以前に山田礼司さんの動画について言及したり、
ハイアートについて書いたりした。
その中でBMSという音楽ジャンルについて書いた。
BMSは自分(Raimu)が非常に好きなジャンルということで、
最近、BMS作品紹介用のYoutubeチャンネルを作ったりもした。
今回、このBMSと、そもそも「アート」とは何か?というテーマを絡めて、
なぜ今の時代にBMSなのか? 現代日本の音楽カルチャーの変遷とは?
さらにはヌーソロジーとの関わりで言うとどうなるのか?
そんな壮大なテーマを意識して「BMSとアートとロック時代とコンピューター時代について考える」というタイトルのテキストを書いていこうと思う。
~目次~
・BMSとは?
・アートとは?
・大衆性と真理性の旋回
・ロック時代のアートとコンピューター時代のアート
・BMSでアートを作るとは?
・日本の時代遷移 〜ロックカルチャーからのコンピューター登場〜
・コンピューターカルチャーの革新性
・ポスト・エヴァンゲリオン症候群、セカイ系の流れとか
・つまり・・・BMS作品とは・・・?
・ロックとデジタルとヌーソロジー
BMSとは?
まず、BMSとは何か?について説明しよう。
1998年あたりにKONAMIが出した『beatmania』というアーケードゲームが流行った。
これはいわゆる「音ゲー」の一種であり、音楽に合わせながら画面から降りてくるバーに合わせてボタンを押して楽しむゲームである。
そして、これを模したシミュレーターである『BM98』が有志の者によってWindowsで開発され、フリーソフトとして公開される。
例として、以下の動画を観れば大体どんなものなのか分かると思う。
これはBMSという音と映像を持ったファイルフォーマットを読み込んでいて、それによってbeatmaniaのような音ゲーを楽しむことができる。
1998年にBM98が初めて作られて以降、同様のソフトが新たに開発されるようになって発展していった。
(上記のものは2018年にリリースされた『QMS-player』というソフトである)
BMSは本来、音楽に合わせてボタンを押していくゲームだが、音楽に合わせた映像も作成可能でオートプレイも可能であるため、MV(Music Video)として機能することもできた。
だからネット上にいる多くのクリエイター達がそれを使って作曲しつつ、映像もつけたMV作品としてBMSを作って、それを多くの人が楽しんで盛り上がっていた。
BM98を発端として「BMS」が一つの音楽ジャンルのようになり、2000年代では秘かにそれが流行っていたのである。
自分(Raimu)はこのBMSというジャンルに気付いたのはその全盛期よりちょっと後で、大体ニコニコ動画が流行った2007年以降の話だったが・・・
これはもしかして、化物みたいな天才がいる音楽ジャンルなのでは?
と直観したので秘かに注目していた。
特に、SHIKI氏とsasakure.UK氏の二名は個人的に二神と呼んでいて、
その作品は特に神がかっているし、アートと呼べるものに相応しいと思っているので推していきたい。
SHIKI氏の作品
プレイリスト
sasakure.UK氏の作品
プレイリスト
アートとは?
次に、「アートとは何か?」について書いていくが・・・
哲学のような観点からそれを考えたいと思う。
まず真理みたいなのがある・・・としよう。
この真理というものは、古代ギリシャでソクラテスとかプラトンが探求していたようなものである。
プラトンは真理はイデアにあるとしたが、イデアは人間の言語では到達が難しいため、真理を理解することも難しい。そんな領域にあるものが真理である。
自分(Raimu)はヌーソロジーみたいなことやって真理を認知・理解したいと探求しているが・・・
これはとにかく言葉で表現することは難しい。だから知ることも難しいし到達することも難しい。そんな真理があるわけである。
しかし、芸術(絵画や音楽や祭りや詩)によって真理を表現する術が人間にはある。
だからそれを表現しようとするものがアートであり、それは真理に到達するための手段にもなる。
「アートとは何か?」という問題については、人によって色んな目的があるので色んな説がありそうだが・・・「真理を表現するためのアート」という美学がその一つにある。
もし、この「真理」を「天」と言い換えると・・・
東洋哲学全般に詳しい易学者・哲学者・思想家の安岡正弘さんは、書籍『易経講座』にて「天」について以下のように書いている。
宇宙を営む偉大な力が波動、活動しつつ、相互転換性を表しているのを天という。天というのはその様に、偉大な創造であり、変化である。この宇宙人生が無限の創造であり変化であり造化であるということは日本民族、支那民族、インド民族総じて東洋民族に於て非常に早くから体験的に追求され、非常な叡智をもって認識されつつあった。
つまり、日本民族、支那(中国)民族、インド民族において、「天」のような真理が体験的に追求されるものとして扱われていた・・・とのことである。
ここで言う「真理を体験的に追及できる術」が「アート」ともいえるのではないだろうか?
