不定期連載『陰陽哲学基本概要』シリーズ。 記事一覧はこちら。
前回の『君たちはどう生きるか?』までで、このシリーズで書きたいことは一通り書けたけど・・・
もう少し続けようと思う。
さて、今回のテーマは・・・「氣」!
これは東洋思想を学んでいるとよく触れる概念で、日本でもぼんやりと伝わっているものである。
「氣」は「気」とも表記される。
中国だと「気功」とか「太極拳」とかその辺で扱われている「気」であり…
ざっくり説明すると「科学で証明されてない見えない意識エネルギーみたいなもの」である。
割とポピュラーでよく知られているものでもあるため、Wikipediaを読んでみると色々と書かれている。
それは人体の中に流れていたりするし、自然に遍在していたりもするし、意識から発生したりもするし、人間の身体でそれを取り込んだり操作したりすることができる。
西洋だとこれと近い概念に「エーテル体」というものがある。
19世紀あたりから出てきた神智学や人智学で使われているその用語は、理論体系が異なるため氣と完全に同一として良いかは諸説ありそうだが・・・
大体近い概念として解釈して良いと思う。
「氣」を単なる漢字の「気」として表記すると、日常的に使う意味を含むものになるので・・・
ここでは「科学で証明されてない見えない意識エネルギーみたいなもの」のことを「氣」と表記することで統一しよう。
道教と氣
氣については以前にもこのシリーズで少し説明した。
氣は古代中国において仙人を目指す仙道思想でずっと扱われていたものであり、それを引き継いで「道教」でも扱われるようになり、「老子は氣の化身である」とする宗派もあるぐらい老子の思想とも関係している。
そして、陰陽哲学的には、氣が存在する箇所は恐らく以下のようになる。
「精神的なもの」に該当する「元陽」と「顕陰」の二つである。
二つとも掴みどころの難しい精神的な概念であるため、氣を意識すると必然的にこの二つを意識することになるだろう。
このように氣の在り所は「元陽」にあるものと「顕陰」にあるものの2パターンが考えられるので・・・
「元陽」にあるものは高次元にある大元のエネルギーとしての氣であり、人間の体内に流れていたりする氣は「顕陰」にあると解釈するべきなのではないだろうか?
あるいは、「新・元陰」と「新・元陽」を踏まえると、以下のモデルも考えられる。
「顕陰」の先には「新・元陽」があるので、「顕陰」から氣を扱っているとそこに辿りつくこともあるだろう。
「元陽」から生じる氣にもまた、太陽のように古典的な存在からエネルギーが生じるパターンと、自己にとって新しい境地へ行きながら元陽的なエネルギーが生じるパターンがあるのかもしれない?
とはいえ、ひとまず重要となるのは「顕陰」の領域である。
「顕陰」は老荘思想や禅の方向性にあることは以前に説明した通りであり、氣の概念もそれらと関係している。
日本でもよく知られている「太極拳」を調べてみたりすると、やはり老子の思想とそれはとても密接な関係にあることが分かってくる。
そうした道教や老荘思想と絡みつつも、氣は中国で大昔から研究されていたものであるため、その歴史は長い。
氣に関する本を探すといっぱい見つかるので、気になるものを手に取ってみてはどうだろうか?
「元陰」にある特有のエネルギー
さて、これまで「元陽」と「顕陰」が氣の在り所ということで説明してきたが・・・
つけ加えると、「元陰」にも特有のエネルギーみたいなものがあったりする。
それは動物的なものだったり、性的なものだったりするもので…
肉体を強めるものでもあるため、「氣」みたいなものなのだろうか?
