現代社会考察

宮台真司の思想とヌーソロジーの関係についてちゃんと書いておく

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社会学者の宮台真司

個人的には、ヌーソロジー界隈で少し話題として取り上げられるようになってから、たまに名前を聞くようになった。
話題になってるということで、自分も著作を読んだり動画を観たりして、内容を把握するようにした。

最近は界隈で取り上げてる人があまり見当たらないものの、
その内容についてが無性に気になってきた。
ヌーソロジーとの関係をちゃんと整理しないといけないかもしれない・・・とテキストにまとめてたら止まらなくなってしまい、めちゃくちゃ長い大作のようなものが完成したので、今回の記事をリリースしようと思う。

結論から言うと・・・
宮台真司はヌーソロジー的に「思形と感性の等化に失敗している」という批判よりの内容になる。

どうしてそう言えるのか?についてを長々と説明していこうと思う。
 

~目次~

・宮台真司はどんな人間性を持っているのか?
・「法の奴隷」について
・宮台真司と「法の奴隷」
・「損得マシン」について
・宮台真司と「損得マシン」
・「言葉の自動機械」について
・宮台真司と「言葉の自動機械」
・宮台真司もクズと言えるのか?
・ヌーソロジー的な問題点について
・「法外のシンクロ」について
・言いたいことは分かる(法外のシンクロ)
・言いたいことは分かる(損得勘定なしの繋がり)
・ヌーソロジーと宮台真司は相性が良い?
・ヌーソロジーの思形と感性について
・色々と批判はしたけれど・・・
・政治に対する言い分について
・正誤が混じっている厄介さ
・やっぱりクズとか言っちゃ駄目なのでは?
・オタクと意識進化について
・おわりに

 
 

宮台真司はどんな人間性を持っているのか?

まずは人格面についてから。
宮台真司という男はどんな人間性を持っているのか?
という話である。

宮台真司は天才?結婚や嫁と子供・高校と大学など学歴と経歴・オウム真理教との関係まとめ

↑の記事に書いてある通り、生まれはエリート一家らしい。
父親は東京大学農学部出身で、大手飲料メーカーの取締役。
母親もエリート一家の生まれで英文タイピストというモダンな職業についていた。

父親の転勤が多く、小学校を6回転校するぐらいの苦労があったものの、中学受験で麻布学園に進学。
そんなわけでとても頭が良く、むしろ「頭が良すぎるぐらい良い」と言っても良いかもしれない。
大学は東京大学に進学して大学院まで行くことになっている。
経歴だけで判断すればかなりのエリートである。

加えて「性愛」の分野に強い特徴がある。女にモテてたエピソードは枚挙に暇がない。
大学院時代にテレクラにハマったり、東京大学の助手時代は女子高校生の彼女がいたりした。
フィールドワークと称して援助交際を積極的にしようとする思想もそうした特徴からきている。

あと、ルール無用の世界に強い。進学した麻布学園は学園紛争で荒廃していたため、教員を中心とする普通の学校としてほとんど機能していなかったようである。
生徒と先生の激しい対立があって、それで生徒側が勝利したような状況になったため、校則やルールといったものがない学生生活となった。
したがって、それについて考えざるを得ない環境で過ごしていた経験を持つ。

以上の経歴から培った人生経験があり、1990年代前半にブルセラ論戦で言論界に殴り込みをかけ、テレビの討論番組に常連化して知名度を上げた。

そんな高学歴な知性と破天荒な性格を併せ持っている特徴から人気があり、支持している人は多い。Twitterのフォロワー数やAmazonのレビュー、Youtube動画のコメント等を見れば大体分かると思う。

そんなわけで、支持されるだけの能力と面白さは持ってる人だとは思う。

 
・・・と、ここまでは当たり障りのない事実を書いていったが、
ここからは批判的な内容である。

宮台真司はそんな優秀そうな経歴を持つ人だが、
「自分の生き方が優れていて、そうでない生き方は劣っている」
と思いたがる人間性を持っている。
・・・のだと思う。

著作を読んだり動画を観たりしていると、
言ってることとやってることの矛盾が読みとれて、どうもおかしい人だという違和感がずっとあった。
そして色々考えた結果、自分はそういう結論に至った。

そう判断すると、言ってることとやってることの矛盾が色々と整理できて腑に落ちることができた。

宮台真司は基本的に「今の時代は劣化している」という認識があり、それを前提として社会学をやっている。それは社会の分析として妥当そうな理屈もある一方で、誤認というレベルの酷いバイアス(偏見)で言っている所もある。
また、「今の時代は劣化している」から「劣化している時代を生きてる者は劣っている」という論調になるので、必然的に「今の若者は劣っている」という内容にもなっている。

さらに、「劣っている」とみなしたものに対して、「クズ」とか「クソ」とかの言い方をする人である。
これはネット記事や動画でもしょっちゅう言ってるのですぐ分かる。

それによって、先の人間性がエゴとして自我肥大し「俺の生き方が優れていて、そうでない奴はクズ」という思考が定着してしまっている。

「クズ」や「クソ」という言葉について真面目に考えると、
「クズ」は人が使う蔑称の中で最低レベルのもので、木くずや野菜くずのような不用物であり、良い価値が全くない者とまで捉えることができるものである。
「クソ」は動物の排泄物とか、鼻糞とか耳糞のように汚いものを指す言葉であり、汚く臭いものという意味である。

そうした言葉を社会学が専門の教授という権威ある立場で積極的に言っている。
また、自身の言ってることを「俺の主張」とするだけでなく、「社会学」のようなアカデミズムの中の学問として扱おうとまでしている。
影響力が高いから厄介でもあり、それによってヌーソロジーにまで影響が及んでしまったため、自分も言及しないといけなくなった。

要するに、宮台真司は頭が良すぎるぐらい良いからそれがめちゃくちゃ凄いことではあるし、男らしくてモテるから人気もあるんだけど、
その一方で「俺の生き方が優れていて、そうでない奴はクズ」みたいな思考で自我肥大している人物なのである。
宮台真司について考える場合は、まずはそれを踏まえることから入らないといけない。
こうした人格や行動パターンの話は以降のすべての話に通じてくる。

これから宮台真司が言っている「法の奴隷」「損得マシン」「言葉の自動機械」「法外のシンクロ」といった概念について説明していく。
そこに正しい理屈はあると思う。
しかし、結局は「俺の生き方が優れていて、そうでない奴はクズ」みたいな思考によってそれらで言いたいことがすべて台無しになってることも分かってくるため、それについても説明する。
 

「法の奴隷」について

まず、宮台真司の言う「クズ」とは何なのか?
これには一応、定義づけがされており、
「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」の三つに当てはまる人がクズとされている。

最初に「法の奴隷」から説明していこう。

「法の奴隷」とは何か?
文字通りだと「法の奴隷になってるもの」ということになる。

では「法」とは何か?
これはつきつめると非常に抽象的な概念であるが、宮台真司の言うものはまず普通に「法律」を指すようである。つまり国家が決めたルールで、破ると犯罪として罰則されるものである。
学校が決めたことや会社が決めたことなどのローカルルールも適用されるのだろうか?
それも当てはまるのだろうが、初見だとその辺が曖昧になってて分かりづらくもなっている。

