不定期連載『陰陽哲学基本概要』シリーズ。 記事一覧はこちら。
前回、易経における「天」と「地」の意味は「剛健」と「柔順」が中心として伝えられていることを説明した。
さらにその意味をおさらいするべく、
『繋辞伝』に書かれている原文を『易経(徳間文庫)』より引用しよう。
天尊地、乾坤定矣。卑高以陳、貴位矣。 動静有 常剛柔断矣。方以類聚、 物以群分、吉凶生。
天は尊く地は卑くして、乾坤定まる。卑高もって陳なりて、貴位す。 動静常あり剛柔断る方は類をもって聚まり、物は群をもって分かれて、吉凶生ず。
万物は、相互に高と低の位置に分かれることによって貴の秩序を形成し、動的なものと静的なものに分かれることによって剛(陽)柔(陰)の関係を結ぶ。 万物はまた、その性質や運動法則によってそれぞれの群に分かれ、相互に作用することによって吉凶を生み出す。
ここで、尊と卑といった言葉や、高や低を意味する言葉が出てきて説明されるようになる。
そこから剛柔の話になり、さらには吉凶の概念も出てくる。
元々は大始を司るものと受容を司るものであった天と地は、以下のような概念が付属し、まとまっていくわけである。
~天・陽~
・能動的
・上にある
・大始を司る
・無限であり変化である
・造化のハタラキを持つ
・剛健
・男性的
・西洋的
・高
・尊
~地・陰~
・受動的
・下にある
・大始からの成物を司る
・有限であり固定である
・造化のハタラキを受け取る
・柔順
・女性的
・東洋的
・低
・卑
しかし、これらを突き詰めるとだんだんと疑問が湧いてくる。
太始を司る能動性と剛健さが「天」とされるが、それらは別物として機能する概念でもあるのでは?
また、始動のものを受け取る受動性と柔順さが「地」とされるが、それらは別物として機能する概念でもあるのでは?
「受動的な剛」や「能動的な柔」といった概念はないのか?
天や陽は、本当に必ず能動的に機能するものなのか?
概念の意味が多くなってくると、その辺りを整理する必要が出てくる。
言語化の法則
実際、「天」と「地」の意味にそれぞれ易経の見解があるわけだが・・・
そもそもの「天」とはなんなのか? 「地」とはなんなのか?といった漠然とした話になると、見ている世界観や生きている文化によっても違いが出てくるし、モノの見方によってどんどん色んな意味へと派生していく。
「天」は本来は宇宙や自然の法則そのものを表す概念だが、実際にその概念は言語によって大きく歪められるのである。
自然の法則を言語化すると特定の正しさを示したものになり、正しさを示したものは正論になり、正論は道徳のようになり、道徳は人を縛る律法のようになり、律法は自由を縛るルールになる。
これの実例は西洋でも東洋でもたくさんあり・・・
例えば、キリスト教では「天」の力は「神」の力のようであり、キリストの力のように捉えられた。
イエス・キリストの教えた「世の中の法則」は「福音」として伝えられ、その教えが書かれているものは「聖書」と呼ばれ、崇拝と信仰の対象になっていた。
それは大衆の心を安定に導くものであった一方で、世界各地を支配しようとする横暴さや凶悪さを含み持っていたことは、キリスト教の歴史に表われている。
また、日本においては「天皇」に「天」という言葉が使われている。
本来、日本の神道における「神」は自然に潜む八百万の神様のようなものだが・・・
時に天皇のような一神的な存在が神のように崇められることもある。
日本で天皇崇拝が盛んだった時期は、その道徳は偏ったものに歪んでいて、自由とは程遠い国家主義や軍国主義のようになっていた。
こうした法則は「真理」が「神」になり、「神の教え」が「律法」になり、そうした律法によるルールによって人間が不自由になってしまうことにも通じている。
「天」は必ずそうしたものになる概念であり、その本質である「真理」への到達が難しくなる。
「真理」は哲学者プラトンが「イデア」と呼んだ領域のものにあり、
人間はその本質を理解することができないと、西洋の哲学者たちがいつも頭を悩ませていたテーマとなる。
天の擬人化
こうした「言語化の法則」は安岡正篤氏も気付いていたらしく、書籍『易経講座』では以下のように書かれている。
この天という言葉は、人間が体験的に感覚的に把握した造化の意味に外ならない。偉大なる創造変化の意味、これを段々進めて次第に人格的に把握いたしまして、やがてこれは宇宙の極限、太極、これを天帝、上帝というようにまた把握する。
本来は天というものは必ずしも西洋の宗教的思想のように擬人的に把握しないで、非常に思索的体験的に造化性というものを把握している。これは西洋文化と東洋文化とを表す一つの特徴を為すものです。そういう点では西洋は天を擬人的に思っておる
要するに、西洋の宗教的思想のような「天の擬人化」による解釈がされると、「天」の本来の意味と異なってくるわけである。
西洋ではとくにそれが行われていたとされているし、中国や日本でも「天帝」「上帝」というようにそれを把握すると、同様のことが起きてしまう。
そして、本来の天の造化や創造の働きについては、日本民族・支那民族・インド民族総じて東洋民族は、非常に早くから体験的に追求する術を持っていて、そうした叡智から認識されるものだった・・・と、安岡正篤氏は書籍で説明している。
しかし、日本は第二次世界大戦後、高度経済成長によって豊かになっていったが、それと共に欧米化し、グローバリゼーションによって多くのものが失われていった流れもあるので・・・
安岡正篤氏の視点は明治の時代に生まれた人間ならではのものだと言えるだろう。
言語の前の世界 / 言語の後の世界
要するにここで重要となってくるのは・・・
言語が生じる前の陰陽と、言語によって捉えられた後の陰陽があるのでは?
ということである。
この問題はかなり奥が深く、西洋哲学でもよく重要になってくる。
「言語の前の世界」と「言語の後の世界」というのは、言い換えると「人間が登場する前の世界」と「人間が登場する後の世界」ということでもある。
人間は言語を習得することによって世界を捉えている存在であるため、その意味が完全に同義であることが分かるだろうか?
とくに「神」や「愛」や「天」といった抽象度の高い言葉を認識しようとするほど、それは「言語に囚われた我々の一般常識から来るイメージ」にその認識が左右されるようになり、その本質を捉えるためには我々の通常の感覚を超えたものが必要になってくる。
そこで、「言語前⇔言語後」で二つの世界に分けて考えることが重要なため、「天・陽」と「地・陰」の意味もそれで分けることにする。
すると、それぞれ以下の概念を割り当てることができる。
従来の「陽と陰」は、言語前/後をひっくるめた概念になっている。
しかし、ここでは以下のように分けて考えることにする。
これを「陰陽哲学の基本」としよう。
※便宜上、言語化の前の陽/陰を「元陽/元陰」、言語後の後の陽/陰を「顕陽/顕陰」と呼ぶことにする。
ちなみに、これは宇宙論ヌーソロジーを踏まえたオリジナルな陰陽の捉え方にもなっているので・・・
ヌーソロジーだと以下の概念に対応する。
こうした「二種の陽と二種の陰」を踏まえつつ、陰陽の哲学を深掘りしていこう。
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