さらにオタクとは何か?問題について書いていこう。
このシリーズは今回の「⑤」で最後にする。
前回までの②~④ではとにかく色んな出来事を挙げていくことが中心だった。
オタク界隈では2000年から2019年にかけてあれほど色んな変異があったということは、オタクの在り方やオタクの意識にもそれだけ色々と変異があったということである。
だから「オタクとは何か?」を考えるにおいて、何が起きていったかを長々と追っていく必要があった。
さて、今回はそれらを踏まえて再度「結局オタクとは何なのか?」について書いていく。
再考、オタクとは何か?
改めて考えると「オタク」とは何なのか?
第一世代、第二世代、第三世代におけるオタクなど、
様々な捉え方があるが・・・
第三世代後を生きた自分(Raimu)の感覚だと、
やはり、コンピューターやデジタルコンテンツが中心になってくるように思う。
コンピューターの扱いやインターネットの扱いに長けてることが第三世代以降のオタクであるとを踏まえつつ、第一世代、第二世代にも通じるオタクの能力は何か?ということを考えると・・・キーワードは「情報共有」になってくる。
そうなると、オタクは情報共有が得意な者ということになるのではないだろうか?
そもそも、「オタク原人」や「オタク第一世代」は「研究者」みたいな人に該当するわけだが、
研究者タイプの人にとって大事な能力とは何か?
それは「情報を残す」と「残された情報から知識を得る」を兼ねた「情報共有能力」なのである。
西洋で学問を創始した者、学問の中で研究していた者、科学を研究してる者、歴史を研究してる者、日本で異国から伝えられた学問を研究してる者・・・
皆、どうやって研究していたかというと、自身の研究を文字として記録に残し、加えて、先人が残した記録を読み取りながらそれを継承していった。
今日まで発展している様々な学問があるが、それらはすべて「情報を残す」と「残された情報から知識を得る」ことによって継承されていったから発展していった。
現代ではその情報に「虚構」と「幻想」が多く生じるようになり(オタク第二世代)、さらに、コンピューターによってデジタルデータ化された情報を残せるようになった(オタク第三世代)。
さらにインターネットによる情報流通も可能になり、バーチャルな世界がどんどん発展していくようになった。
こうして、コンピューターやデジタルコンテンツが中心の時代になって形は変わっていったが・・・そこでオタクの間で行われることも元々は「情報を残す」という作用から生まれたことであり、「情報共有」の強みを持っているのである。
それから、毎年ビックサイトでオタクのイベントとして「コミックマーケット」が開催されているが、
あれも実は「情報残し合戦をする祭り」なのである。
「同人誌即売会」ということで同人誌を売り合うのがメインの場所だが、そもそも同人誌とはエロ漫画や二次創作漫画に限ったものではなく、同じ志を持つ者が趣味で自ら作った雑誌のことを「同人誌」と呼ぶ。だからあれは「同士の為に残す文書」なのである。
そこにいる者達は大体、運動は苦手だったりするし、声出して騒いだりして祭りをやるのは苦手な人ばかりである。しかし、何かしらの情報を残すスキルにだけは長けているから、同人誌を出すのである。
そうして同人誌として情報を残すことに長けた者達が、同士のためにそのスキルを発揮して同人誌を出す祭り・・・それこそがコミックマーケットである!
以上。「オタク」は「情報を残すこと」や「情報を共有すること」と密接に関係した存在であることが分かっただろうか?
再考、「普通の人」とは何か?
さて、一方でオタクではない「普通の人」とは何なのか?