また、「真理」は「人間の世界の外にあるもの」であり、
「人間の世界の外にあるもの」は「異界」でもある・・・
したがって、アートにおいて起きることは異界へのアクセスでもある。
人間が異界に触れるためのものであり、さらにそこから真理に到達するためのもの・・・
そうした観点から「アート」について考えていこう。
大衆性と真理性の旋回
「真理に到達するためのものがアート」という観点でアート論を進めていくとして・・・
このように「真理を表現している、もとい真理に到達する力を持った性質」のことを「真理性」と呼ぼう。
単純に真理に近いような凄さを持った作品、もとい「真理性」の要素が高い作品は、それだけだと一般人に通じにくいことが多い。
例えば、「西行法師の詩がアートです」とか「葛飾北斎の絵がアートです」とか「般若心経はアートです」とか「真理への到達手段がアートなら仏教もアートなんだ」とか「そもそも日本神話もアートなんだ」とか「ニーチェの著作もアートだぞ」とか「作家の〇〇も・・・」とか・・・
色々と言うことはできそうであり、確かにそれらは一般人にも受け入れられるぐらいの凄さはあるのだが、真理に近いものほど割と地味だったり難解だったりと、単純に大衆受けしないようにできているケースが多い。
実際に存在した画家だとゴッホあたりが有名だろうか?
『夜のカフェテラス』1888年9月
ゴッホは芸術的な価値が高い作品を描いた有名な画家とされているが、その絵の内容は地味すぎだし、色使いや被写体の形が微妙に変だし、パッと見だと上手いとはいえない、なんだかよく分からない雰囲気を放っていた。だから当人が生きている間はあまり評価されておらず、絵がほとんど売れなかったのでその生活が貧乏なまま亡くなってしまった。
それでも死後に評価されたから、不変的な真理に通じた美しさがあってやっぱりすごかったわけである。真理性が強いアートはそんな感じである。
このようにアートは本質的にはあまり一般人にウケない性質を持っていることもあるわけだが、その点も克服する力があるのもアートの可能性で、本当に優れたものは大衆をも巻き込む力を持っていることもある。
大衆にウケることで大衆を巻き込む性質のことを「大衆性」と呼ぼう。
一つ例を挙げるなら、ロックミュージックとかもそうで、あれの起源は1950年代のロックンロールだったりするが、1960年代にビートルズが登場して日本にも来たりした。
日本だと1960年代後半あたりから流行ったアートの象徴的なものとして、それらのロックを挙げても良いだろう。
これは大衆を巻き込んでいく「大衆性」の力が強かったため、世界的にヒットすることになった。
このように、大衆性と真理性を持ち合わせ、その両者を旋回するような力を持っているものがアートだと言っても良いだろう。
大衆性は人間的なものであり、真理性はそこから完全に逸脱したものなため、その旋回を行うことで革新的なものを生み出すことができる。
そうしたアートの性質を「革新性」と呼ぼう。
このように、真理性・大衆性・革新性を持ち合わせることによって、アートは人間と異界、もとい人間と真理の架け橋となる。
それから、大衆性にはそれが出てきた国特有の文化みたいなものがある。
例えば、アメリカだとアメリカらしいアートになったり、フランスだとフランスらしいアートになったり、インドだとインドらしいアートになったりするように・・・大衆にとって身近な文化や、一般的な人間の感覚が好みやすい文化がベースになって、革新的なものとして出てくるのがアートである。
従って、文化によってその在り方や雰囲気が変わるのもアートの特徴だと言える。
ロック時代のアートとコンピューター時代のアート
先ほども書いた通り、ロックミュージックは音楽アートの一種であり、日本だと1960年代後半あたりから流行って当時の人たちに多くの影響を与えた。
現代でもその年代あたりを過ごした世代の人がその価値観で生きていることが多いと思う。
ロックの場合、大衆性として以下のような要素を持ちつつ、革新性もありながら発展していったと言っていいだろう。
しかし、反権威精神を持ちながら団結して盛り上がるロックは、全盛期が過ぎてから衰退するようになった。
特に「反権威」という要素が曲者であり、社会において何が権威で何が反権威になるのかは、その時の国の状況によって違ってくるし、何が正しいのかも時代によって違ってくる。
だからそうした流行音楽の問題は社会学とも直結する問題になる。
例えば、1960年代はベトナム戦争があったからそれに対して平和を歌うロックミュージックが流行った兆候が確かにあった。しかし、 1975年にベトナム戦争が終結してからその必要性が減るようになった。
次いで、音楽界隈ではコンピューターや電気を使ったテクノミュージック、もとい電子音楽が普及する流れが来る。
