不定期連載『陰陽哲学基本概要』シリーズ。 記事一覧はこちら。
前回と前々回、以下のような二種類の陽と陰の意味について説明した。
易経を踏まえた従来の陰陽論では「元陽・顕陽」と「元陰・顕陰」を「陽」と「陰」としてひっくるめて説明されているわけだが・・・
一般的な「陽」と「陰」といったら、どちらかというとここで言う「顕陽」と「顕陰」に近い意味を指していることが多い。
(「陽キャ」とか「陰キャ」とかもそうか・・・?)
ざっくりした「陽・陰」は、原理的には「剛・柔」に向かうものだが・・・さらにそこから「明・暗」だったり、「強そう・弱そう」みたいな概念に派生し・・・
加えてそれが言語によって強調されることで、また別の概念へと派生していくことになる。
すると、哲学で扱われる概念や心理学で扱われる概念と、陽と陰の概念が繋がってくることが分かってくる。
ひとまず、これから以下の二元的な概念についてそれぞれ説明していきたい。
・パラノ・スキゾ
・外向・内向
・強者・弱者
パラノ・スキゾ
まずは、パラノとスキゾについて。
これの元の意味はパラノイア(Paranoia)とスキゾフレニア(Schizophrenia)であり、偏執病と精神分裂病(統合失調症)と呼ばれる病気の正式名称である。
その名称が「パラノイア的なもの」「スキゾフレニア的なもの」みたいな意味で哲学者のジル=ドゥルーズが使うようになった。精神分析家のフェリックス・ガタリとの共著『アンチ・オイディプス』で使われていることも有名である。
さらに日本でその哲学を浅田彰という人が解説し、1986年に出た『逃走論―スキゾ・キッズの冒険』という書籍で「パラノ」と「スキゾ」という言葉が使われて、その概念が広く伝わるようになった。
書籍『逃走論―スキゾ・キッズの冒険』から引用すると、以下のように書かれている。
男たちが逃げ出した。 家庭から、あるいは女から。どっちにしたってステキじゃないか。
<中略>
この変化を軽く見てはいけない。それは一時的、局所的な現象じゃなく、時代を貫通する大きなトレンドの一つの現われなのだ。そこで、この《大脱走》現象をできるだけ広いパー スペクティヴの中で眺めてみることにしよう。
ここでまず思い起こされるのが、人間にはパラノ型とスキゾ型の二つがある、という最近の説だ。パラノってのは偏執型のことで、過去のすべてを積分=統合化して背負ってるようなのをいう。たとえば、十億円もってる吝嗇家が、あと十万、あと五万、と血眼になってるみたいな、ね。それに対し、スキゾってのは分裂型で、そのつど時点ゼロで微分=差異化してるようなのを言う。つねに《今の状況を鋭敏に探りながら一瞬一瞬にすべてを賭けるギャンブラーなんかが、その典型だ。
わりとざっくりと分かりやすく書かれているが、とりあえずこの二つの概念はそんな意味だということで話を進めていこう。
そこから、パラノ型の典型的な行動パターンは「住むこと」であることを説明したり、ドゥルーズが言っていた「微分」と「積分」の概念の哲学的解釈を絡めたりしてパラノとスキゾについて説明している。
また、書籍の方針として、全体的に「逃げること」と「スキゾ」が今の時代(1986年当時)に必要であることを強調している。
こうしてポピュラーな概念になったパラノとスキゾは、それぞれ以下のような意味を持つ。
~パラノ~
住むヒト、蓄積、メジャー
過去のすべてを積分=統合化する
~スキゾ~
逃げるヒト、ギャンブル、マイナー
そのつど時点ゼロで微分=差異化する
分かりやすい例だと、『アリとキリギリス』の童話で出てくる働きもののアリがパラノで、怠け者のキリギリスがスキゾの意味に近い。
そして、この二つは陰陽哲学だと以下に対応する。
要するに、「言語・法・国家・大衆」と一貫して権威を持つものに従属するのがパラノで、
それと反対の「非言語・自然・自由・異端」を重視するのがスキゾになるわけである。
また、パラノは顕陽側で、スキゾは顕陰側の概念に該当する。
この両者の関係はそうして捉えると直観的に分かりやすいと思う。
パラノとスキゾは現代思想の中でも使いやすい概念なので、
それと絡めることで陽と陰の概念も親しみやすくなる。
反唯物論的方向性としてのスキゾ
スキゾは「怠け者のキリギリス」的な意味でもあるが、これの意味をもっと深めよう。
スキゾの元の意味のスキゾフレニア(Schizophrenia)であり精神分裂病を指しているわけだが、これは反唯物論的な方向性も持っている。
こうした分裂症の専門として有名なのは、心理学者のカール・G・ユングである。
夢分析を行いつつ分裂症を多く扱っていたユングは、無意識や集合無意識に着目し、ほとんどチャネリングに近い域にまで足を踏み入れていたため、オカルティストとしても有名になった。
そもそも「分裂症」とは何なのか?
