権威は良いとする立場」と「国家や権威は悪いとする立場」の対立みたいなものがある。
このような対立は「右翼」と「左翼」と呼ばれるものにも通じていて、もはや人類にとって普遍的な問題であるし…
社会学においても昔からある中核のような原理として重要である。
そうした中で起こり得る状況として…
まずは「国家によって不幸な目にあった経験を持つ人」が出てくることである。
もしも国家がそれなりに酷い場合、力もあるし金もある存在だから、性格の濁った者がそこに留まったりするし、悪政が放置されたりもする。
そこに力を持った悪い性格の役人がいた場合、排他的で嫌な目に合う庶民もいるだろう。
国家に属する者が富んでばかりいるけど、属さない庶民がずっと貧しい場合、それは庶民にとって不幸をもたらすものにしかならない。
国家が推進する方針が自身に合わなかった場合は、ずっと迫害されるような立場での生活が余儀なくされることもある。
また、そんな人は「不良によって救われた経験を持つ人」になることもある。
国家が酷かった場合はそれが作るルールも酷いため、それに逆らう力を持った不良みたいな人の存在が救いになる。
分かりやすく言うと革命家やロック音楽のようなものもそうしたイメージを持っているため、そうしたものに格好良さを感じる人もいるだろう。
以上のような人を「不良サイドの人」として挙げよう。
その一方で起こりえる状況は…
「国家によって救われた経験を持つ人」が出てくることである。
国家がそれなりに良いものとして機能している場合、力もあるし金もあるので頼ることができる。
法律が守ってくれるから、それで安全な暮らしをすることができるし、外敵から守ってくれる軍もある。
そもそもそうして安全な暮らしを実現するのが国家の役割だった。
国家に属する役職の人でも良い人がいるならば、それによって救われる人もいるだろう。
また、そんな人は「不良によって不幸な目にあった経験を持つ人」になることもある。
先ほどの例では国家が悪いから不良が良いみたいな話であったが、とはいえ国家に反するような者は法律を守らないような者でもある。
暴力が先手で生きてるような者であるし、ヤクザとかマフィアみたいなのがいてもおかしくないし、殺人的な犯罪者みたいなのがいてもおかしくない。
そうした者によって不幸な目にあった人もいるだろう。
以上のような人を「国家サイドの人」として挙げよう。
そして、双方にそれぞれ言えることとして、「不良サイドの人」は「国家」に対して悪いように見えるし、「不良」に対して良いように見える。
また、「国家サイドの人」は「国家」に対して良いように見えるし、「不良」に対して悪いように見える。
これはどちらが正しいのだろうか?
先ほどのA君とB君の例のように、どちらも視点の違いであるし、経験の違いから見えていることなので、どちらも正しいと言えるだろう。
このように思想が違う人がいた場合は、経験の違いからそれが起きていることを理解したり、全体を多方面から見渡すことでその実態が見えてくるわけである。
そうした法則を理解すると・・・つきつめると「高次元」的なものも分かってくるのではないだろうか?
日常
次に、日常に近い例え話をしてみよう。
日常的で一般的なテーマとなると・・・「親」の問題とか重要ではないだろうか?
すべての人間は父親と母親によって生まれる・・・というのは当然のこととして・・・
そうした中で親によって良い経験を持つ者と、悪い経験を持つ者とがいるだろう。
分かりやすく言うと一方は善良な親、もう一方は子供を虐待するような親ということになるが・・・両者の子供はそれぞれ経験が大きく違ってくるのは分かるだろう。
このように、親によって良い経験を持つ人は「親は良いものだ」という価値観になるし…
親によって悪い経験を持つ人は「親は悪いものだ」という価値観になる。
こうして見ると単純な原理であるが、日常会話において意外と見落としやすい原理でもある。
これが分からない場合、ちょっとしたことで意見の食い違いが起きることもあるのではないだろうか?