さらにドイツの社会学者マックス・ウェーバーが提唱した「鉄の檻」という概念も引用される。
これは近代の行政官僚制や資本主義において出てきたものであり、『支配の社会学』や『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で論じられている。

◆支配の社会学 – Wikipedia

まず、近代化によって行政官僚のシステムは徹底的に合理化するようになった。そして合理化とは予測可能で計算可能なものにすることである。言い換えれば「AということをすればBという成果が必ず出る」という安定を可能にするものである。
例えば「会社に定時に出勤していればこれだけのお金が必ず貰える」とか「この会社に10年に勤め続けていれば必ず年収がこれだけ増える」とまで言えば分かりやすいだろうか?
そうしたことを行政官僚がやってると、確実な安定が求められる一方で、単一支配的な傾向や閉鎖性を生み出すようになるため、その比喩として提唱されたものが「鉄の檻」である。

また、そうした「鉄の檻」と「法」は同様のものであり、「法の奴隷」は「鉄の檻の奴隷」でもあると言うことができる。

その文脈だと「法」は「安定と合理性をもたらすもの」ということになり、指してるものが少し抽象的になる。

宮台真司の言いたい「法」は、破ると犯罪になるものなのか? 安定と合理性をもたらすものなのか? その辺は曖昧に使っててよく分からない特徴がある。そこがややこしい所でもあるのだが・・・

ひとまず「安定と合理性をもたらすもの」としての側面について考えよう。
我々が社会を生きていくにおいて「安定と合理性をもたらすものにそれなりに頼ること」はよくある。
それを「保守性」と呼ぼう。
そこで「奴隷」というほどまでに従属するなら確かに「法の奴隷」だが、「奴隷ってほどでもないにせよ頼る」みたいな保守性となると微妙である。
というか、これはほとんどの人が普通にやってることなのでは?

とくに現代の若者はほとんどがそうやって生きていると思う。
そもそも、今の時代は「鉄の檻」のように安定した環境なんてほとんどない社会になっているので、可能な限り保守性にすがって生きる必要があるケースも多い。
就職氷河期の時はとくに最悪だった。保守的に生きないと正社員になれずに一生不自由な貧乏でいることさえあり得たし、今もそれで苦労してる人もいる。
このように、経済的な事情によって保守性の意識が変わっていくことがある。
年収の話と子育ての話がとくにシビアであり、今の時代は400万~600万代のラインでも地味に獲得が大変な社会になっている。
その辺りのラインだと(都会か地方かにもよるが)子育ては共働き必須にもなり、大変さが出てしまう。
つまり、現代人の保守性はそうした一般的な生活を得るために必死にならなければいけないものなのである。

本当に周囲に迷惑にかけてるレベルの「法の奴隷」を批判の対象とするなら良いと思う。
しかし、「法の奴隷」と「保守性」の境界は曖昧であり、ごく一般的な「保守性」に対してまで「法の奴隷」扱いし、「クズ」とまで言い切るのはやり過ぎである。

宮台真司は「今の時代は劣化している」と見なすあまり、一般的な人に対してまで「クズ」と言うぐらいになってしまっているので、その辺りは注意が必要だと思う。
 

宮台真司と「法の奴隷」

さて、他者を批判している人を見た場合、「言ってる当人はそうではないのか?」が重要である。
宮台真司自身は「法の奴隷」とは言えないのだろうか?

法の奴隷を批判しているだけあって、
さすがに「俺は法の奴隷じゃない」という行動を心がけていると思う。

大学教授という立場上、従わなければいけない人物が常に上位にいる仕事ではないことは察することができる。
一応、教授よりも偉い役職に学長があり、上位の権限の者はいるので正確にはよく分からないが・・・それなりに自立した立場で仕事ができる役職についている。

あと、先の記事にあった通りのブルセラ論での殴り込み、援助交際や売春の肯定などから、危ういことをしながら権威的なものと戦ってるイメージが印象づけられてる人だと思う。
とくに女性関係において、法律的に危うい立ち回りをすることで、「法の奴隷」からの脱却を試みてる思想なのは分かる。

しかし、「保守性」であればどうだろうか?

宮台真司の経歴自体は、調べれば分かる通り高学歴である。
麻布学園はほとんど無法地帯みたいな環境なこともあったらしいが、最終的には東京大学という誰もが目指す最高学歴に進んでいる。
大学での仕事も上手く立ち回ることによって「大学教授」という地位にもついている。大学教授といったら今の時代からすると完全に貴族階級みたいなものだし、「権威ある役職のエリート」とみなされる立場である。

とはいえ、そうなるのが悪いとは思わないし、先も書いた通り「保守性」は一般的な現代人もよく持っているものである。

しかし、一般的な現代人まで「クズ」の対象にして批判すると、一般的な「保守性」への批判にもなり、
自身の保守的な生き方も批判の対象にはならないだろうか?

これはどこまでを「法」と解釈し、どこからを「法の奴隷」とみなすかの解釈次第にもなるが、自身の立場が大学教授という権威ある立場である以上、「法の外へ行け」「保守性の外へ抜け出せ」といったメッセージも、説得力が低いものになってしまう。

つまり、これに関しては・・・

  • あまりにも広範囲のものまで法の奴隷とみなそうとしてる点
  • 自身は大学教授という権威ある立場であるという点

以上の二つが、説得力を下げてる要因となっている。

「法」に関する話は、後述する「法外のシンクロ」の項で続くが、
ひとまずはここまでにしておこう。 
 

「損得マシン」について

次に「損得マシン」について。

これの説明は割と簡単である。
「損得でしか判断することができない人=損得マシン」
ということである。
これは分かりやすいし、損得マシンにならないことは確かに大事だと思う。

「損得勘定に従って安住する合理性」を「法」とすると「法の奴隷」にも近い概念になる。

宮台真司は大学教授なので、その地位についてる以上はお金に関しては困らない立場だと予想できる。

一方で、今の若者は年収次第では余裕なく生きてる人もいるので、
これも経済的事情次第で決まるような所もある。

「損得マシン」に関して現代人はどうなのか?
自分は単に「色んな奴がいるのではないか?」と思うが・・・

しかし、2000年代に入ってから経済的に厳しい人が増えていったし、就職氷河期の時は本当に普通に生きるだけでもキツい人が多かった。
バブルの時に得た貯蓄の余裕みたいなものが無くなることで、お金に関して存分なリスクを取ることができなくなったり、レールから外れるリスクが取りずらくなった、みたいな風潮はあると思う。
 

宮台真司と「損得マシン」

宮台真司と「損得マシン」の関係については、「法の奴隷」との関係と大体同様であると思う。

突っ込むべき所があるとしたら、例え金銭的な損得が関わらない行動であっても「自分の生き方が優れていて、そうでない生き方は劣っている」という自尊心を守るために、エゴを元にした行動をしているのなら、それは愚かな行為になり得るということだろうか?