いや、これは西洋だと「アストラル体」に該当するものとするのが正しいため…
「氣」とは一旦別のエネルギーとして扱った方が良いだろう。
「アストラル体」とは「エーテル体」と別にあるエネルギーであり、動物が持ってる特有のものである。
氣には人間の肉体を強める副次的機能があるが、それは氣がアストラル体へ転換されることによる結果であり、それによって肉体を強めることができると解釈できるだろう。
以上のように、「元陰」にはアストラル体という氣とは別のエネルギーがあることを踏まえつつ…
主に「元陽」と「顕陰」にあるものとして氣を扱っていくことにしよう。
物質的なものと真逆なものとしての氣
さて、普通の人間はどうしても「物質的なもの」に固執してしまう・・・ということを前回も書いた。
対して、「氣」を意識している人は以下のように「精神的なもの」を意識している人になる。
その中でも特に「顕陰」がメインになるため、それは「顕陽」にある唯物論的な風潮の明確なアンチテーゼとなる。
したがって、氣の探究は明確な「反唯物論的な方向性」とも言えるだろう。
そもそも、現代の科学で証明されていないものを本気で扱うとなると、必然的にそうした方向性になる。
また、氣の探究によって自身の身体がどうなっているかもよく知ることができるが、それは科学で説明されているものとして肉体を知ることではないし、言葉で作られた虚構の世界に行くことでもない。
自身の身体と向き合い、科学で説明されているものの範疇を超えて身体について知ることである。
だから、「身体を知る方向性」でもある。
以上のように、氣の探究はそんな方向性にあるわけだが・・・
もちろんこうしたことを知らなくとも、それなりに豊かな生活をしている人もいる。
物質的なことだけを考えたり、科学を用いた生活をするだけでもそれなりに安定はするかもしれない。
科学によって作られた住居は安定するし…
科学によって管理された食品は安定するし…
科学によって発展した医療は数多くの人の命を助け、人間の寿命を伸ばしたことに貢献したし…
電気や機械や化学物質やコンピューターなど・・・様々な科学の産物は、人間の文明に無くてはならないものになったことは言うまでもないだろう。
しかしながら・・・科学で説明できるものが世の中のすべてだと思うと人間は行き詰まってしまうため、やはり別の発想が必要なのである。
「顕陽」に対する「顕陰」はそんな方向性にあるし、氣を扱う意義もそんな感じだと思う。
「精神上のもの」としてのスピリチュアルの探究
ここで「スピリチュアル」というジャンルについて…
もとい、「スピリチュアル」というワードについて、改めて考えてみよう。
スピリチュアルの元の英単語は“spiritual”であり、辞書的には「精神上の、精神的な」みたいな意味である。
「物質的なもの」と区別するための「霊的なもの」みたいな意味として使われることもあるし…
宗教的な意味がついて「崇高なもの」みたいにされることもある。
だから、「精神上のもの」を探究するジャンル全般が本来のスピリチュアルなのだと言えるだろう。
そして、日本でその言葉が輸入され、出版社や商売人によって一つのジャンルになったわけである。
ジャンルとしての「スピリチュアル」は商売がしやすいように戦略的に使われたり、キャッチーで分かりやすいものとして使われるようになっていき・・・
次第に「お金を稼げるスピリチュアル」や「宗教化して人を集めやすいスピリチュアル」みたいなものが「スピリチュアル」の主流になってしまった。
これもまさしく「言語化の法則」による「スピリチュアルの形骸化」であり・・・このままだとまた宗教的で唯物論的な「顕陽」の方向へ突き進んでいくことなってしまうため・・・
とにかく「精神上のもの」としてのスピリチュアルを探究していく必要がある。
そして、「氣」はまさしく「精神上のもの」なので、「氣の探究」は「スピリチュアルの探究」と同義であり、むしろ非常に硬派なスピリチュアルになり得るのではないだろうか?
