
不定期連載『変換人型ゲシュタルト論』シリーズ。 記事一覧はこちら。
◆◇「純粋持続」の空間について◆◇
これまで『次元観察子ψ5』の理解のために
「回転」「無数化」「バレットタイム」といったことについて説明してきた。
そして、これらはどれも「時間」が重要な概念として絡む話だった。
ここで「純粋持続」という概念について説明しておこう。
純粋持続とは何か?
まず、「純粋持続」とは何か?
これは哲学者のアンリ・ベルクソンが提唱した、時間の概念の一種である。

ヌーソロジーの説明においても、半田広宣さんはよく「持続」とか「持続空間」といったワードを使うが、これもベルクソンの哲学を踏襲している。
「持続」は「純粋持続」の略称であるため、ほぼ同じ意味と理解して良い。
一般的に時間は「客観的に流れている直線的な時間」みたいにイメージされているが・・・
それに対する「主観的に持続している時間」みたいな概念が「持続」である。
ベルクソンを分かりやすく解説している
『シリーズ・哲学のエッセンス ベルクソン』による説明だと、「持続」は以下のように書かれている。
日常生活の必要性に駆られて時間を空間様のものとして捉えたり、とびとびの自然数列になぞらえて理解したりという限りにおいては、時間はいわば物質のような外在的性格を引き入れるということになる。せわしない日常のなかで、僕たちは時間を空間のように、または物質のようにイメージしている。
本当を言うなら、つまり日常生活での功利性や実利性、切迫性を離れ、より本来の意識のなかに沈潜しながら反省してみるなら、そこには、空間的時間とはずいぶん性格を異にする流れが存在するということに気が付くはずだ。まるで<空間的なかさぶた>をはがしてみると、そこから、本当の時間が姿を現すとでもいうかのように。
その忘却を自覚させ、眠った状態のそれを覚醒させるという目的のために、ベルクソンは特別の名前をあたえた。彼はそれを<純粋持続>(la duree pure)と呼んだのである。
それは空間とは違い、単位をもたず、互いに並列可能でもなく、互いに外在的でもない。それは互いの部分が区別されるということがない継起であり、相互浸透性そのものである。数直線とは違い、それは原理的に後先を指定することが難しく、順序構造をもたない。また、可逆性ももたない。それは量的で数的な多様性ではなく、質的な可能性である。
なんとなくどんなものか分かっただろうか?
それから、ベルクソン本人の書籍『時間と自由』からの引用だと、以下のように書かれている。
事実、持続には二つの考え方が可能なのだ。一つは、混合物のまったくない純粋なもの、 もう一つは、空間の観念がひそかに介入しているものである。まったく純粋な持続とは、 自我が生きることに身をまかせ、現在の状態と先行の状態とのあいだに分離を設けることを差し控えるとき、私たちの意識状態の継起がとる形態である。だからといって、過ぎていく感覚や観念にすっかり没入してしまう必要はない。というのは、そうすると、 反対に、自我はおそらく持続することをやめてしまうからである。
これは時間に関する色んなことが書かれている書籍の中での一説で、持続についても書かれている。
どういうものか少しは分かっただろうか?
先の書籍の内容の要点をまとめると、「直線的な時間」と「持続的な時間」は以下のような特徴があることが分かる。

二種類の時間
要するに、ベルクソンが言いたいのは二種類の時間があるという話であり、
それは『垂子の無数化』の項でも説明したような以下の二つの時間のことを言っている。

ヌーソロジーにおいてこの二つの時間はノス(NOS)とノウス(NOOS)に関係していて・・・
- ノス(NOS):直線的な時間
- ノウス(NOOS):持続的な時間
・・・に対応している。

直線的な時間はノス(NOS)側にあって、その概念は科学を作る礎となり、受動的なものとして機能する。
一方で持続的な時間はノウス(NOOS)側にあって、生態系はその力で動いている。
こうした二元のイメージを踏まえながら時間と持続についてを理解していくと、ヌーソロジー的な時間概念を深めていくことができる。
「時間」と「記憶」の真意
ベルクソンの「純粋持続」は、実は人間の持つ「記憶」と密接に関係している概念でもある。
これについてもうちょっと整理してみよう。
以下のKitcat実験のアニメーションを見た時、どうなるのか?

これは一見すると「回ってるように見える」アニメーションなわけだが・・・
我々がこれを「回ってる」ように見えるには
「以前の違う状態になっている記憶」があるからそのように認識できる。
また、動いているものを見て「動いている」と認識する場合は「動いている記憶」が必要であり…
止まっているものを見て「止まっている」と認識する場合は「止まっている記憶」が必要である。
そこからその事象をアニメーションで動いているように認識するには、起きている事象を自身の中でイメージとして捉える必要がある。
そのアニメーションのイメージの中には直線的な時間があり、時空によって形作られる物質のイメージがある。
一方で、そのアニメーションを生成する元には記憶があり、さらに記憶からアニメーションを生成する以前の大元の意識もあるのではないだろうか?
ベルクソンの「純粋持続」はそんな大元の意識にある。
つまり、整理すると以下の図のようになる。

ヌーソロジーでは、イメージの世界は『人間の内面』側にあり…
持続の世界は『人間の外面』側にある。
それから、ヌーソロジーではこの「純粋持続」が、実は「時間の反転」とも関わっている。
時間を反転させることは、時間に虚数iをかけることにもなるのだが、「光速度イメージ」によって到達できるその世界と、ベルクソンの持続の概念が繋がるようになっているのである。
さらに、『人間の外面』を理解することは、『変換人型ゲシュタルト』を理解することになり・・・
『変換人型ゲシュタルト』を理解することは、「素粒子」の意識の構造にアクセスすることになるので、「素粒子」にも到達するようになる。

このように『人間の外面』側へ行った時間感覚で作り出される空間が、ヌーソロジーでは「持続空間」と呼ばれている。
次元観察子と絡んだ話だと、『人間の外面』に身体が没入する段階が『次元観察子ψ5』なため、「持続空間に身体が入る」状態まで行くと、次元観察子ψ5の話になる。
こうした哲学もヌーソロジー理解のためのヒントになるということで、
ヌーソロジーではベルクソンの哲学の話が出てくるわけである。
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2013:The Day God Sees God 人類が神を見る日 [ digital edition ]
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