本人は損得でやってないつもりでも、実は自尊心を満たすためにやってることもよくあるので、その辺も気をつけなければならない。

とくに男が女に対しての場合は・・・「SEXして気持ちよくなりたい」まで混ざってくるので・・・どこまでがエゴでどこまでが善意なのかの判断が難しくて分かりづらいと思う。
 

「言葉の自動機械」について

次に「言葉の自動機械」について説明する。
これは「法の奴隷」よりももっと抽象的で汎用性の広い概念である。

これを文字通りに受け取ると「言葉によって自動機械のようになること」である。

当たり前だけど我々人間は言葉を使って生きているし、とくに現代人はインターネットの発展もあってさらに多用するようになった。
そうした中で、現代の人間が無意識的にすり込まれた言葉の構造にしたがって自動的に行動するあり方が「言葉の自動機械」になるらしい。

また、「他人の言動に対して定型的なワンパターンな反応しかできない大衆」みたいなのも「言葉の自動機械」になるわけである。

「言葉の自動機械」な人間は確かにいっぱいいるが・・・例えば、宮台真司は左翼を蔑称として「パヨク」と呼んで批判する。
左翼は主権を握ってる政党に対して批判をする立場を取るが、その批判があまりにもワンパターン過ぎると、「他人の言動に対して定型的なワンパターンな反応」ということで「言葉の自動機械」みたいになってしまう。
とくに何も行動をしないのに、批判の言葉だけ言う人が最悪という話だろう。
宮台真司はそうした劣化した左翼を「パヨク」と呼んで、さらに批判の対象としているわけである。

「言葉の自動機械」に関しては社会学や経済学のレベルの話ではないし、権威にすがる人だけが当てはまる話ではない。

言葉をしゃべる我々が皆等しく陥ってしまうことなので気をつけなければならない。
 

宮台真司と「言葉の自動機械」

宮台真司自身は「言葉の自動機械」とは言えないのだろうか?
という問題について。

これに関しては・・・・「宮台真司も言葉の自動機械みたいになってるじゃないか」と断言できるのではないか?

「クズ」とか「クソ」とか「劣化」とかの言葉に明らかに囚われている。

宮台真司の著作を読んだり、動画を観たりした時に思ったけど、さすがに自己主張の一線を越えてるし、批判のやり過ぎだと思った。まさしく自動機械と呼ぶに相応しいぐらいしょっちゅう使っている。
明らかにそうじゃないのか? 宮台真司を支持してる人はそう思わないのだろうか・・・?

ちなみに、宮台真司のゼミのLINEグループはLINEスタンプの使用が禁止されているらしい。
それぐらい言葉の使い方が重要視されていて、絵文字も言葉の劣化を生むということで批判されている。

確かに言いたいことは分かる。言葉でない表現を雑に使ってると、言葉の表現は確かに劣化することはあり得る。
まぁしかしながら実際にそれらを使ってみると・・・絵文字は特に表現の幅が増えるし、使ってみると使い方次第ではいくらでも面白いように使えるとも思えるのだが・・・

言葉の使い方や表現技法にそれほどこだわるのは良いが、
「クズ」とか「劣化」とかの言葉をLINEスタンプのように多用していたらそれこそ劣化したコミュニケーションのようになるのでは?

そもそも、いくら批判するべき対象があったとしても、やたらとクズ呼ばわりするだけでは、そこから良い方向には行くとは思えない。

宮台真司がやってることをもっと哲学っぽく記述すると「言葉の自動機械をクズと批判して脱却しようとする言葉の自動機械的なやり方」ということになる。
そのやり方は哲学的にも脱却の糸口が見えない、成長や進化が止まる方向性になるだろう。

とにかく、クズ呼ばわりに良い価値なんてないと思う。
中には「宮台真司は狙いがあってクズという言葉を多用する」とか言ってる人もいる。
そういう言葉を使うことでクズを奮起させて、クズを変えることができるという理屈である。
例えば、若者をクズと呼んで煽れば、若者が怒って噴気して、クズから脱却して変わってくれるだろうみたいな言い分らしいが・・・

それが通用するなんて絶対にあり得ないし、そんなやり方で良いとする大人がいるのが信じられないレベルの愚行だと思う。考えが甘すぎる。
現に宮台真司は若者から支持されない一方なので、その現実は受け止めるべきだと思う。
 

宮台真司もクズと言えるのか?

宮台真司は他人を「クズ」と言って批判するが、
宮台真司自身は「クズ」とは言えないのだろうか?
これはすごく重要なことだと思う。

宮台真司の言う「クズ」は「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」の三つに当てはまる人である。

先ほども書いたように、
「言葉の自動機械」に関してはクズみたいだとはっきりと言えるのでは?
と思う。

それから、「法の奴隷」あたりはそうでもないと書いたが、「保守性」については意識するべきだと思う。

また、「法」は広義においては「合理的なやり方」の意味もあった。
あまり「クズ」みたいな言い方をすると、クズ側が敵で、クズを批判する側が味方みたいになる。
このように相手を「敵」とみなし、「敵・味方」の構造を作ってそこに安住するやり方は、宗教においてずっと使われているやり方である。
そうした「敵・味方」を作る戦略があまりにも合理的になってしまった場合、その合理性の奴隷になってると言えるだろう。

そもそも「クズ」という言葉は蔑称として最低レベルのものである。
宮台真司を支持してる人がいる中でそういう言葉を多用すると、受け手にとっては「クズは悪いから、クズになりたくない」という恐れの感情が芽生えるようになる。つまり「恐怖」が発生する。
カリスマ的な指導者がいる中で、その指導者がクズと呼ぶことに恐怖を感じた場合、クズになるのが恐怖だからその指導者に味方するようになり、恐怖を理由にその繋がりを選ぶようになる。
これは「愛」によって繋がるとかではなく、「恐怖」によって繋がる構造である。

そんなやり方を使ってる指導者や教育者は、果たして信用できるのだろうか?

このように、自身は「法の奴隷ではない」ように立ち回ってるようでも、「言葉の自動機械」によって危うい方向に行っているのかもしれない。

 
察するに、宮台真司は若い人とのコミュニケーションがどんどん失敗している方向に行っている。
東日本大震災の後ぐらい(2011年~)から性愛について考える「性愛ワークショップ」を2年半ほどやっていたらしいが、あまり上手くいかなかったらしい。
そのワークの中で「若い奴が自身の問題を俺の責任にした」ということがあったらしく、これを「外部への責任転嫁」としてを問題視したりしている。
しかしながら、宮台真司がそもそも、自身の問題を若者の責任へと転嫁していることも起きているのでは?
そうした判断は非常に難しいが、教育者としての内省はしっかりして欲しいと思う。

なんにせよ、「自分の生き方が優れていて、そうでない生き方は劣っている」というエゴに加えて、「劣っている人」を「クズ」呼ばわりする言い方のせいで、より酷い方向に行っているのだと思う。

とにかく、現代人を「劣化してる」とみなすバイアスが酷い。酷過ぎると言っても良いレベルだと思う。
逆に「俺たちが生きてきた昔の時代」は絶賛する傾向がある。

昔の時代で良かった復興するべき所は復興し、今の時代で批判するべきものを批判するのは良いと思う。
しかし、「昔の時代で優れていた点」「昔の時代で劣っていた点」「今の時代で優れている点」「今の時代で劣っている点」の4ケースは想定するべきである。
「自分の思想が善、自分が嫌いな他者の思想は悪」の二元論でとどまるのは危険である。