それは「普通に生きるために必要な能力がそこそこ高い人」である。
そして、人間が普通に生きる分には伸ばしとておくと良い代表的な能力が二つある・・・
それは「運動能力」と「発声能力」である。
普通の人はとにかく身体が動いて仕事ができれば良いので体力が重要である。
また、運動ができる方がシンプルに人気が出やすいのは言うまでもないだろう。
現代は原始時代や江戸時代ほどに肉体を動かすことが重要ではなくなっているが、動こうと思えば動ける能力や体力といったものはあくまで必要であり、男も女もあった方が良いに決まってるものである。
それから、発声能力もめちゃくちゃ重要である。
人間は言葉によって連携し、一致団結することであらゆる野生動物をも圧倒するほどの力を得るように進化した生き物である。
したがって、人間が野生動物よりも優れた成果を出すには、運動能力より発声能力の方が大事かもしれないぐらい大事である。
これは「コミュニケーション能力」と言い変えても良いが・・・それだと語弊があるため、発声能力の方が的を得ているし分かりやすい。
単純な連携や意思伝達においては、高度な知性によるコミュニケーションよりも、発声に優れた肉体を持っている方が有利である。
つまり、運動能力と発声能力に欠けるが、情報共有能力に長けている者がオタクということになる。
あるいは、どちらがどれほど長けているか次第で、オタク度合いと一般人度合いが決まってくる。
運動能力の方が欠けてる人とか、発声能力の方が欠けてる人とか色々いるだろうが、そもそもオタクか一般人かは明確に分けられる話ではなく、オタク度合いと一般人度合いには色々ある。
ハッキリ言ってしまうと、運動能力と発声能力が低い者は普通に生きる分には不利で、運動能力と発声能力の両方、あるいはどちらかがなるべく高い方が有利である。
しかし、人間が持つ「情報を残す」能力も社会の発展には必要不可欠である。
さかのぼると農耕技術もそこから生じているし、薬の発明や科学の登場にもそれが関係している。それから、現代においても必要な情報を整理してコンピューターに残す者が必要である。
それが無ければどうしても生きづまってしまうから、そういう能力の需要がある。
だから、運動能力と発声能力を犠牲にしてまで、そういう能力を伸ばす者もいるし、その必要性もある。
あるいは、運動能力と発声能力と情報共有能力の全部を持ってれば良い話でもあるが・・・
そんな完全な人間はそう簡単にいないのが世の中である。
上位10%圏内とか運が良いほどに優れたスペックを持って生まれない限り、それは難しいからそこそこの能力でなんとかするのが普通なため、大衆はだいたい伸ばせる能力をどれか伸ばしていくことになる。
したがって、運動能力と発声能力が低くとも、情報共有能力に長けている者が出てくるのは必然であり、情報共有能力に長けているならそれによる利点があるため、それを活かしていくしかない。
そうしたスタンスで一般人に勝つべく反骨精神で挑んでいくのが、岡田斗司夫も理想としたような「強いオタク」の在り方だと思う。
新種のオタク誕生の話
ちなみに、2010年代のオタク事情は、やはり昔よりも変化はしている。
発声能力の高いオタクが誕生しているのである。
きっかけとなった技術革新は、動画配信技術とYoutubeである。
動画配信技術が発達する前のコンピューターだと、「情報を残す」ことをやりたい場合、テキストを地道に書くか、イラストを地道に描くか、そのためのソフトウェアを地道に開発するか・・・になる。そうしたデジタル操作が中心になるので、何かしらのオタク的な技術が高い人しか情報を残す作業ができなかった。
だから2000年付近の古いオタクは2chに入り浸って技術を高めているイメージになる。
しかし、動画配信技術の登場で状況が変わっていった。
動画で情報を残すのが容易になるぐらいコンピューターが発展することで、「声を出して動画として記録すること」で情報を残すことができるようになったし、「声を出して配信すること」で色んな人から人気を得ることが可能になった。
動画配信者にとって重要な能力として「ビジュアル」なども大事ではあるが・・・やはり最重要は「声」である。さらに、「面白さ」も声の広がりによって演出することができるため、発声能力は動画配信者にとって基本的な能力になる。
HIKAKINとかはそもそも『Super Mario Beatbox』でバズったBeatboxマスターのため、発声能力がズバ抜けてる人間が活躍している典型である。
2000年代後期あたりからゲーム実況者がよく出てくるようになったが、あれもほとんど「発声能力の高いオタク」である。
それから、アニメが好きな声優とかも発声能力の高いオタクであるし、しょこたんみたいなオタクアイドルの登場もその伏線だったのだろうか?