それから、そうしたスピリチュアルを探究していると、必ず出てくるのは「神」の概念である。
結局、氣を扱うとどこかしらの神様のエネルギーを使うようなことになるため、神学と氣やスピリチュアルは絶対に関わってくる分野である。
そして、氣やスピリチュアルを探究していくなら、陰陽哲学の基本構造を頭に入れた方が良い。
何故なら、神様はだいたい以下の4タイプいるからである。
氣は、一見「気功」みたいに人間の体内に流れているエネルギーのみを意識すれば良いように思われるが・・・
実際には「目に見えない意識エネルギーみたいなもの」を扱うことであるし、そのエネルギーの源泉は多岐に渡ることも分かってくる。
だから、氣の話は「スピリチュアルの世界へようこそ」みたいな話になってくるわけだが・・・
陰陽哲学を理解しつつ、地に足をつけてやっていければ良いと思う。
健康でいるのが良いよね
さて、氣とかスピリチュアルとか・・・壮大なことにも絡んでくるものについてを色々と書いたが・・・
人間、結局は健康大事と思う。
色々考えていったが結局の所・・・
身体を健康にしていくことが大事であるし、快く生きるためになんでも取り入れたい。
最近、自分が個人的にハマってるクリスタルボウルの音とかでも良い。
こうした「音」を使った方法は、Youtubueみたいな動画カルチャ―と特に相性が良いと思うし、氣に作用する力もある。
スピリチュアルはそもそも心身健康でいることが本来の目的として大きいので…
なるべくお金がかからないやり方でスピリチュアルをやりたい。
お金がかからないなら天然塩でも重曹でもビタミンCでもなんでも良いから利用したい。
野菜ジュースなり乳酸菌なりプロティンなりで良いから健康的になりたい。
また、現代人はとにかく癒しが欲しいと思う人が多いだろう。
癒しが必要な状態とは、すなわち自然エネルギーの枯渇であり、恐らく人工的なものにまみれることによって、自然から得られるようなエネルギーが枯渇している。
現代だと「自然からエネルギーを得る手段」となると「食べる」ぐらいしかなかったりするのではないだろうか?
だから現代人は自然からエネルギーを得て癒されようとすると、食べ過ぎなぐらい食べてエネルギーを接種するしかない。
その一方で、氣を意識した自然エネルギーの接種方法は、それとは違う手段だと言えるだろう。
しかしながら、そんな氣を扱うことが自分に合っているかどうかは・・・、人によるし、体質によるとも言える。
それに合っている人は食事からのエネルギー摂取に向いてない人だったりするし…
仙人みたいな人か老人みたいな人向けではある。
若い人は筋トレとかで心身が健康になれるのならそれでも良いのかもしれない。
ただ、こういうのもあると知っておこうということで、氣の知識もつけてはどうだろうか?
また、東洋には陰陽五行説に基づく薬膳のように、自身に必要な自然エネルギーをピンポイントで効率よく得る方法もある。
これも氣の思想の延長にあるような東洋特有の方法論なため、そうした有益な知恵を使っていくのも良いと思う。
スピリチュアルなものを重視するように氣について書いていったが・・・
宇宙全体・社会全体からの視点を踏まえていくと、最終的にはバランスが大事である。
物質的な顕陽と、精神的な顕陽の双方があって、明らかにどちらかが欠けてて上手くいってない状況が良くない。
個人の人生について考えた場合でも、顕陽的なビジネス思考で成功して幸福になれるなら良いが、そうならないならそれでは駄目であるし、そういう人もいる。
物質的なものが過多な状況であるならば、氣の発想とスピリチュアルをもっと推進していきたいし…
氣の力を活かすことを踏まえた道教や老荘思想の再考もしていきたい。
氣を推進することはそんな話である。
↓続き
遍在と偏在は同じ音で間違いやすいと思います。記事にある「自然に偏在していたりもする」の偏在の文字は、おそらく遍在の意味ではないかと思います。
YouTubeで、昔は観られなかった貴重な動画など沢山観られて有り難いですけど、最近は以前よりも、よくない波動を感じるのものを目にすること増えたような気しますので、クリスタル・ボウルの動画など穏やかなものを観る機会を増やしたいです。
日月神示 キの巻 第九帖に、いつ建て替え 大峠 来るのかと 待ってはいけないという意味のこと記されています。
天からは いつも陽気が降ってくると思い、時々 空を仰ぐようにして良い気を得たいです。
普通に誤字だったのでありがとうございます。
修正しました。
偏在→遍在