こうしたことについて「そもそも自身がクズとも言えるかもしれない」と認知しているなら救いはある。

理想が高い人ほど葛藤が必要なので、葛藤があれば良い。

しかし、そうでなければそうでないほど、救いはなくなると思う。
 

ヌーソロジー的な問題点について

さて、やっとヌーソロジーの話に入っていこう。
そもそも、今回の記事の目的は「宮台真司のヌーソロジー的考察」だった。

ヌーソロジー的には善悪の二元論は基本的に危険である。
あるいは、それは意識進化することができない人間の在り方である。
『負荷・反映・等化・中和』などの概念がある中で、
対立する二つの概念や、自己と他者を等化していく場合、善と悪として捉えていると失敗する。

宮台真司の言動は、他者を「クズ」と呼んで見下したいという要求が強すぎるかのようである。
「クズ」は人が使う蔑称の中で最低レベルのもので、良い価値が全くない者みたいな意味すらあるわけだが、そんな言葉を使っていては善悪の二元論にハマってしまうに決まっている。
多用するのはどうかしてるんじゃないだろうか?

また、「昔の時代で優れていた点」「昔の時代で劣っていた点」「今の時代で優れている点」「今の時代で劣っている点」の4ケースは想定するべきと書いた。
このような「2×2」の構造は、ヌーソロジーで『キアスム』と呼ばれる構造に通じているため、ヌーソロジー的な等化を見そえた視点だと、それぐらいのことを考慮するべきである。

それから、「言葉の自動機械をクズと批判して脱却しようとする言葉の自動機械的なやり方」はヌーソロジーでは通用しない。

ヌーソロジーの主な目的は等化だが、先のやり方は中和の方向性だし、これではヌーソロジー的には人間型ゲシュタルトの閉塞感を抜け出すことができない。

ヌーソロジー的な考察は今後も続けていくが、
とりあえず、注意するべき点を挙げるとしたら以上である。
 

「法外のシンクロ」について

さて、宮台真司についてさらに続けていこう。
宮台真司は「法外のシンクロ」という概念を提唱していた。
これに関してはヌーソロジー界隈だと春井星乃さんが取り上げたことがあるので、ヌーソロジーでちょっと出てきている。

「法外のシンクロ」の話は「法の奴隷」の話にも繋がっている。
要するに「法の奴隷」の「外」のつながりでシンクロが起きて、強い繋がりや絆のようなものができるのが「法外のシンクロ」である。

宮台真司の書籍『どうすれば愛しあえるのか』では「本質的な性愛を支えるのが法外である」といった趣旨の内容が書かれているぐらい、「法外」が「愛」においても重要な概念として位置づけられている。

さらに法外においては「損得勘定のない繋がり」が発生するようになり、それこそが確かな「絆」であり確かな「愛」であるため、人類はそういうものを持つべきだし、それが社会学においても大事だという理屈になる。

しかし、ここでも「法とは何か?」という難しい問題が絡んでくる。

宮台真司の言う「法」は、多用されてる割には定義づけが曖昧で分かりにくいものにもなっている。
もし単に「国家が決めた法」「破ると犯罪になる法」を指しているのだとしたら、破っちゃいけないに決まってるのではないか?
いじめや性犯罪だってそこに含まれてしまう。
そういうのを防いでいかなければいけない社会において、そういう意味での「法外」の思想が通用するわけがない。

そういうことをやるならやるで、そもそも破って良い法と破っちゃいけない法があるのでは?という話が絶対に必要になるし、そうしないといじめや性犯罪にまで繋がってしまう。
しかし、宮台真司の「法外のシンクロ」においてはそれについてがあまり言及されない。

宮台真司の社会学では「法は破るためにある」とか「法の外に出ろ」みたいなメッセージはよく聞くが、具体的な「法」とは何なのか?
そもそも破って良い法は具体的に何があるのか?
ということについてはほとんど言及されていない。
だから具体的には何をやれば良いのかはサッパリなので、そこで止まってる人が多いと思う。

この問題は「法の中にいる=悪い」「法の外にいく=良い」と認識させれば解決するほど簡単なものではない。

あと、「法外のシンクロ」については昔の時代だから通用したのだろう。
つまり、一言でいうと「やり方が古い」印象がある。
宮台真司が若かった1970年代・1980年代あたりの時代は、不良カルチャーの全盛期みたいな所があったらしい。
1971年に学園紛争で荒廃していた麻布学園に入学して過ごしていたらしいが、今の時代にこうした成長にちょうど良い荒廃がなかったりするのは仕方がないことである。

「法の外へ出ろ」とか「法の外の絆」とか言われても、そもそも「破った方が良さそうな法律」や「破るのにちょうど良い法律」がないと、「これを破ろう」っていう風にはならないのでは?
「破った方が良さそうな法律」が目の前にある社会というのは・・・それはそれで面倒そうな気もする・・・

1990年代、2000年代へと移行するにつれて、大きく社会は変わっていて(変わっていること自体は宮台真司も言及しているが)、「破るのにちょうど良い法律がある社会」というより、「保守性がそれなりにないと生きづらい社会」のようになっていったと思う。

それなりに守っていかなければならない「保守性」がある中で、生きていくために決まりを守った方が良いこともあれば、ワンパターンな自我を壊すような冒険が必要なこともあるかもしれない。
そうしてやんわりと浸透する「保守性」に対してどうするべきか?が重要なのだと思う。

「法外のシンクロ」と聞いて具体的にどうすれば良いかピンと来る人は少ないし、そもそも宮台真司の言いたい「法」がそもそも曖昧なこともある。
これに関しては、各々が「破るべき保守性」と判断したものに対して、冒険を試みていくしかないと思う。
 

言いたいことは分かる(法外のシンクロ)

個人的に「法外のシンクロ」で言いたいことは分かる。

自分(Raimu)はヤンキーや不良と渡り合えるような強い肉体は無く、それどころか一般人にもついていけるかどうか怪しいぐらい、運動能力のない肉体を持って生まれた男なので(不良文化というものは暴力が支配するのがルールなので本当に大変だと思う)、
暴力沙汰だけは避けるべく、進学校で大人しく過ごしていたが・・・

大学時代は、実は社会問題を研究する系のサークルに入っていて、とても優秀な友人達に恵まれることができた。
そうした時に、二回生への切り替わり時に、自分達が入っていたサークルが実は政治団体と繋がりを持っていることが発覚して、団結して離反するように全員で抜けることになった。そして離反した後もずっと繋がりを持っていた。
そうした友人達との繋がりは確かな絆みたいな手ごたえを感じていたし、とても良いものだと思った。大学に入って何が良かったかと言ったら、そうした友人に出会えたのが一番だったと言えるぐらいである。

そもそも、自分がずっと取り組んでいるヌーソロジーも、「唯物論」を「法」とみなした場合は非常に法外的なものと言えるものである。
オカルトや魔術やスピリチュアルの類も、同様に法外的なものである。
そこでの繋がりは確かに強いものだという実感があり、そうした繋がり不足で悩むことはない。

