不定期連載『陰陽哲学基本概要』シリーズ。 記事一覧はこちら。
以前に、「神様はだいたい以下の4タイプいるので、氣を扱ったりスピリチュアルをやったりするなら陰陽論をやった方が良い」ということを書いた。
今回はその「4種の神様」についてもう少し詳しく書いていこうと思う。
4種の神様の大まかなキーワード
上記の神①と神②と神③と神④はざっくりとどんなものなのか、大体のイメージはできるだろうか?
それぞれ「元陽」「元陰」「顕陽」「顕陰」にあるものなため、各概念が分かっているならば、それぞれの神の特徴もなんとなく分かるものである。
これらをもっと深堀りするために、それぞれ4つの神様を表すキーワードを挙げると、以下のようになる。
これらのキーワードで大体分かるだろうか?
それぞれについて軽く説明していこうと思う。
神①(元陽) 太陽神、西洋の神など
ここにあるのは「天」を連想するようなものに近い「元陽」の神である。
まず、「天」と「陽」を象徴するものとして一番分かりやすい「太陽神」や、男性原理の象徴として「男神」が挙げられる。また、太陽神と男神のイメージが重ねられることもよくある。
その他、西洋の神・一神教の神の本質・天使の本質など、西洋由来のものが挙げられる。
最後に、「数の原理」もここに挙げられる。これは数学のベースになってる仕組みのようなもので、言語が作られる原理にも関わっている所である。今日まで伝わるような本格的な数学はほとんど西洋人が発明したものであるため、西洋と陽と数学の関係が重要であり、そこには数学の神様のようなものが存在するかもしれない。
神②(元陰) 月神、動物神など
ここにあるのは「地」を連想するようなものに近い「元陰」の神である。
まず、「陰」を象徴するものとして一番分かりやすい「月神」や、女性原理の象徴として「女神」が挙げられる。また、月神と女神のイメージを重ねられることもよくある。
さらに、東洋の神・多神教の神など・・・こちらは東洋に由来するものが挙げられる。
「天使の本質」に対して「悪魔の本質」がここにあるはずだが、これは悪いイメージを持ったものというよりかは、多神教の神や動物的な存在に近いものであり、悪魔の本質も本来はそういうものである。
それから、「地」を生きる存在の象徴として「動物神」もここに挙げられる。
神③(顕陽) 一神教の神、人工的な神など
ここにあるのは認識が容易な神様であり、人間の世界でよく普及することの多く、洗脳力の高い神様に該当すると言って良いだろう。
人間が好むもので、この世にある多くのものがここに該当する。
また、「言葉の力によって生じたもの」がここの神様の基本にあり、一神教の神様などが言葉によって倒錯することで生じるものでもある。
古典的宗教ベースで人気のある宗教から、資本主義社会の中でエンターテイメントとして人気なコンテンツまでここ該当するため、その内容は幅広い。人類の歴史が進んで文明が発達したり、文化が変わっていくほど「言葉の力によって生じる神」にも色んな変遷が生じてくる。
色々と悪く言うことができるが・・・逆に言うとそれだけ人間にとって親しみやすく、人の心を安心させて一時の癒しを与える力もあるので、むしろ適度に付き合うことが重要かもしれない。
安定のためのコンテンツとして機能しているものなら良いが、過激化しているものに関しては要注意である。
神④(顕陰) 八百万の神、意識進化の神など
ここにあるのは先ほどとは逆に認識が困難な神様であり、人間の世界で多く普及することがあまりない。そのため、マジョリティ(多数派)に対するマイノリティ(少数派)な所にそれが出てくることが多い。
まずは、「一神教の神」に対する「八百万の神」が挙げられる。
加えて、「天使と悪魔」に対する「妖怪」を該当するものとした。これについて補足をすると・・・これも「天使と悪魔」のように偶像化されがちな存在として捉えられることもあるが・・・元々の妖怪は、人間が何か不思議な気配を感じる現象に遭遇した時に「なにかがいる」とされて名前をつけられることによってできたものである。したがって、「なにかがいる」感覚に対して、善や悪の判別をしないで生じたものが「妖怪」だと理解してもらいたい。
他にも、人工的なものに対して自然的なものだったり、現世利益の神に対して意識進化の神だったり・・・などがここに挙げられる。
「顕陰」は理解が難しい概念であることはこのシリーズで何度も説明したように、ここにある神様は慎重に理解する必要がある。
・・・以上。
これらの4種の神様は、前回載せていったイメージとも絡むので合わせて理解していくと良いと思う。
ユダヤ思想のモデル
これらの4種の神様について、もっと掘り下げて説明してみよう。
上記の神様は色んな文化・宗教において色んな形で表れているため、特定の文化においてどのように表れているかを考察していくと面白い。
その中でも一番重要そうなものとして、ユダヤ教とカバラ(ユダヤ教神秘主義)においてこの仕組みがどのように表れているかを見ていこう。
まず、「ユダヤ教」とは何か?