ざっくり言うと精神が分裂するような症状が分裂症ということになり、それが精神病として確立すると「精神分裂病」のように呼ばれる。これは自身の精神が分裂して別の人格が出てるかのようになる病気である。
自身の中に自分が自分だと思う人格(自我)とは別に違う人格があった場合、それは精神が分裂しているとみなされるので、チャネリングのように別の精神が自身の人格内から出てきたとしても、カテゴリー的には分裂症に該当する。
また、虐待による心障によって精神分裂の症状が出ることもあるし、虐待によって多重人格が生じる例もある。
そんな症状が病気のように判断された場合は精神病と見なされ、医療で扱われるわけである。
こうした分裂症は、唯物論的に説明される物理法則からは逸脱している症状である。
実際に精神分裂病となった場合、幻覚・幻聴・過度な妄想といった症状が主に出てくるようになり・・・加えて、自己と他者の境界が曖昧になったり、ユングの言うような「集合無意識」に辿りついたり、チャネリングをしたり、科学で説明される事象がこの世の全てでないことが分かったり・・・つきつめるとそんなことまで色々と起きる。
そのため、そんな分裂症から派生した概念である「スキゾ」は、つきつめると唯物論に対するアンチテーゼでもあることとも繋がっていく。
それから、日本では「精神分裂病」は2002年に「統合失調症」と改名された。
スキゾフレニアを「精神分裂病」という名前で言い切ると、「精神分裂」というワードから連想される印象によって差別や誤解を生むようになったため、「統合失調症」と改名されるに至ったらしい。
精神分裂病も統合失調症も似たような症状とされているが、名称の意味は異なっている。精神が分裂するのが精神分裂病で、統合に失敗して調子を失うのが統合失調症である。
精神分裂の症状が出た場合、自身が普段もっている「自我」と、発生した「分裂した人格」がぶつかって支離滅裂な思考にならないように、その両者の上手く扱う新たな人格が必要になる。
その両者の人格が争わないような精神を自身の人格に新たに取り入れることを、ユングの言葉だと「統合」と呼ばれる。
実際に「精神分裂病」の状態になった場合、そのまま統合に失敗して自身の考えが上手くまとまらず、支離滅裂な状況になることがあまりにも多過ぎたため、「統合失調症」と呼ばれるに至ったとなると、確かにこれはこれで病名としてしっくりくる。
しかし、もし精神分裂の症状が出ているが、統合に成功した場合はどうなのか?
確かにその場合は病気としては扱われないだろう。
実はその方向性こそが、陰陽哲学における「顕陰」の肝にもなってくる。
社会的成功とオカルト
精神分裂の症状が出ているが統合に成功した場合・・・それは「統合ができている分裂症」みたいなものになり・・・
まるで「魔術」が目指す境地みたいなものになる。
魔術というのは主に西洋生まれの「西洋魔術」のことを指しているが、広義における「魔術のようなもの」は古今東西にたくさん存在する。
ヨーガ、密教、道術、神仙術、陰陽五行思想、錬金術、占星術、魔女術・・・
それらはメジャーな宗教の影に隠れた秘教のような類のもので、自身の意識にとって異物のようなものや、科学で説明できないようなものを扱い、自身の精神と肉体を特殊な方法で強化したり、新たな悟りを得ることで成長したりする。
西洋魔術ではそうしたものが探求されていたし、東洋系でもそうしたものがたくさんある。
西洋魔術のイメージで陰の方向性にあるものだと、まるで闇属性的なイメージとも絡むようだが・・・たしかに魔術のノリと陰のノリは妙に親和性がある。
闇属性的な黒魔術の話になるとまたちょっとそれていくが・・・
陰陽哲学における「顕陰」は「スキゾ」と密接な関係にあり、さらに「分裂しながらも統合していく方向性」みたいなものである。
そもそもの「陰」も、安岡正篤氏が書籍で書いていたように「陰は統一・含蓄を本領とするもの」であるため、分裂からの統合はその方向性でもある。
さらにこれをつきつめると、西洋的な影響を受けた自我とは違った本質的な自己を探っていく方向性にもなっていく。
こうした「顕陰」の方向性はかなり奥が深く、
絡んでくるのは『サイキックの研究と分析』で扱っているようなサイキックの分野である。
「精神世界」や「スピリチュアル」といったワードで集約されるジャンルや、新々宗教ブーム、東洋神秘思想、西洋秘教研究、伝統療法、エコロジスト、異端科学、ポップオカルティズム・・・といった様々なジャンルが日本でも密かに流行していて伝わっている。
もちろん、ヌーソロジーもそうである。
こうしたものは広義において「オカルト(occult)」と呼ばれるものに該当する。
オカルトは本来「隠されたもの」を意味するため、世間から隠れていて秘匿されてるようなジャンル全般が当てはまる。
特に現代では科学や物理法則で説明できる宇宙観が全体に浸透しているため、その枠を外れたものがオカルトに該当する。
オカルトは唯物論においては認識されないジャンルのものであるため、一般的にはどうしても分かりにくい。
さて、こうした「顕陰」にあるものとは逆に、「法→国家→大衆」側の「顕陽」にあるものをつきつめるのは簡単である。いや、簡単というより分かりやすい。
こちらは割とみんながやっているようなことをとにかく努力すれば良い方向性である。
一般的なコミュニケーション・ビジネス思考・社会的成功・金稼ぎ・競争への参加と勝利・学歴などの社会的ステータスの確立・権威的なものとの仲間入りをすること・・・など。そうしたものに専念すれば良い方向性である。
理系だったら科学が大事で、アカデニズムで認められているものや、世間から認められていて便利なものを研究すれば良い。
そこではより激しい競争の世界でひたすら努力しなければいけない大変さや、権威を持って地位が上がるほど多くの人の面倒を見て責任をとらなければならない大変さがあるが、皆からは認められやすい容易さがある。
目指しやすい反面、大変な苦労も背負いやすいため、そこで起きるリスクはパラノイア(Paranoia)のような偏屈症である。だからこの方向性はパラノ的なものが絡んでくるわけである。
以上のことをまとめると・・・
要するに、社会的な成功を追う方向性が顕陽であり、
それに対する顕陰の方向性は、一言でいうとオカルトになるわけである。
このように、分かりやすい成功を目指せば良い顕陽と、オカルトのように分かりにくい顕陰の二つの方向性があり、
これらはそれぞれ「パラノ」と「スキゾ」にも繋がっていることを理解しよう。
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