その他にも、「これはまさしく法外と言える」ような人やコミュニティと関わることがある。

以上のように真面目に過ごしながらも、法内と法外の境のようなものについて色々と考えていく人生だった。

それらを踏まえて思うのは・・・「別に実際に法律を破ることにこだわらなくて良いのでは?」である。

現代の「保守性」は昔ほど分かりやすいものではなくなったが、「守った方が良いもの/破った方が良いもの」は各々の認知の中にあると思う。
そうした中で、各自が必要だと思った選択をしていくしかないし、そこで「これまでの行動パターンを破るもの」があれば、それがその人にとっての「法外」になると思う。
それは昔の価値観のような「法外」ではないかもしれない。だから昔みたいに「実際に法律を破る」みたいなことにこだわらなくても、各々の価値観でそれらしい選択を判断していけば良いと思う。
 

言いたいことは分かる(損得勘定のない繋がり)

あと、「損得勘定のない繋がり」も言いたいことは分かる。

自分は生まれ持った肉体からして既にオタクとしてしか生きれないぐらい、オタクに向いてる男なので、ずっとオタクをアイデンティとして生きてきた。

今の時代にオタクとしてアイデンティを持って生きることは、とても重要な意味があることなのだろうと思ってずっと生きてきた。
10代のほとんどを2000年代で過ごしてきて、オタクカルチャーの持つすばらしさを存分に吸収して生きてきたようなものだった。

そうして今の時代を生きていて思ったのは、オタクの持つ「損得勘定なしで繋がる精神」は本当に素晴らしいものだということだった。

オタクの持つ「贈与の精神」や「友愛で繋がる精神」を舐めてはいけない。

オタクは「情報共有に長けた人達」であるので、テキスト・イラスト・音楽・プログラム・漫画・映像・・・といった分野で情報を残し、それによって皆で発展しようとする意識にはすさまじいものがある。

なぜコンピューターの世界がここまで発展するのか?
それは情報共有が得意なオタク達が「贈与の精神」を以て各々のスキルで文化を発展させるための情報をアウトプットしているからである。

アウトプット側は「テキスト・イラスト・音楽・プログラム・漫画・映像・・・」などの多方面でコンピューター上のコンテンツを盛り上げたり、有益な情報を残したりする。
受け取り側はその盛り上がりを楽しんだり、有益な情報を活かしたりする。
そこからさらにアウトプットの資質がある人は、自身もアウトプット側にまわってまた盛り上げるようになる。

また、それらから起きる「友愛」のような繋がりは、損得勘定といったものがない繋がりにもなる。

自分はとくにプログラマーとして仕事をしているからよく分かる。
フリーソフトの公開による利便性の向上や、オープンソースの思想、情報共有の意識といったものがなければ、コンピュータープログラミングの仕事は成立しない。

そもそも、ITやWebが生まれた思想の元には、情報の共有による人類の発展という大義があるため、そうした思想が本格的に浸透するようになったのが2000年代だという見方もあるのである。

 
しかしながら、宮台真司はそうしたカルチャーについてまったく評価しないどころか、劣化しているかのように評価する。

オタクは性愛に向かわないから劣化してるって?
そりゃ苦手分野が運動と女性とのコミュニケーションなんだから仕方ない。
それに関しては欠点を克服する意識でちゃんとやり込まないといけないから、そもそもの解決が大変なのは当然である。恋愛相談するなら真剣にやらないといけない。
宮台真司も苦手分野を克服して欲しい。

宮台真司は、自身の社会学において「贈与の精神」が大事だと説いている。

しかし、現代人はそういうのがなくて「劣化している」と見なす一方であり、若者に対してもそういう態度を取る。

本当は、オタクのような人が「贈与の精神」に関してものすごいものを持っているのだが、「俺の生き方が優れていて、そうでない奴はクズ」という思考のせいで全く注目しないどころか、クズ扱いまでしてるわけである。

そうした点も、こっちからすると反発して当然な所だと思っている。
 

ヌーソロジーと宮台真司は相性が良い?

さて、ヌーソロジーの話に移っていこう。

そもそもヌーソロジーと宮台真司は「相性が良い」みたいな視点もある。
なんでそう捉えることができるんだろうか?

それについては何となく分かる。
「法の奴隷」「損得マシン」「言葉の自動機械」「法外のシンクロ」、そして「性愛」。
これらの概念はヌーソロジー的にも考察に値するからである。

まず、「法の奴隷」や「損得マシン」はヌーソロジーでは『幅』と呼ばれる世界の中にある。
もうちょっと専門用語を使うと『人間の内面』『偶数系の元止揚』における話である。

ヌーソロジー的な「幅の世界」は「唯物論が支配する世界」のようなものなので、その中にある「法の奴隷」や「損得マシン」もまた、どちらも「物質先手」や「お金先手」なものである。
それらは強固な常識のような人間型ゲシュタルトを作り出すため、ヌーソロジー的にも注意しないといけない。

あと、「法の奴隷」や「損得マシン」を体現したような者は、大体は「権威者」として君臨するため、それに対する「反権威」の姿勢は大事である。
そうした漠然とした「反権威」の方向性はヌーソロジーとも一致するように思える。

また、「法の奴隷」はヌーソロジーで言われている言葉だと「他者化」に近い。
「奴隷のようになること」と「他者化」はほぼ同様の意味と言って良いだろう。
ヌーソロジーでは基本的に自己を先手にして能動的に生きることを目指すため、そうした「脱・他者化」の方向性と「脱・法の奴隷」の方向性は一致してくる。
だだ、宮台真司自身は言葉の自動機械によって他者化してるようなので、「脱・他者化」を主張するにおいては説得力に乏しいのだが・・・

そして、「法外のシンクロ」は「法の奴隷」から脱却するために必要なものということになる。
とくにヌーソロジー的に目指すべき「法外のシンクロ」は、「幅の世界からの脱却」「脱却した者同志での繋がり」である。その先には『変換人型ゲシュタルト』があり、新しいゲシュタルトによってできた繋がりが大事になってくる。
ただ、宮台真司自身は善悪二元論のゲシュタルトに留まっている以上、それには当てはまらないのだが・・・

それから、「言葉の自動機械」は、ヌーソロジーだとそのまま『思形』が作り出す人間型ゲシュタルトの話になるため、そこからの脱却はヌーソロジーの道へと一致する。
ただ、宮台真司自身もそれに囚われてるので、説得力がぜんぜん無いのだが・・・

そんなこんなで、ヌーソロジー的に脱却するべき概念と、宮台真司が脱却したい概念が被っているわけだが、
宮台真司の場合はそこから抜ける手段が「性愛」だった。
それで掴んだものはあったんだろうと思う。

色々と書いたが、宮台真司の社会学は「プレアデス的には正解」と思える所もあるのかもしれない。
「社会学」は社会に対して大きなインパクトを与えることを目的としている特徴が強い。その場合「敵・味方」の関係が色濃く出ても結束するような力が必要なこともあるのかもしれない。
また、「高い知能と身体能力を活かし、その欠点は性愛の力でなんとかする」という発想自体はプレアデス的には良いのかもしれない。
あと、家族は大事にする人だろうと思うから、そういうのは普通に良いと思う。