2010年代後期になるとVTuberが活躍する時代になるが、あれも発声能力が一番重要であることは言うまでもないだろう。
あるいは、今の時代に活躍できるのは最近生まれた「発声能力の高いオタク」だけではなく、
2000年代より以前にも「発声能力が高くてオタク力も高い」タイプの人がいて、動画配信技術によってそうした人がまた新たに活躍しやすい時代になったということもある。
そんな感じで、新種のオタクが登場する流れが来ているわけだが・・・
とはいえ、後述するがオタクにも色々といるし、「オタクかそうでないか」よりも「どういう能力をどれほど持ってるか」の方が重要なので・・・
色んな路線のオタクが考えられる。
ライト・ノーマル・ヘビー
オタクの特徴の次に重要なのは、その特徴を持ってる度合いの話である。
オタクはその度合いによって「ライト・ノーマル・ヘビー」にざっくりと分けることができる。
昔はオタクと言ったら「ヘビーオタクのような人か、それ以外の一般人か」に分けられがちだったかもしれないが、時代が進むごとにそうではなくなったし、オタク文化の大衆化によって「ライトオタク」が増えたり、明確な区別の難しいグレーゾーンな人が増えた。
そんなわけで「ライト・ノーマル・ヘビー」の区分が大事になったため、それについて説明していこうと思う。
ライトオタク
まずは「ライトオタク」について。
これは言葉の通りライト(軽い)なオタクである。
この存在はオタクが迫害されていた時代には考えられなかったもので、2000年代後半や2010年代に増えていった。
「カジュアルオタク」や「ファッションオタク」といったワードも最近あるが、それも大体「ライトオタク」にカテゴライズされる。
ライトオタクが増えた要因は色々と考えられるが・・・
主要な要因はアニメのクオリティの向上と、それから、スマホゲームやスマホで読める漫画の普及だろうか?
まず、2000年代後期からテレビドラマ「電車男」によるネガティブなオタクイメージの払拭や、任天堂の「ゲーム人口の拡大戦略」によって携帯ゲーム機を所持することが自然な流れを作った。
さらに、そこからアニメの普及とスマホの普及によって、それらの面白いコンテンツをカジュアルに楽しむ人が増えることで、ライトオタクに該当する人が増えたのだと思われる。
「オタク」というと突き詰めると「一つのことを極めつくす」みたいな者もいるが・・・
それよりカジュアルに「アニメとかをよく観るオタク」になると、大体ライトオタク辺りになる。
現代はアニメが面白いからアニメを観ているが、それより他に面白いものがあればそっちの方をやるかもしれない。
ゲームはスマホゲームをやりがちなのもライトオタクであるし、
任天堂のゲームもかなり人気になったので、そっちをやっているかもしれない。
ライトオタクはアニメやゲームなどのコンテンツで人気なものを楽しむ程度で、対してオタクじゃないじゃんという話になるが・・・
一方で一般人についていくとなると、それはそれでちょっと辛い思いをしている人もいる。
だからアニメとかは好きでオタクの方向に行く必然性もある。
普通の人になろうと思えばちょっと辛いかもしれないが、それなりになれるレベルなため、
生まれた時代が違ければオタクってほどになってないかもしれない。
そんな感じの存在がライトオタクである。
ヘビーオタク
ライトオタクの次はノーマルオタクの説明・・・と行きたい所だが、
「ヘビーオタク」の方が説明が簡単なので先にそちらを説明しておく。
ヘビーオタクはオタク度がヘビー(重度)なレベルであり、徹底的にオタクらしいオタクである。
オタクの端的な意味は「社会的な常識に欠けるぐらい、特定の物事に異常に詳しい人」だが、
「社会的な常識に欠けるぐらい」に該当しちゃうレベルで重度なのがヘビーオタクである。
ヘビーオタクはヘビーなので、オタクとして後には戻れない。
