不定期連載『変換人型ゲシュタルト論』シリーズ。 記事一覧はこちら。
◆◇影に潜む「精神世界」の文化◆◇
ヌーソロジーを語る以前に大事なのは、
ヌーソロジー以外で「科学の枠外にあるもの」を探求するジャンルの存在である。
アメリカでは1980年代頃から「ニューエイジ」という言葉が出てくるようになった。
ニューエイジとは、物質的世界によって見えなくなっている神聖な真実を目指すものだったり、個人の霊性・精神性の向上を目指すものだったり、宇宙・自然・生命などの大いなるものとつながろうとしたり、地球や自然を愛するものだったり・・・
・・・と、非常に多様な思想を含みながらも「新しい時代」を目指すものである。
こうした潮流は1960年代から既に始まっていたと言われていて、
アメリカで起きた「ヒッピー・ムーブメント」もニューエイジの潮流の一種とされる。
そうした潮流の元となるのは、ヘレナ・P・ブラヴァツキーが19世紀にアメリカで立ち上げた神智学協会だと言われている。
神智学のベースとなる思想は、古代からあったキリスト教・仏教・ヒンドゥー教・エジプトなどが持つ神秘主義思想を総括したものだが、ブラヴァツキーによってまとめられたものの影響は非常に大きい。
神智学協会が広めた「心霊主義(スピリチュアリズム)」や「霊性進化論」は、「新しい時代」に必要なものとして現代的にアレンジされつつ、世界中に広がっていった。
そして、日本にもそうしたものが伝わるようになり、
それが1980年代のオカルトブームへと繋がり、
「精神世界」という言葉ができて、書籍のジャンルの一つとなった。
ヌーソロジーも一言で言うと「精神世界」のジャンルにあるものにカテゴライズされる。
この辺についての色々は『サイキックの研究と分析』シリーズでも書いたので、
そっちを読んでもらいたい。
「ニューエイジ」や「精神世界」で目指すものは、
大体「オカルト」で目指すものにも近いと言っても良い。
そもそも、オカルト(occult)というワードは、本来「隠されたもの」「目で見たり触れたりすることができないもの」を指すものである。
神秘思想や西洋魔術の文脈の中で「オカルト」と言った場合、それは科学の枠の外にあるものであり、一神教(特にキリスト教)が排除した思想であり、秘教的な知識体系のことを指したりする。
それらは一般的には分かりずらく、隠れやすいから「オカルト」と呼ばれているわけである。
ヌーソロジーでやることもそうしたものを探る作業だと言っても良い。
ただ、日本で俗に言われている「オカルト」というワードは、幽霊とか恐いものだったり、怪しげなものだったり、不気味なものを扱う言葉になりつつあり、本来の意味とは離れがちになっている。
(一方で「カルト(cult)」というワードは「崇拝」を意味し、胡散臭いものはそう呼ばれている。)
オカルトが本来の意味と離れつつあることを危惧しつつも・・・その本質について探っていくべきである。
1995年から消えていった精神世界カルチャー
1960年代はアメリカではヒッピームーブメントの全盛期となっていて、
その後はそれが落ち着いたものの、1970年代もその影響は残っていて、
1980年代も日本では精神世界カルチャーが流行っていて、90年代前半までは続いていた。
日本でそうしたカルチャーが消えた明確な理由としてよく挙げられるのが、オウム真理教による無差別テロ事件であり、1995年の地下鉄サリン事件と教団逮捕によってその終止符が打たれることになった。
精神世界カルチャー全般はそれ以降、一気にやりずらくなってしまった。
オウム真理教の教えの内容も見てみると特徴的である。
「オウム(aum)」という神聖な言霊を重視したり、
クンダリーニヨガを用いたり、
人間は神人と獣人の二種類に分かれるみたいなことを言ったり・・・
別に悪い発想ばかりではないのだが、
神人が善で優れていて、獣人は悪で劣ってるものとしてしまった。
オウムという特定の言葉を唯一神聖なものとして使い過ぎて、具体的な人物=教祖を神と同一視してしまった。
あと、クンダリーニヨガの扱いに問題があっただろう。一番上のチャクラ(クラウンチャクラ)ばかりを開発すると、地に足がつかずに膨大妄想に行き過ぎて破滅することは、ちゃんとした専門家ならよく知っていることである。
とにかく、宗教の悪い所ばかりが暴走していき、
普通の人間を悪と思うがままにテロにまで発展してしまった。
ただ、クンダリーニヨガが悪いわけではないし、
オウムという言霊自体は悪いものではないし、
人の中に神性と獣性を見出して区別することは悪いわけではないし、
神々の世界を信じて知ろうとすることは悪いわけではない。
我々はあの失態から学びながらも、
そこで本当に目指すべきものは何なのか?を見つけるべきなのである。
手段の一つとしてのヌーソロジー
ヌーソロジーの目的を簡潔に言うと・・・
唯物論的価値観から離れて、科学の枠の外にある世界を目指す。
そこにある上次元の意識と接続することを目指す。
ヌーソロジーではそれを『シリウス』と呼んでいる。
・・・といったことに集約される。
まぁこれはあくまで簡潔に言った場合の話であるけど・・・
そこに至るプロセスは、知れば知るほど味わい深い、独創的で膨大なものとなっている。書籍を読むとそれがよく分かってくる。
あと、よくよく知っていくと応用方法が色々あることが分かってくるし、オコツトは割と人間好きなので、人間の生き方も良いものということで、何でも良いことが分かってくる。
それから、上記ではあくまで上次元の意識と「接続することを目指す」と書いた。
「行ったら終了」みたいに「行くことを目指す」とは書いてない。
人間として生きてる限りは人間の意識は持ち続けて生きることになるし、
シリウスに行ってすぐ終了とはならない。(そりゃそうだ)
あと、接続して繋がった後にどうするかは具体的には決められてない。
そこは各自の自由と言っても良いと思う。
ただ、とりあえず繋がっておけば、何か創造的な生き方をしたくなるかもしれない。
ヌーソロジーで大事なのは、あくまで「自己主体で能動的に。」である。
そうして能動的に生きていくと色んな道が開けてくるし、
そもそもオコツトは人間の生き方を否定しているわけではない。
それを踏まえればなんでもありだし、ヌーソロジーをちゃんと知れば知るほど、あまり否定的な感情は起きてこない。実はなんでもありのような気もしてくる。
そして、そうしたシリウスのようなものを目指すような思想は、古今東西を探せばたくさんある。
それらに通じるのが「精神世界」や「ニューエイジ」のジャンルなわけである。
自分(Raimu)は、それらのジャンルに興味を持って、
あらゆる方法を探っていって、自分なりに考えた所、
以下の4つの手段にまとまると思った。
・体育系的
・人文系的
・理数系的
・芸術系的
1番目は基本である身体を重視するアプローチ。2番目は心を重視するアプローチで、言葉やコミュニケーションも大事になってくる。4番目は芸術による表現と、技術の研鑽である。
そして、3番目である理数系的アプローチを支えるに相応しいのがヌーソロジーなのだと思う。
幅広い手段がある中でも、ヌーソロジーは数学・物理学・幾何学方面で非常に優れた情報を持っている。
『冥王星のオコツト』がもたらした情報を元に、半田広宣さんが苦労して作り上げた知識体系がそうしたものになっている。
なので、精神世界カルチャー的なものに興味を持ちつつ、
理系的な力に魅力を感じる人は学んでみて欲しい。
↓続き
2013:The Day God Sees God 人類が神を見る日 [ digital edition ]
ヌーソロジーをちゃんと学習するならこれ! |