ヌーソロジーにおいて、プレアデスシリウスの関係に優劣の概念はなく、もしも社会を大きく変えることを目的とするならばプレアデス先手の方が良いという思想もアリである。

とはいったものの、シリウス視点においては結局、「ヌーソロジー的には人間型ゲシュタルト的だ」という話であれば、「ヌーソロジー的にはそれまでの人だ」ということになってしまう・・・

言ってることがどれほど正しくても、やってることで判断するとそうなってしまうし、言ってることよりやってることで判断するべきだと思う。
 

ヌーソロジーの思形と感性について

さらに当初の問題について考えていこう。
宮台真司は「思形と感性の等化に失敗している」ことについてである。
ヌーソロジー界隈にいる者として、一番重要なのはそこである。

色々書いたけど、世の中に宮台真司みたいな大人がいるのは別に良いと思う。

どうせ世の中は正しいこと言ってるばかりの大人じゃないし、言ってることが正しくはなさそうにせよ、好きにすれば良いと思う。
まわりが各自で判断することで得られる学びもある。

ただ、重要なのはヌーソロジーの枠内での話である。

宮台真司をヌーソロジーで扱った場合、本当に正しい理解ができているか?に関しては「正しい/正しくない」を決めないといけない問題である。
とくに宮台真司の話は「思形と感性」を理解するにおいてとても重要な話が多い。
だからそれによって「思形と感性」についての理解を深めるのはアリだとは思うが・・・
そこで甘い理解で終わらすようでは、ヌーソロジーの理解度まで甘いままになってしまうし、冥王星のオコツトの言う意識進化にだって失敗してしまう。

とりあえず、宮台真司は「思形と感性の等化に失敗している」と断言することができる。

理由は、「言葉の自動機械をクズと批判して脱却しようとする言葉の自動機械的なやり方」が哲学的に上手くいかないやり方であるから。
そもそも「言葉の自動機械」を批判しているようで、自身も「言葉の自動機械」に陥っているから。
「言葉の自動機械」的に「クズ」と言い続けることで、「敵・味方」に分かれるような自己主張をし、「自分が善・他者が悪」という二元論の中で安住しているから。
さらに「俺の生き方が優れていて、そうでない奴はクズ」みたいな自我肥大のせいで、自己を省みる葛藤がないように振る舞っているから。
以上のやり方は明らかに中和側で、他者化しているかのようであり、とても人間型ゲシュタルト的であるからである。

 
このように断言できるものの、この問題はもう少し奥が深いような気がしていて・・・

性愛とか、女性を相手にする中で「なにか掴んでるものはある」のだろうという気もしている。
性愛のやり取りによって得られる「言葉の外の力」というのがあって、それを得るべきという話には一理あるのだろう。
確かに「思形と感性の等化」に通じるナニカがそこにあるんだと思う。

ただ、それはなんというか、「女性にしか通じないナニカ」だったり、「価値観が近い人にしか通じないナニカ」だったりするんだろうと思う。
現代人や若者を相手することに関しては、現状は失敗しているため、それで台無しになってるのは惜しいような気もする。

これは「ヌーソロジー×性愛」みたいな分野の話で、めちゃくちゃ奥が深そうな気がしている。
地上で一番難しいテーマなのではないか?とすら思っているため、自分も安易な決めつけをしないように扱いたいし、有識者の間でそれをつきつめたい人がいるなら討論が続いてほしい。

もしかすると、ヌーソロジーをもっと突き詰めると、実は「プレアデス的にはそれが正解」だったりもするんだろうか?
しかし、シリウス的には失敗しているのは確かなので、それはそう判断するのが正解である。

 
そもそも、宮台真司は元々の頭が良すぎる人で、生まれも結構なエリートなため、普通に生きていれば「思形先手」になりやすい人なのである。

それでいて理想が高く、若い時は荒れ果てた学校を過ごした経験もありルール無用の環境には強く、(失恋の影響も大きいなど)性愛から大切なことを掴んだ実感があり、そこで葛藤もあったからそういう主張をしているのだろうとは理解できる。

そして、「掴んでるものはある」のはそれはそれで良いんだけど、
そこで「俺は分かった」の段階で止まってしまって、そこからの成長が無い人なのだと思う。

要するに・・・・
「若い時にナニカを掴んだ」⇒「それが大事だと思った」
そこまでは良い。しかし・・・
「それが大事だと思った」⇒「それが全てだと思う」⇒「それができている自分が優れていて、できていない人は劣っていると思う」⇒「思考停止」
そこまで行くと駄目である。さらに・・・
「思考停止」⇒「劣っている人をクズとか言い出す」⇒「老化による能力の低下」⇒「社会的な地位や権威は残っている」⇒「偉そうな年寄りになる」
ここまで行くと、一般的には「老害」と呼ばれる。

つまり、ヌーソロジー的な「思形と感性の等化」の問題では
「思形と感性が等化できたかも(ある意味)」⇒「やはりできてない」⇒「できたかも、の驕りで成長が止まっている」
みたいな状態になっているのだと思う。
 

色々と批判はしたけれど・・・

自分が宮台真司に言いたいことを要約すると
「上から目線で言い過ぎなんだよこの老害が。」
の一言になるんだけど・・・

ただ、逆に言うと、過剰なまでの「上から目線」が無ければ、
そう悪くはないんでないの?という想いもある。

「頭が良すぎる人」と評価したように頭は良いと思う。

書籍『14歳からの社会学』がとても良かっただけあって評価が難しくもある。

もし、宮台真司がこの本を出してから、
あまり悪目立ちすることなく活動してる人だったら、
自分がこの本を読んだ時点で評価が高いままの人だったと思う。

あるいは、もし「俺はこう生きた」という自己主張で一貫していて、
他人のことをクズだとかクソだとか劣化だとかまで言わない人だったら、
そこまで悪い評価はしてなかったと思う。

あと、どっかその辺にいるおじさんだったら何も問題なかった。
非常に優秀な人だと思うし、仕事で実績も出すだろうし、結婚して子供もいて、恐らく家族は大事にする性格だろうし、家庭円満が順調であるなら、大人としてそれなりな尊敬には値する。
例え、飲み会の席とかでは思想面でめちゃくちゃなことを言ってたとしても、だいたいよくある話なのでそんなに気にはしない。

しかし、社会学の教授みたいに権威ある立場で影響力があるから話は別である。
矛盾した思想の影響がこっちにも及んできたなら、用心しなければいけないし、
ヌーソロジーの枠内にまで影響が及んできたから、自分も色々と考えねばならなくなった。