例えば普通の人ならちょっとは現実の異性とかに興味を持ったりするが、世間の人が好きなことなど本気でどうでも良い。
専門分野が突き詰める先に幸せがあるため、それを突き詰めれば良いだけである。
ヘビーオタクとなると、そこにかける金も大体凄いことになる。
趣味がパソコン系の場合は高機能なパソコンだったり、普通の人が持ってないぐらい高価なものを使ってたりするのも特徴だと言えるだろう。
従来の「オタク第一世代」のように、偏屈なまでに徹底しているのがヘビーオタクである。
ノーマルオタク
次にノーマルオタクについてである。
ノーマルってどれくらいだ?って話になるかもしれないが、
だいたいライトオタクとヘビーオタクの真ん中ぐらいである。
言ってしまうとライトとノーマル、ヘビーとノーマルの境界は曖昧なので、
判断基準はざっくりしたものになるが、とりあえず、ライトの要素とヘビーの要素を両方持っているのがノーマルとしよう。
ノーマルオタクはライトの要素を持っているので、異性に興味を持つこと自体はあるし、
社会的な常識は踏まえながら生きる意識も一応それなりに持っている。
一方で、ヘビーの要素を持ってるので特定の物事に詳しいし、
一つのことを徹底的に極めたい意識もある。
ほとんどヘビーオタクと言える人でも、一般人に通じる感覚をそれなりに持っているのであれば、ノーマルオタクに該当すると思う。
あるいは、ライトオタクっぽい人でも、こだわりのレベルがちょっとヘビーだったらノーマルオタクに該当するかもしれない。
そんな感じで、ライトの方によっていくか、ヘビーの方によっていくは微妙な所だが・・・
(どちらかというとヘビーの方に本質があるかもしれないが)
そんな微妙な存在がノーマルオタクである。
理系・文系
一言に「オタク」というと、まずは「ライト・ノーマル・ヘビー」に分けられ、
さらに、美術系とかゲーマー系とか音楽系とかコスプレイヤー系とかアイドル・声優追っかけ系とか・・・細かく見ていくと色々なのがいる・・・
ここではその細かい所までは書かないが、ちゃんと分析するならその辺の細分化も大事だと思う。
自分(Raimu)は昔から数学好きな生粋の理系である理由もあり、
個人的には「理系かそうでないか」という「理系・文系」の区別は重要と思う。
世間一般で言われる「理系・文系」の区別は難しい側面もあり、
「理系か文系かの判断が難しい感じの人」がいるのも分かるが・・・
技術革新にこだわるタイプと、人文学的な知識にこだわるタイプはいると思う。
前者はやはり理系の行動原理に通じているし、後者は文系の行動原理に通じている。
そもそも、オタクに「文系」の枠しかなかった場合、知識を溜めるか、絵を描くみたいな技術研鑽をするかしかない。
しかし、「理系オタク」はそれより新しいものをもたらすため、時代の革新のために必須な存在と言える。
理系分野の遷移
さて、「理系オタク」についてもっと突き詰めて考えていこう。
オタク論において、理系オタクは技術革新の流れの中にいるので、
その本質を知るには技術革新についてよく理解しないといけない。
そもそも一般的な理系の役割は、技術革新によって大きく変わってくるのが特徴的である。
それは昔に行くほど生物学的であるが、一方で西洋から数学が伝えられ、それが物理学に発展するようになる。
近代以降、原子が解明されてから化学が登場するようになり、機械を扱う工学も重要になって、さらにコンピューターを扱う情報工学が重要になった。
図で整理すると以下のようになる。
これは「オタク原人」「オタク第一世代」「オタク第二世代」「オタク第三世代」の遷移にも表れている。
理系というと生物系、数学系、物理系、化学系、工学系、情報工学系・・・と色々と分けることができるが、
それぞれ「どの時代の技術に関心があるか?」によって決まる違いだとも言えると思う。
そして、理系オタクにもそうした違いが表れているわけである。
(理系視点で)オタクは何故死んだのか?