とりあえず一例として「親」を挙げてみたが・・・
これを例えば異性の問題・・・「男」に置き換えたり「女」に置き換えた場合でも同様のことが言えたりするのではないだろうか?
こうしたことに関しては・・・やはり経験によってはどちらも言いたいことは分かる・・・みたいな前提を頭の片隅に置いておくと良いと思う。
医療
今度は「医療」をテーマにした事例を挙げよう。
「社会」のテーマをやった際は、権威的なものの対象として「国家」があった。
「医療」をテーマにした場合、今度は権威的なものの対象が「科学」になる。
そして、科学といったら西洋医学であり、西洋医学といったらそれによって発展した医療である。
たまに病院に行く程度の人もいれば、よく病院に行く人もいるだろう。民間の小さい病院から国立の大きい病院まで・・・
そうした医療機関はみんなが頼るものであると同時に、とてつもない権威を持っているものでもある。
しかし、世の中には西洋医学を好まない人もいる。
そういう人は科学を好まない人でもあり、科学によって作られたものより、もっと自然で作られたものを好むし、できることなら自然のものばかりに関わり続けて生きたい・・・そうした「自然派」のような人たちもいるわけである。
自然派の人は科学による医療は好まないが、自然に近いものを調合した身体に良いものを接種したり、自然に頼った健康法を行ったりするような・・・自然派の医療のようなものを好む。
ここでも、「西洋医学は悪い・それに対する自然派の医療が良い」みたいな価値観を持つ人がいれば、
「西洋医学は良い・それに対する自然派の医療が悪い(というより怪しい?)」みたいな価値観を持つ人もいる。
何故そうした対立が起きるのだろうか?を考えると…
やはり「経験」の問題が重要である。
「西洋医学は悪い」の立場の人は「西洋医学によって不幸な目にあった経験を持つ人」である。
なにか体質が合わないなどの理由があったのだろう。
それか、科学が身体を悪くさせる側面があることはその通りでもあるし、公害みたいなことが起きているのも事実であるので、医学や科学によって何か不幸になる経験を持った人なのかもしれない。
そんな人は「自然派によって救われた経験を持つ人」でもあり、「自然派」に向かう人はなにかそれによって救われた経験を持った人なのかもしれない。
一方で、「西洋医学は良い」の立場の人は「西洋医学によって救われた経験を持つ人」である。
これは割と当たり前の話だろう・・・。大変なケガや病気を負ってしまった結果、手術によって救われることもあるだろうし・・・。そこまでの一大事でなくても、割と日常的に西洋医学の恩恵を受けることが多いのが現代人である。
そんな人は「自然派によって不幸になった経験を持つ人」かもしれない・・・
いや、これに関してはそれほどの経験を持つ人はあまりいないだろうが・・・何かよほど狂信的な自然派に絡まれて嫌な目に合うことがもしかしたらあるかもしれない・・・
あと、医療従事者みたいな立場の人はどうしても自然派の人を目の敵にしやすいため、ちょっと難しい関係になることもあるだろう。
とはいえ、そこまで不幸な目に会ったわけではない場合は、「ちょっと怪しい」と思うぐらいかもしれない。
以上のように、「西洋医学派サイド」と「自然派サイド」はそうした経験の違いによる対立だと捉えることができる。
「国家サイドと不良サイド」の話の時みたいに、同様の対立関係が出てきたわけだが・・・
今回はその話とはちょっと違ってくる。
国家の問題は生まれた環境・身分・貧富の違いなどによって恵まれた一部しか国家の恩恵を受けることがなくて、そこから対立や分断が起きるものになっている。
しかし、医療の問題はもしその機会が均等に与えられていた場合、全員が平等に恩恵を受けることができる。現に、日本の医療制度はおおむねそうしたものになっているだろう。
それでも発生する問題である。
ここで「科学の性質」を踏まえて客観的に考えてみよう。
科学は合理的に成功する手段をつきつめるものなので、科学によって成功する人は多い。それは客観的な数値で高い%が出るものであるように、より多い数の人間がなるべく上手くいくようにできている。