なので、こちらは「批判したい」というよりかは「ヌーソロジー的に悪い点を明らかにしたい。」ということに集中していきたい。
 

政治に対する言い分について

宮台真司が世間一般で支持される理由は、
漠然とした「権威へ反抗する精神」の持ち主だということもあるだろうと思う。

たしかに、不祥事を起こした政治家や官僚など、
権威ある人達に厳しく痛快な言葉を投げかける様は、大衆が喜びそうなものである。

ただ、雑にやってるとそれは「パヨク」と変わらないとも思う。
現に政治的な主張に関しては「パヨク」と「宮台真司」の違いが自分にはよく分からないし、
そういう風に見る若者は多いと思う。
「パヨクをクズと呼んで批判してるから俺はパヨクではない」という理屈は通用しない。
その辺も注意しないといけない。

政治への言及に関しては社会学が専門ということで、
豊富な知識を元にやってるからすごいんじゃないだろうか?
詳しいことはよく分からないが・・・・

知識は持っているのでそれなりに正しいのだと思うが、
さすがに一国の首相や大臣に対して「クズ」と見なすのが正解かとまで問われると、それは分からない。
自分はその辺を鵜呑みにはしないようにしている。

こういうのは言ってることよりもやってることのが大事なので、
できれば宮台真司自身の実践や実績で、当人の良し悪しも判断したいものだと思う。

「贈与の精神」や「愛」の大事さを主張したりしているが、色々と書いた通り言ってることとやってることの矛盾が読みとれる人なので・・・
そうなると説得力がなくなってくるし、胡散臭く聞こえてくる。

とはいえ、政治学や社会学に関しては「知識を凄い持っている人」ではあるので、
知識を得ることを目的とする分にはそれなりに聞けるのではないだろうか?
(この人以外から学んだ方が良い可能性もあるけど・・・)

 
しかし、若者の性愛や若者論の話に関しては、若い人とのコミュニケーションができてない時点で理解が浅いのでダメだと思うし、
若者をクズ扱いするような風潮はなんか違うと思う。
 

正誤が混じっている厄介さ

色々と書いていったが、宮台真司は正論を導く能力が高い人でもあるので、言ってることは一概に間違いばかりではないと思う。
間違いばかりではないと思うが・・・
そうなると「正誤混じっている」ような内容になる。

書籍『どうすれば愛しあえるのか』の内容もそうだと思った。

「愛」という崇高なテーマを主題にして、正しいことが書いてあるようで、「現代人は劣化してる」のバイアスがあまりにも酷過ぎるので、自分ぐらいの若者感覚だと気持ち悪くて読めたものじゃない内容だと思った。

頭がすごく良い人だから正しいことを導く能力は高いし、正当化する能力も高い。だから正しいことは書いてある。・・・ように思えるのだが、「自分の生き方が優れていて、そうでない生き方は劣っている」ように仕立てるエゴがあるため、やはり筆者に都合の良いように書かれてる部分に関しては正しくない。誤認を正解のように書いてる所もある。

このように「正誤混じっている」のが分かった上で宮台真司の書籍を読んだ場合、読んでてアタマがおかしくなってくるような気がする。
Youtube等で出演している動画を観た場合でも同様である。

宮台真司を支持する人/しない人、なにかしらの関心を持った人は、以下のパターンになることが多いと思う。

①宮台真司の味方にまわって、他者への「劣化」呼ばわりもその通りだとあまり気にしない人
②宮台真司の敵にまわって、感情的に反発するか、無視する人(頭が良すぎて勝てるわけないのでそうするしかない)
③正誤混じっている気がするけど、頭が良すぎてついていけないから、大人しく離れる人
④適当に知ってる程度しか知らず、好きでも嫌いでもない

自分は③あたりに該当するわけだが、そこそこ賢い人は「好きでも嫌いでもない」感じで③か④になると思う。

そういえば、以前にTwitterでアンケートを取ったことがある。
10代、20代、30代の人限定で、宮台真司という人物について知ってるか?
についてである。

「知らない」が50%でほとんどだったが、知ってる人の中では「好きでも嫌いでもない」が多いのはなんとなく理解できるので、妥当な結果だと思った。

①②③④が多い中で、「⑤正誤混じっている部分を明らかにして、宮台真司に対して間違ってる部分を指摘する人」も本当は必要なんだと思うけど、
当人の頭が良すぎる上に、思想が違うと罵倒するように言ってくる態度をいつもしているので、誰もついていけないんだと思う。

宮台真司は賛否両論あって当然だし、なかなか扱いの難しい人だと思ってるけど、自分的にはようやく整理することができてきた。
 

やっぱりクズとか言っちゃ駄目なのでは?

自分が以前に書いた記事では、
宮台真司に対して割と好意的に書いたけど、
最後に「クソとかクズとかむやみに使ってない話の方が好きかなぁ・・・」と書いた。

宮台真司著「14歳からの社会学」がとても良い本だった

あらためて考えてみても、結局そこが問題ってことになる。

「クズ」「クソ」「劣化」みたいな言葉の使用は絶対に禁止ってのは難しいにせよ、せめて一般人と同程度の使用頻度にして欲しいし、そうするべきだと思う。

スピリチュアル的なことをやっててセンスの良い人は、
以下のような原理に気付いていると思う。

「他者に対してクズみたいな言葉ばっかり言ってると、自分もクズみたいになる」

という原理である。
これは鏡の法則のようだとも言えるし、言霊の力による作用だとも言えるし、自分が他者に対してやってきたことは自分に返ってくるとも言えるし、自己投影からの自我肥大とも言えるし、同化作用とも言える。
俗に言う「馬鹿と言ってる方が馬鹿」みたいな原理である。

つまり、宮台真司もそうなってるよねって話である。
「言葉の自動機械」の問題もそこに絡んでくる。

宮台真司はオウム真理教に対する言及や、オウム批判で有名だったらしい。
(自分は世代的によく知らない時期の話である)

しかしながら、宮台真司の言ってることには以下の要素があって、それを信じている人が味方をしていることに自分は気づいた。

  • 敵を設定して徹底的に批判する
  • 「愛」について説く
  • 言ってることはとにかく正論である

そして、これはオウムのように低俗な宗教団体の特徴なのでは?と言えてしまうものであることにも気づいた。
オウム真理教を批判している一方で、そうした団体の持つ要素と共通点を持ってしまっているのである。

いや、流石にオウム真理教ほどに酷いとまでは言わないけど・・・
あまりにクズだと言い過ぎていたら、自身の意識がそっちに近づくことが起きてしまっているのでは?と思う。

下二つの要素は普通の思想でも該当しそうなので・・・別に構わないと言えば構わないが・・・
一番上の「敵を設定して徹底的に批判する」が過激だと、下二つが胡散臭くなってしまう。
さらに言ってることとやってることに矛盾があった場合はもっと胡散臭くなる。

やはり「言葉の自動機械をクズと批判して脱却しようとする言葉の自動機械的なやり方」は意味がないし、むしろクズとの同化や自我肥大をもたらしてしまうのである。
これは哲学的にとても大事な話だ。

自分が宮台真司を見直す日が来るとしたら、恐らく「クズ」「クソ」「劣化」みたいな言葉をほとんど使わなくなった時だと思う。
そういう日が来るのを自分も願いたいものである。
 

オタクと意識進化について

ちなみに、ヌーソロジーの話をすると、
ヌーソロジーのチャネリング元である冥王星のオコツトは「進化」って言葉はよく使うけど、「退化」って言葉は一切使わないってぐらいに出てこない。もちろん「劣化」も出てこない。