日本だと1978年に結成されたのYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)が異端のテクノミュージックとして有名だった。
この辺りの時代はコンピューターの発展も顕著であり、1985年にMicrosoftがWindowsの初版をリリースした。
コンピューターはそこからずっと進化していき、世の中の流れはコンピューターが普及していくコンピューター時代になっていく・・・
コンピューターを使った電子音楽の場合、大衆性として以下の要素が挙げられる。
コンピューターで作ったものの場合、まずコンピューターによって音楽が合理的に作れるということで合理性が重要になる。
合理性によって音楽が効率よく保存されるし、伝達も容易になって大衆に広まるようになる。
それから、電子音やコンピューターによって楽しく作られたもので盛り上がることができる。電子のピコピコ音は人を魅了するし、アップテンポなテクノ音は人をハイにさせるし、コンピューターゲームのような斬新さも人を魅了した。
さらにはインターネットも後々に出てくるようになり、コンピューターを使って人と繋がることも重要になってくる。
2000年代に出てきた音楽ジャンルとしてのBMSもまさしくそんな感じだった。
また、BMSはジャンル的にはゲーム音楽にも近く、その革新性を合わせ持っている。
そもそもBMSは「音ゲーの音楽」であったものなため、ほとんど「ゲーム音楽」のジャンルにあるものと言って良い。
BMSでアートを作るとは?
BMSは先ほど述べたような電子音楽の特徴を持っているわけだが・・・
特にBMSの場合は何が大事になってくるのか?
キーワードはパッケージ化である。
BMSの音楽はおよそ2分~3分ほどである。
一般的な音楽である3分~4分よりはちょっと短いが、アニメのOPぐらいの1分~2分よりはちょっと長い。
短すぎず長すぎずという感じだが、ちょっとだけ短い気がするので気軽に聞きやすい長さである。
BMS作品の場合は「映像と音楽が一体となったMV(Music Video)をBMSとして作られる」わけだが、それはBMSという独特なフレーム(枠組み)と、ゲーム音楽のような独特な文化の中で作られる。
それは複数の要素をひとまとまりにまとめてコンパクトにするパッケージ化のようなものである。
そうしたものがネットにアップロードされて、主にBMS好きの人達の間で聴かれるようになる。
さらに、録画によって動画媒体としてYoutubeなどでアップされて広がることもできる。
つまり、「BMS作品でアートを作る」とは・・・
「BMSというフレームでパッケージ化が行われる中で、電子音楽のアートを作る」ことになるわけである。
その特徴として一つ言えるのは、物語性の少なさである。
BMSの音楽は歌詞がないので文章によるストーリーがない。
また、背景として物語を作っておく必要はなく、それ単体の作品として出すことができる。
だからスキゾ的なアートとしてそこがやりやすいジャンルになっている。
また、技術的に制限があったことである。
日本でBMSが流行った2000年~2006年あたりの時代はデジタルコンテンツ制作環境が発展する真っ最中であり、高度なCGが作れるようになった時代だが、CGのクオリティは進化中であるし、100MBや500MBの動画を簡単にアップロードできる時代でもない。
高画質な映像作品をネットで公開するためには、まだまだ創意工夫が必要な時代であった。
そうした創意工夫が必要な状況だったからこそ、逆にそれが理由で作品の内容が良かったりもする。
だから、BMSは微妙にレトロゲームみたいな、古典作品の位置づけにもなるだろう。
実際、レトロゲームとBMSの親和性は高く、1980年代にファミコンを好んだ世代がそのままBMS制作へ行ってたケースもよく見られる。
さらに時代が進んで2007年・・・
BMSの後から登場する初音ミクを代表とするボーカロイド音楽も新種の電子音楽となった。
そこでは歌詞がついて物語性を持つようになったり、動画制作環境が進化したり、どんどん制限なく高度なことがやれるようになった。
さらにそれ以降、ネットに公開されたものがどんどん残ってどんどん広がっていく情報過多時代にもなっていき、古いものがアーカイブされることに加えて、新規のクリエイター達が作った作品がどんどんアップされていくようになっていき、何を聴けば良いか分からないぐらいに膨大な数の情報がどんどん出回るような時代になっていったが・・・
そんな時代にはない魅力があるのがBMSのような古典的作品の良さだろうと思う。
日本の時代遷移 〜ロックカルチャーからのコンピューター登場〜
これまで、ロック時代のアートとコンピューター時代のアートについて書いていった。