あまり説明はいらないかもしれないが・・・ユダヤ教はユダヤ人が信じる宗教であり、古くからある宗教の中で一番有名な一神教という説明が妥当だろう。
また、イエス・キリストがユダヤ人であったことが有名な話であり、ユダヤ教を全く新しいものにした宗教がキリスト教である。
アダムやイブが出てくる有名なストーリーは「旧訳聖書」に書かれているものであり、これはユダヤ教の聖書になっている。
キリストが出てくるストーリーは「新訳聖書」に書かれていて、「旧訳聖書」に「新訳聖書」を加えたものがキリスト教の聖書になっている。
「西暦」はイエス・キリストが生まれたとされる年を元年とする歴であるため、必然的に紀元前からあった宗教がユダヤ教であり、紀元後からあった宗教がキリスト教である。
それから、ユダヤ人はユダヤ教を信じているわけだが・・・特定の血筋を持つ民族がユダヤ人というよりかは、むしろ、ユダヤ教を信じる人間がユダヤ人だと定義づけられているのが一般的である。
次に、「カバラ」とは何か?
これは「生命の樹(セフィロト)」が有名なため、生命の樹が出てくる神秘思想というイメージが有名かもしれない。
カバラは以下のような図のシステムを扱う秘教的な神秘思想という面も持っているものである。
しかし、その別称は「ユダヤ教神秘主義」であり、ユダヤ人のユダヤ人によるユダヤ人のための神秘主義として出来たのがカバラである。
元々は口伝で秘かに伝えられていたものなため、その正確な発祥時期を追うのは難しいが・・・。だいたい13世紀ぐらいに有名なカバラの文献『ゾーハル(光輝の書)』が明らかになっていって、そこから発展していったものである。
カバラは「宗教」ではなく「神秘主義」なため、その内容はユダヤ教と違う。
ユダヤ教の基本スタンスは「神は人間とは比べ物にならないぐらい超越的な存在である」という神に対する認識があり、それから「神を信じることが正しい」となる。一神教の基本スタンスも概ねそんな感じと言って良いだろう。
しかし、時に「神とは何か?」を問いたがるユダヤ人もいる。そうした懐疑派のユダヤ人が作った思想がカバラなのか、カバラは「神とは何か?」を問うようなスタンスがあり、神の捉え方もユダヤ教とは異なる。
また、「カバラの神」はユダヤ教の神のように恐れ多いものではなく、ただ下僕のように信じれば良いものではない。哲学的な思索の中で見出すことができるものであるし、人間も「神のような性質」を持つことができるとされている所がユダヤ教と比べると革新的である。
そんな「カバラの神」はどんなものなのか?
簡潔に説明すると「分かち合う精神を持った存在」である。
それはまるで「創造主の光」という言葉で表現できるものであり、エネルギーが満ち足りていて、それを分かち合うように与えることができる存在である。
それは「歓喜」「充実」「生命」のエネルギーを持っているものであり、そうした力を分かち合うことができる分かち合いの精神を持ったものが、カバラにおける神の在り方である。
これに対するものは、人間の持っている「エゴ」であり、これは「自分だけ受け取りたい欲望」を持っているとされる。
カバラの神に反して、人間のエゴは「分かち合いの精神」に反するものを持っていて、加えて「苦痛」「苦悩」「死」の性質を持っているものである。
それらの苦悩と共に自分だけ受け取りたい欲望を持ってしまうのが、カバラにおける人間のエゴの在り方である。
したがって、そうした「エゴ」から「神」の性質に近づくことで「神のようになる」ことができる・・・というのが、大まかなカバラの教えである。
・・・みたいなことが、以下の『神のようになる』という書籍に書かれている。
こうしたカバラの神は「生命の樹」だと一番上の「ケテル」という場所に存在するものに該当する・・・とも解釈することができる。
以上は、膨大とも言えるカバラの教えの一つだが・・・とても重要な核心に該当する所である。
ここで軽く説明した内容は、先に紹介した『神のようになる』という本に書かれていることを踏襲している。そして、この本はただの本ではないと言っても過言ではないかもしれない・・・
カバラの代表的な聖典である『ゾーハル(光輝の書)』を全23巻すべて英訳したマイケル・バーグが、その教えをさらに簡潔にまとめて書いたものがこの本であるため、その内容はカバラの核心にも非常に近い内容なわけである。
こうして、元々はユダヤ人のための神秘主義だったカバラだが、後々になってヨーロッパなど他の国々の西洋人がそれに注目し、「西洋魔術」のジャンルでカバラの思想や生命の樹のシステムが導入されるようになる。
『黄金の夜明け団』などで利用され、タロットカードなどと絡められながら応用されるカバラは「魔術カバラ」としてユダヤ人以外の西洋人が発展させていったものである。
また、以上のようなカバラの秘教的な教えがある一方で・・・
やはり、普通のユダヤ人にとってはユダヤ教の方が一般的で有名であるし、世界的にはそちらの方が普及している。
また、ユダヤ教を全く新しくした一神教がキリスト教であり、これも一層世界的に普及している。
・・・さて、カバラの話が長くなってしまったが・・・ここまでの流れを踏まえて・・・
これらの西洋思想において4種の神様が何に該当するか?を以下の図に当てはめてみよう。
まず、「元陽」にある神①は「カバラの神」である。
これは「天」の創造的な性質をそのまま持つような存在でもあり…
東洋で説明されている陽の性質とほぼ一緒と言っても良い。
西洋人が追求するべき神様としても、核心的な存在なのではないだろうか?