さて、岡田斗司夫の「オタク・イズ・デッド」の話になるが、
オタクは何故「死んだ」と言えるような状態になったのか?
理系分野に関していえば、その遷移を追うと一つの結論が出る。
2006年は家庭用ゲーム機は高画質な3Dゲームを作るのに十分なぐらいハイクオリティになり、
Webの世界では今でも人気なWebサービスができたということで、その骨格ができた。
80年→90年の進化や90年→00年の進化に比べると、CGの分野に関していえばそこから先の進化の加速は落ち着いている。
さて、こうした技術の限界についての話は、書籍『イーロン・マスク 未来を創る男』にも言及されている。
米国防総省海軍航空戦センターの物理学者ジョナサン・ヒューブナーの言説から、以下のようなことが書かれていた。
1985年から兵器設計を手がけていたヒューブナーは、材料やエネルギー、ソフトウェアの最新技術動向に造詣が深い。ドットコム・バブル崩壊後、イノベーションとは名ばかりの代物しか登場しない状況を苦々しい思いで眺めていたという。2005年、ヒューブナーは「衰退に向かいかねない世界のイノベーション」と題した論文を著している。
彼はイノベーションの現状を木登りにたとえた。すでに人類はイノベーションという木の幹を登りきり、大枝らしい大枝はほとんど登り尽くした状態にある。つまり、車や電気、飛行機、電話、トランジスターなど、革命的なアイデアはほとんど出し尽くされたというのだ。
今は、木のてっぺんにある枝の先あたりにしがみついていて、過去の発明の改良に終始している。その証拠に、生活を一変させるような発明が出現する頻度が落ち始めているとヒューブナーは指摘する。人口1人当たりの特許件数も減少の一途をたどっているという。
「ドットコム・バブル」とは、1990年代前期から2000年代初期にかけてアメリカ合衆国のIT関連企業を中心に起きていたバブルである。2002年にはこれがほぼ完全に沈下していて、多くのIT関連ベンチャーが倒産し、めぼしいイノベーションが起きないようになってしまった。
そんなわけで、アメリカでもこうした危機感を持っていた人がいるらしい。
そこに着目すると、この時期に人類に起きたこととして言えるのは・・・科学の終焉である。
2006年辺りの時期に、科学の限界を感じることが起きているのである。
2006年の「オタク・イズ・デッド」は、実は「サイエンス・イズ・デッド」だったのだろうか?
もちろん、2006年からも科学は進化していったし、コンピューター技術も進化していったため、完全に終わっているわけではない。
その後のイノベーションとして、2007年にスティーブ・ジョブズが発表したiPhoneが挙げられるし、それによってスマホ産業が発展するようになった。
他にも、2012年頃からビッグデータの活用や人工知能の研究がされるなどがあるし、現在のアメリカでも情報通信産業への投資が再び進むようになっている。
したがって、これから発展していく分野をピックアップしていくことは大事である。
理系として科学の可能性を諦めるべきでないのは分かるし、
先の本でも、イーロン・マスクは科学によってより新しい可能性を開くことに挑戦している。
イーロン・マスクが主に注目すると決めている分野は「インターネット」「宇宙」「再生可能エネルギー」である。イーロン・マスクがやっているように、これから発展していく見込みのある分野を見極めて、それを成長させていくことは大事である。
しかし、科学においてこれから成長する分野や、利益が見込める分野は何なのか?