戦後の現代日本ではそんな感じで「ロックが流行るロックカルチャーの時代⇒電子音楽が流行るコンピューターカルチャーの時代」の変遷が顕著だった。
ロックカルチャーにおける大衆性は「性愛」「ギターなどの楽器で盛り上がる」「仲間と共に団結する」などであり、それに加えて、ロックカルチャーにおける革新性は以下が挙げられる。
- 身体を張って戦う
- 身体を張って仲間を集める
- 社会において権威的なものと戦う
この三つのうち「社会において権威的なものと戦う」の部分は「当時の社会の感覚で悪いものとされる権威的なものと戦う」という意味であり、それをつきつめると社会学の話になるので、この部分は難しい。だからこれは一旦置いておいて・・・
ロックカルチャーは権威に対して戦おうとする文化であり、全体で結束していく文化でもあるので、そこには必ず「身体」が伴う。
したがって、「身体」がキーワードであり、身体性が重要となる。
しかし、コンピューターには「身体」がないため、身体性はそこまで重要視されない。
それでいて、コンピューターの世界は「虚構」であるため、虚構が重要視される。
時代はロックカルチャーからコンピューターカルチャーへ変遷したが、
コンピューターカルチャーは「虚構」の文化だから革新性が無くつまらないものになったのだろうか?
それはそんなことはない。
コンピューターカルチャーの革新性
現代はコンピューターやインターネットが普及する世の中になったが、
そのカルチャーの長所はとにかく「情報伝達能力の高さ」にある。
そもそもこれは、人間(ホモ・サピエンス)が「言語」を発明した時のことにまで遡る。
動物と人間の一番の違いは「言語」を扱えるか否かにあり、
とくに人間は「物語」を作って没頭できるレベルで言語が発達しているし、
高度な技術を言語に残して伝えることまで可能であった。
インターネットで行われているような情報の伝達・保存については、そもそも言語を発明した時点で可能なことでもあった。
それを電子媒体で一瞬で行ったり、大量に行うことができるようになったのがコンピューターの力である。
そして、そうした言語は「虚構」を作るものでもあった。
これはユヴァル・ノア・ハラリによる書籍『サピエンス全史』でも説明されている。
人間は言語によって虚構を作り、その虚構によって宗教のようなものできて、それによって大きな団結力を持つことができる。
例えばそれはキリスト教のような宗教であったりするし、人を惹きつける神話のようなものであったりもする。
こうした言語による虚構の力によって人々は協力し合い、生きるためのモチベーションを上げることができて、農耕社会を発展させたり、強力な国家を作り上げたりすることができた。
人間は虚構という概念を持っていることによって抽象的な思考をし、それによって新たな進化ができるようにもなったが・・・
しかしながら、虚構は実と異なるものでもあるので、ズレた方向に行く危険性もある。
古代ギリシャの哲学者のプラトンはこうした言語の危険性にいち早く気づいて、哲学者として警戒していたし、プラトンから引き続き、哲学は言語の危険性に気づく役割を持っている。
このように、コンピューターによる情報の伝達能力は、言語による情報の伝達能力と近いわけである。
それを踏まえて、コンピューターカルチャーにおける革新性は以下が挙げられる。
- コンピューターで新しいものを作る
- 情報の伝達と保存が有利なことを活かして全体に伝える
- それを使ってより良い社会になることを目指す
主にコンピューターの持つ「情報伝達能力」もとい「情報共有能力」を活かすことや、合理性によって上手く問題を解決することが重要になる。
それから、ロックの場合は「権威的なものとの戦い」が目的になりがちだが、コンピューターの場合はそれよりも「より良い社会になること」を目的とするだろう。
ロックの思考だと政府とか力を持った大人や資本主義が悪者扱いされることがよくあるが、仮にそれらがそこまで悪いものではなくて、倒さなくても問題が解決できて良い社会になってくれるなら、それはそれで良い。
確かにコンピューターの世界は「虚構」であるため、ロックカルチャーからコンピューターカルチャーへの移行は「虚構」への移行でもあるが、「虚構」は「情報」でもあり、それは電子空間上に残して伝達することにも優れている。
コンピューターカルチャーはそこに革新性を見出すものである。
また、ロックカルチャーからコンピューターカルチャーへの変遷の背景には、ロックカルチャーの欠点による理由もあったはずである。
それは身体を張って戦うことへの限界であったり、実際は辛いみたいな本音の感情だったり、アツい感情によるやり方には間違いもあったり、健康被害だったりもするのだろうか?