冥王星のオコツトの言ってたことを絡めて少し取り上げたいのは、「オタク」についてである。
(自分の世代的に、とくに1990年代以降のオタクの話である)

オタクは1990年代、2000年代、2010年代において重要な人種のように機能して増えていきながらも、社会の変化によってその立場もだんだんと変わっていった。
そうしたオタクについて考察する「オタク論」も、現代社会を理解するにおいて重要である。

宮台真司のオタク論は「オタクは虚構に向かっている」というように、基本的に否定しかしていない。それだけの理解で思考停止するのは絶対に間違っているので大いに反発したい。

自分が思うに、オタク論に関しては冥王星のオコツトが言ってることが一番正しい。

ほとんどのオタクが虚構に向かう習性があるというのは確かに概ね正しい。ただ「全員がそういうもの」と捉えるのは少し違う。
「虚構」というのは冥王星のオコツトの言葉だと、つまり『スマル』である。
そして、「スマルはオリオンによる創造の反映として生まれたもの」みたいな意味がそこにあり、冥王星のオコツトによると「人間の意識進化の反映として出現してくるもの」「新しい精神を作り出すためには必要な影の部分」といった説明がある。

つまり、オタクはスマル(虚構)に向かうのがほとんどだが、その裏にはオリオンのような創造も背景にあり、「創造の反映として虚構が生まれる」という構造が必ずある。
したがって、オタクは意識進化のための創造を行う役割も持っているのである。

1990年代、2000年代、2010年代において大きく変わったもので、オタクが増えたと同様に普及したものは「コンピューターの文化」である。
ヌーソロジーでは「コンピューターの空間はスマル」と言われているので虚構を生み出すものとしても機能しているが、コンピューターの出現はそれと同時に意識進化のための創造でもあった。

前に「ITやWebが生まれた思想の元には、情報の共有による人類の発展という大義がある」と書いた通り、「意識進化のための創造」はそれに該当するわけである。

そして、コンピューター黎明期と言える1990年代あたりからは、コンピューターの文化を発展させるために、まるで人種のような役割としてオタクは存在していると言えるのである。
また、オタクのような性質を持つ「オタク性」が世の中全体に浸透してきたとも言えるだろう。

そもそもオタクと言っても色々いるので・・・
色々いる中で、ある者は創造を行った。
その一方である者は虚構側のようだった。しかし虚構に向かっていると言えば聞こえは悪いが、ちゃんと仕事をして消費をして、経済的にコンピューター文化を支えていれば、その文化を支える者として機能していることになる。

そうした中で、やはり一般人に良い奴悪い奴がいるように、オタクにも良い奴悪い奴がいて、悪い奴や冴えない奴が悪い方向にハマるのはもちろんよくあることなので・・・
「スマル(虚構)に向かうのをなんとかしていかなければならない」という話には確かになるし、
スマルの影響が全体的に増大していくのもなんとかしないといけない。
しかし、特定の生き方が「劣っている」ことを前提にするのは絶対におかしい。

やはりこれも、嫌いなものに対して「クズ」とか「劣化」とか言ってるようでは本質が見えてこない。
そういう言葉使いには気をつけて、先入観なしに物事を捉えなければならない。
偉い学者のような立場であるほど、そのことに気をつけなければいけないと思う。
 

おわりに

「おわりに」ということでそろそろ締めよう。

書きたいことを全部書いたらこれだけの長さになってしまった。
まさかこんなに長くなるとは・・・
・・・まぁ「宮台真司×ヌーソロジー」は色々書いた通りめちゃくちゃ複雑なので、本気でやろうとするとこれぐらいの量になるのは当然かもしれない。それは仕方がない。

「法の奴隷」や「言葉の自動機械」あたりの理屈の細かい部分についてとか、宮台真司についてまだ調べきれてないこともあった場合はご了承ください。あと、ちゃんとしたご指摘があったら嬉しいです。

それなりに正しいと考えたことをここに書いたけど、
絶対に正しいと思ってるほどの驕りはないので、
宮台真司についてはもっと詳しい有識者の間で大いに討論されて欲しいと思う。

そもそもこれはヌーソロジスト向けの内容であって、
「宮台真司の思想はヌーソロジーと相性が良い」みたいな理解で終わるのだけはおかしいと思ったので書いた。

そこで扱われる概念は、哲学・言語学・宗教・神学にも絡んだ重要なテーマだと思うので、
真実が追求されることによってそれらの発展を願いたい。


-現代社会考察

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サイキックの研究とか、占星術とか、
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2021年頃に書き始めたヌーソロジー学習用テキストの新作。
哲学、シャーマニズム、数学、神学、古代文明、意識進化、オカルト・・・など色んなジャンルが絡んでくる内容のもので、これを読めば『ヌーソロジー』ってどんなものなのかがざっくりと分かるようになるはず。

「陽」や「陰」、「天」や「地」といった概念を基本とする中国の古代思想『陰陽論』や『易経』についてちゃんと説明するテキスト。さらに西洋哲学や精神分析学、ヌーソロジーの概念とも絡めてその哲学を深めていく。

ユング心理学が専門でありながら古今東西の文化や宗教全般にも詳しく、スクールカウンセラーとして数多くの実績を持つ偉人、河合隼雄さんの書籍を読み直してその思想を学ぶシリーズ。

超能力や魔術の研究や、物理学・量子力学を絡めた解明を目的に、少しずつ書いていった連載記事。

正式名称は『はじめての人でもホロスコープを自分で読めるようになるための記事』。西洋占星術で出した結果をある程度の所まで読めるようになることを目的とした記事。

『note』のテキストコンテンツとして執筆。社会不適合者が生き残るための考え方や知恵をテーマにしたテキスト。1~5でとりあえず一区切り。
第1回目はこちら。

半田広宣さん提唱の宇宙論・具体的イデア論と言われている『ヌーソロジー』。その基本から実践的な入門までを、自分なりに一通り説明したページ。

その他に作ったものはこちら。

『Raimuのプログラミングノート』というプログラミング関連のブログを開設しました。
初心者向けの「プログラミング入門」がメインコンテンツになりますので、よろしくお願いします。

noteで西洋占星術による鑑定を有料で受け付けています。生年月日と出生日時から占う命術鑑定です。
通常コースは4000円、簡易コースは2000円にて受け付けています。

Kindle本など。Amazonで買えます。
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「4次元」とは何か?というのが主なテーマ。割と理系的な視点から「異世界」について探求していった本と言っても良いかもしれない。
『ヌーソロジー』の理解に必要な「4次元認識」の実践部分もあり。
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宇宙論『ヌーソロジー』の入門用。半田広宣さん監修の元、ヌーソロジーの主要な知識を押さえれるコンパクトなハンドブック。
「変換人生活のためのヒント」というテーマの書き下ろしテキストもあり。
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「リアルな魔法使い」とは何か?をテーマに、「目に見えないもの」との付き合い方や、その仕組みなどについて幅広く書いていった。オカルト的なことを実践していたり、関心のある人に読んでもらいたい本。
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