投資家やビジネスマンの視点でもそれは難しいことになっている。
昔よりも科学の成長について慎重に考慮しなければいけない状況になった。
もしかすると、よほどの天才でない限りはそれに関わることができない時代になったのかもしれない?
科学において発展する分野はこれからもあるだろうと思う。
しかし、一昔前とは大きく状況が変わっていってることを考えなければならない。
特に「サイエンス・イズ・デッド」の話は、理系オタクにとっては生き方や役割が変わったことを示すことでもある。
これも壮大なテーマになるのではないだろうか?
オタクは終わったのか?
技術の発展による原因もあり、オタクの生き方が変わっていった。
そんな中で、オタクはもう駄目だとかオワコンだとかいらないとか、
明らかに駄目とする言説には反対したい所ではあるが・・・
しかしながら、オタクが全盛期だった90年代やゼロ年代ほどには必要とされなくなっているのは確かなのかもしれない・・・
昔のノリが昔ほどは通用せず、「時代遅れ」ってことはあるだろうとは思う。
しかし、それでも昔から必要とされているオタクの美学である「情報を残す」「とにかく俺が好きなものをやる」といった精神は、時代が進んでも永遠に必要なものなので大事にしたい。
特に、ヘビーオタクに関しては、オタクとして生きるしかないからそれで良い。
一方で、ライトオタクに関しては、そこまでのこだわりがないなら一般人の真似をするように迎合する道でも良いのでは?と思う。
ノーマルオタクは両方持っているので微妙である。
最近、スマホゲームやソーシャルゲームに課金するオタクや、VTuberに課金するオタクが増えた。それらはライトオタクに該当するため、そういう流れが来ているわけである。
その一方で、マッチングアプリの流行や、ナンパ師が活躍して目立つ風潮なんかもあって、美容や女遊び方面に課金するような人も出てきた。ライトオタクに該当する者達は、そっちの方に行くこともあり得るようになった。ライトの要素を持つノーマルオタクもその影響を多少は受けることになる。
そんな感じでバーチャルからリアルへの移行もあり、そういう流れもアリなのかもしれない?
昔のノリが時代遅れになり、新しい流れが来ている・・・
岡田斗司夫も言っていた「オタクが死んだ」は「昭和が死んだ」という意味なので、
古い時代が死んでしまったことは仕方がない。
新しい時代には進んでいることは、それが悪いとは限らない。
それでいて、昔ながらの美学もどこかに残っているかもしれないので、そうしたものを探求していきたい。
現代はとにかく「情報過多」の時代になっていて、本当に優れているものを探すことが難しくなってしまった。
しかし、その一方で情報が溢れていることを利用すれば「自分がやりたいことを選んで情報収集し、それを実行することができる時代」にもなっていると思う。
そんなわけで天才が活躍できる時代にもなっているような気がする。
その可能性に注目すれば、本当に優れたオタク精神を持つ人間は探せばまだまだいるかもしれない。
我々はこれからどうなるか分からないが、
引き続き、そんな社会を生きていこう。
おまけ
漫画家の押切蓮介氏が自身の体験を描いたエッセイ漫画『ピコピコ少年』が面白い。
この人はゲームセンターのゲームをメインの題材にした漫画『ハイスコアガール』で有名な人である。
『ピコピコ少年』はその名前の通り、ピコピコ少年のように生粋のゲーム好きだった作者が、ゲームとの付き合いの中で選りすぐりの思い出となった面白エピソードを描いた漫画である。
押切蓮介の生まれは1979年。代表的なオタク第三世代であり、ゲーマー系オタクである。
筋金入りのゲーマー系オタク第三世代がどんな価値観を持ち、何を思って生きるのか・・・
徹底的な「オタク道」の一つを知るためにもオススメの書籍である。
それから、『ハイスコアガール』ももちろん面白いため、オススメである。
(あまりにも面白かったので、自分は全巻購入した。)