コンピューターカルチャーへの批判をする前に、旧来のやり方のどこに問題があったのかも突き詰めていかないといけない。
たしかに、ロックカルチャーからコンピューターカルチャーへ移行する時代になることで、身体性を活かすことの優先度が減ってしまった。
しかしながら、それでもコンピューターカルチャーの「虚構」の限界からまた身体性の重要さを認知する人もいるし、逆に「虚構」を扱うコンピューターでしかできない道の切り開き方を探る人もいるだろう。
コンピューターやインターネットの普及は日本だけでなく世界中で起きていることなため、コンピューターカルチャーにおける革新性を見出して活かさなければいけない状況も世界中で起きている。
それはそういう時代になったということなのではないだろうか?
ポスト・エヴァンゲリオン症候群、セカイ系の流れとか
さらに日本においてコンピューターカルチャーへと移行していった1980年代~1990年代と、それから2000年代には何があったのか?
これについては『オタクとは何か?』のシリーズでも説明した。
また、書籍『ゼロ年代の想像力』の内容から2000年代についても書いた。
テクノロジーの発展方面では、まず1983年にファミコンが登場したことが重要である。
いわずと知られた任天堂初のゲーム機であり、そこからコンピューターとゲーム機は発展の一途を辿り、それが音楽・文化共に多大な影響を及ぼすようになる。
それから、テクノロジーの発展方面とは別に、1995年のテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』が登場する。
1990年代はノストラダムスの大予言もあって世紀末的な雰囲気のものが好まれて、どこか退廃的なサブカルチャーの雰囲気を持つ作品がアートのように斬新なものとして好まれていた。
そんな中、『新世紀エヴァンゲリオン』はアニメ史に残るほどの重要作品として語り継がれるぐらい有名になった。
そして、そのままその雰囲気をいくらか引き継ぐように「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」と呼ばれるような作品が出てきて、それが「セカイ系」と呼ばれるジャンルになった。
だから2000年代初期はセカイ系の作品が微妙に流行っていた時代だとも分析されている。
それらが2000年代初期の状況として重要であり、BMSが流行った時期やSHIKI氏やsasakure.UK氏がBMSで作品を作っていた時期もその辺りである。
そうした時代背景を踏まえると、そこにある「大衆性」や「革新性」が何なのかも掴めてくるようになるし、それらの作品をアートとして分析できるようにもなる。
つまり・・・BMS作品とは・・・?
つまり、これらを踏まえるとBMSにおけるアート作品は・・・
2000年代初期に出てきたゲーム音楽風のデジタルアート
だと言えるだろうと思う。
そこには現代日本の2000年代特有の背景があったし、コンピューターが発展途上だったが故の特徴もあった。
アート作品としてはセカイ系的な風潮のある時期だったし、電子音楽としての革新性を持った特徴もあったため、唯一無二な面白さがあったジャンルなのではないだろうか?
しかしながら、もちろん「身体性の欠如」といった電子音楽特有の欠点もある。
身体性とは、自身も実際に身体を動かしたくなる感覚というか、身体が大事になってくる感覚のようなものだが、そういったものはあまり無い感じだろう。
電子音楽で重要なのは身体性より合理性であり、情報として残り続ける力である。
特にSHIKI氏やsasakure.UK氏の作品には、何か「人間でないもの」の意志を感じるような・・・特別すごいものを感じないだろうか?