西洋医学もそうした科学的合理性にもとづいて発展しているものなため、それによって生存している人が多い。
人類の死亡率が下がって生存率が上がったのは科学が飛躍的に発展してからであるし、人口増加と科学の発展には有意な相関がある。
科学はそうやって合理的に上手くいっているとは言えるし、それで成功している人の数の方が多いから科学や西洋医学が一般的に支持されている経緯がある。
しかしながら、そうでありながらも自然派の方が良い人もいる。
科学で成功している人の数の方が多いといっても・・・そうでない人にとっては駄目なものは駄目だろう。
いわば多数派の方が上手くいく社会になっているが、少数派の人がどんどん不幸な目になっていく場合は、そんな世界で良いとはならない。
「科学派×自然派」はそんな対立問題であり、これには科学がこれまで起こしてきた弊害の問題がもちろん絡んでいる。
公害のような科学の問題で不幸になった人や、医学の悪い面の被害を受けてしまった人のことも否定することはできない。
科学が引き起こしてきた自然破壊や環境破壊の問題とか・・・つきつめるとその辺りの問題にも絡んでくる。
とはいえ、現代の医療に関してはなるべく均等に恩恵が受けられるようにできているし・・・
それで人によって得するか損するかは各々の体質によるみたいな話になるので・・・
つまり・・・結局の所・・・体質によるんじゃないか?という気もする。
科学派の方が合っている体質の人はそっちを支持するし、自然派の方が合っている体質の人はそっちを支持する。
「それはそうだろう」というぐらい単純な原理だが・・・意外とその重要さを見落としてる人が多いのではないだろうか?
体質というのは言い換えると・・・個々の身体の違いに該当するわけだが、個々の身体の違いの問題というのも非常に奥が深い。
先ほどの「国家サイドと不良サイド」の話もそうだったが・・・これも「どちらで生きることに適した肉体を生まれ持っているか」で決まるような所もある。
以上のように・・・
そうした視点で物事を考えてみると良いのではないだろうか?
相対主義のおさらい
これまで「社会」「日常」「医療」の三つのテーマから「経験によって生まれる思想の違い」の話をしてきた。
ここで言いたいのは「思想の違いは経験の違いから生まれてくる」ことと「双方や全体を俯瞰するとその構造が見えてくる」ことである。
今回は分かりやすく二つの立場に分けたが…
このように立場によって正しいもの(=真理)が違うのだから「真理は人それぞれである」みたいな話は、紀元前5世紀あたりにプロタゴラスという哲学者が既に言ってたことで「相対主義」という名前もついている。
彼は「人間は万物の尺度である」という有名な言葉を残した。
昔の古代ギリシャの哲学で既にそんなことが言われていたわけだが・・・
紀元前5世紀の時点で「真理は人それぞれである。はい。おしまい」なんて言っても「それで終わりにして良いわけあるか!」となるので・・・後にソクラテスやその弟子であるプラトンが登場し、プラトンは「永遠不変の真理とは何か?」を探るスタンスで哲学をやっていて・・・
そこから長い長い西洋哲学の歴史が始まる。
先ほどの話だと「双方や全体を俯瞰するとその構造が見えてくる」ことが重要であり、個々の経験にこだわると相対的な正しさしか見えてこないが、全体を俯瞰して構造をみるとそこには合理性や物理法則のようなものが見えてくる。
「合理論」のような視点で世界を捉えようとした人物といったらデカルトだが、デカルトの合理論的なアプローチの正しさも分かってくる。
ヌーソロジーにおける『等化』もその辺りが重要であり・・・
個々の経験や主観があることを重要視しながらも、そこから全体を俯瞰した時に見える法則や数学的構造のようなものを理解していくのがヌーソロジーだと言って良いだろう。
以上。
弁証法、陰陽論、幾何事象的な具体例、社会事象的な具体例、相対主義・・・と説明してきて長くなったので・・・
続きは後編としよう。
↓続き