不定期連載『陰陽哲学基本概要』シリーズ。 記事一覧はこちら。
前回までは、孔子と老子についてを絡めつつ陰陽を説明してひと段落した。
今回のテーマは「物質性と精神性」である。
「物質的であること」と「精神的であること」の二元について追っていきつつ…
「陽と陰はどっちが精神的/物質的なのか?」について考えていく。
ざっくり言うと、「物質性」とは明確で具体的なものであり、人間の肉体もそんな感じである。
一方で、「精神性」とはフワっとしてて抽象的なものであり、「魂」のような概念もそんな感じである。
ここで、本題に入る前に一つ問いかけをすると、男と女はどっちが物質的で、どっちが精神的だろうか?
割と一般的な解答だと、筋骨隆々で論理的で科学とかが好きそうな男の方が物質的で、美意識が高くて文化的なものが好きそうで感覚的な女の方が精神的だと捉える人が多いかもしれない。
しかし、別の側面から見たら、男の方が理想を目指す世界に生きてて、精神的なものを極めればどこまでも行ってしまうから精神的だとも言えるし、女の方が現実的で、地球を生きるのに適してるような物質的な考え方をしてることもある。
今回の「陽と陰はどっちが精神的/物質的なのか?」の話も…
実はそれと似たような話になってくる。
陽と陰はどっちが精神的か?
はたして陽と陰はどっちが精神的で、どっちが物質的なのだろうか?
今回の「陰陽哲学」の考え方だと、それは「言語前」と「言語後」の世界で違ってくる。
「言語前の世界」においては「天」の方が精神的である。
古典的な陰陽論においては純粋な生命エネルギーみたいなものがまず先にあり、それが「天」の本質とされ、「無限であり変化である」といった説明もされる。
「天」は「造化」の働きを持つとされていて、それはまるで創造の設計図みたいなものを持っているようなものだが、まだ顕現されていないので精神的なものである。
そのため、そうした力を持つ「元陽」は精神的なものである。
次いで、「地」の方が物質的である。
「天」の生命エネルギーを受け取るのが「地」の役割であり、それはまるで流動体を入れる「器」のような働きをする。
「天⇒地」の順で造化と創造の作用が働くことで、「地」の力で具体的な物質が形成されるようになっていく。
「地」は「有限であり固定である」といった説明もある。
また、地の世界が進んで自然が発達して、さらにそこに動物が出てきたりすると・・・「生と死」の概念が出てくるようになり・・・「生と死がある中で生きなければならない」みたいな話になる。
そうした生と死の二元性から「死への恐れ」が出てきて、生き物を物質的な地に根付かせていく。
そのため、そうした力を持つ「元陰」は物質的なものである。
言語後の世界
それから、「言語後の世界」だとどうなるのだろうか?
「言語後の世界」になると、「天」の力は純粋な生命エネルギーというよりかは、「言語」の力が強く作用するものとして働くようになる。
これまで説明してきた通り、言語の力が「法」のようなルールを作り、人間はより知性的になり、「国家」を形成するようになり、「陽」の力はどんどんと文明を発達させていく方向に機能し、地上は物質で豊かに溢れる世界になっていった。
そんな「顕陽」は物質的なものである。
その逆である「陰」の力は、統一・含蓄のはたらきを持つとされていて、物質を無限に増やすエントロピー的な力を持っているというよりかは、余分なものを取り除いてまとめていくネゲントロピー的な力を持っている。
また、それは人間の文明に対する自然の力でもあり、人間が作る秩序とは違った性質を持っている。
そんな「顕陰」は精神的なものである。
以上。
陽と陰、物質と精神の関係が大体分かっただろうか?
逆転の法則
ここまでの説明で肝となるのは・・・
「精神性/物質性」の関係が「言語前/言語後」で逆になっていることである。
以上の原理は大事な基本であるため・・・
これを踏まえつつ、陰陽についてをさらに深掘りしていこう。
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