SHIKI氏は何か幾何学みたいなものを表現することに長けており、その内容は格好良いことに加えて、どこか特有の美しさがある。
それから、sasakure.UK氏は自然を表現することに長けている。自然の神様めいたものをデジタル媒体でここまで表現できるとは、天才的な感性の持ち主だと思う。
「電子音楽における革新性」を後世に伝えていくために、
今の時代だからこそこうしたデジタルアートが今後も残っていって欲しい。
ロックとデジタルとヌーソロジー
ここで、現代日本と資本主義の変遷について振り返っていこう。
日本の近代化や資本主義の発展は、江戸時代だった1853年に黒船がやってきた時にそのきっかけが開かれていったが・・・
第二次世界大戦が終わった1945年から日本の欧米化が本格化していった。
日本はそこから高度経済成長期になったため、資本主義発展の方向にどんどん向かっていった。
しかし、1960年代に入って資本主義発展の反動が出てくるようになった。
1968年に日本で一番有名な左翼的運動である全共闘運動が起きた。これによって資本主義否定をする革マル派が一種の極左思想として定着した。
それから、1960年代はアメリカでヒッピー・ムーブメントとして伝えられる有名なカウンターカルチャーが起きていた。
その影響が日本にも来てスピリチュアルが秘かに流行りながらも、1966年にビートルズが来日したのもあり、それから1970年代はロックの黄金時代となった。
1980年代はそれに引き続き、不良文化のようなものが流行っていた。
経済面では1986年~1991年はバブル景気が起きて、これによって資本主義に浮かれていく人がいる一方で、金儲け至上主義をダサいとするような人もいただろう。
一種の反社会的な運動はむしろ経済的な豊かさがないと機能しない側面もあり、1991年にバブルが崩壊して経済的な全盛期は終わってしまったが、しばらくは経済的な貯蓄のようなものが日本にはあった。
1990年代の初頭辺りは不良文化の流行がまだ続いていたりしたが、どんどん廃れていき、かつての不良は古いヤンキー像となった。
この頃の日本人の意識を考察すると、まだ「戦い」の発想があった時期である。
身体を張って戦おうとすることの美学みたいなものが強かった頃であり、
ある意味、人間が「身体」の次元で生きていた時期だとも言えるだろう。
人間は10代の頃に過ごしていた文化の思想でだいたい生きているという思想的な法則があるため、戦後の日本の文化の変遷を踏まえつつ、各々が10代を過ごしていた頃はどんな時代だったのかを振り返ってみると、その思想の背景が見えてくる。
そして、そんな変遷の中でコンピューターが登場してくる。
MicrosoftがWindowsの初版を出したのは1985年であり、その頃はまだ専門家向けの初期のコンピューターという感じだったが、1995年の『Windows 95』あたりで一般家庭でも使えて普及するクオリティになってきた。
また、任天堂のファミコンの登場は1983年だが、1990年にスーパーファミコンが登場し、1994年にSonyからプレイステーションが登場していき、コンピューターゲームがどんどん発展していくデジタルカルチャーの時代になり、2000年代へと突入する。
そうして「戦い」の発想は無くなってきて・・・
だんだんと「身体でないもの」の次元に突入してくる。
それは「虚構」へ向かっているようでもあるが・・・それよりも新しいものが求められる時代になったのではないだろうか?
コンピューターの発展と共に、社会で求められる仕事やスキル的に「理系」が重要になってきた時代にもなってきたため、理系が介入してくる「理系の時代」になったとも言えるだろう。
BMSもまた「理系向けの電子音楽」と捉えると、理系の時代の音楽という感じになるかもしれない。
さらに、2007年に初音ミクが登場し、ボーカロイドが革命的に普及していった。
それから日本の電子音楽はボーカロイド音楽がその発展を担うようになったし、
動画制作環境とハードディスク容量がどんどん進化するにつれて、ネットにアップされるMV作品のクオリティはどんどん向上していった。
2010年代・2020年代はボーカロイド作家だった者が出世したり、その影響を受けた音楽作家が斬新なアーティストとして称えられるようになった。
しかし、音楽業界全体は停滞気味になっているのだろうか?
そして、その影で登場していたものがヌーソロジーである。
ヌーソロジーは1989年にその発端が出てきて、1997年に初の書籍出版がされた。
1990年代にコンピューター時代へ変わっていく最中の時期に出てきたヌーソロジーは、「人間でないもの」を求める「理系的な」思想として登場した。
ヌーソロジーでは1999年と2013年が一つの転機とされているので、2010年代も精力的に活動が続けられていた。
2020年代の中頃にさしかかった今の時代だからこそ・・・
2000年代のデジタルアートであるBMSに、
人間でないものを求める理系的な思想であるヌーソロジー・・・
こうしたものの可能性に期待していきたいと思う。