次に、「元陰」にある神②はそうした神から力を「受容するもの」だと言えるだろう。
カバラは「力を分かち合うことができる神」の存在が重要だが、その力を「受容するもの」の存在も重要である。
そうした受容する側の存在も世界創造の要にもなっていると解釈できる宇宙論がカバラである。
それから、これは東洋で説明されている陰の性質とほぼ一緒と言っても良い。
次に、「顕陽」にある神③は、あまり多くの説明は必要ないかもしれないが・・・
まずは「ユダヤ教の神」である。これはユダヤ人が信じる特定の神に限らず、言語によって作られた性質の大きい神がそれに該当し、「一神教の神」の代表的なものもそれに該当する。
それから、それを支持するのは「人間のエゴ」であるため、人間のエゴを支えるような存在もここに該当するだろう。
ユダヤ教からもっと大衆受けするファンタジー色の強い宗教が作られ、「キリスト教の神」が出てくる。
よりファンタジー色が強くなることで「天使と悪魔」がどんどん出てくるようになり、偶像化されたその両方も「顕陽」的なものになるわけである。
最後に、「顕陰」にある神④は・・・なかなか謎が多いわけだが・・・
西洋人の場合は、どのようにこの神を発見していくのだろうか?
西洋で発展していった西洋魔術では、その思想やシステムにカバラが導入されて「魔術カバラ」ができ上がるが・・・これは西洋人が「顕陰」的な進化を求めた結果できたものなのだろうか?
西洋魔術の他にも、錬金術や占星術や魔女術や古代ギリシャ文明のように、キリスト教の影で秘かに探究されていったものがここに該当するかもしれない。
また、19世紀あたりからになると、革新的な西洋人が東洋に注目することが起きるようになっていった。アメリカではヘレナ・ブラヴァツキ―が東洋思想やブッディズムやヨーガに注目し、神智学協会でそれを重要視した結果、後世で東洋思想を取り入れるスピリチュアリズムが流行するようになった。
西洋魔術界隈から出身の人物だとアレイスター・クロウリーが東洋の文化に注目し、自らもヨーガにハマるように東洋の技法を実践的に取り入れていた。
このように、西洋から離れて「東洋思想」に向かう道が、新たな進化のための神を見出す道になるのだろうか?
日本の神様のモデル
先ほどは「ユダヤ教とカバラ(ユダヤ教神秘主義)」のモデルから「4種の神様」を説明していった。
次に「日本の神様」のモデルから説明してみよう。
ざっくりと「古事記」ベースで日本神話に出てくる神様を説明していくと・・・
まず、「イザナギ」と「イザナミ」が日本神話の初めの方に出てくる神様として存在する。この二神は日本の国土を生み出したとされる最も有名な夫婦神である。
(この二神より前に存在する神様もあるが・・・それはひとまず置いておこう)
それから、「アマテラス」「ツキヨミ」「スサノオ」の三神が有名である。
「イザナギ」から生まれたとされる三柱の神であり、日本の主神のような存在である。
このうちの「ツキヨミ」は神話の初めの方でどこかに行ってしまい、それ以降は神話に出てこない「不在神」みたいになっている。
だから、「アマテラス」と「スサノオ」の二神が中心みたいなものである。
「アマテラス」は神々の住まう高天原(たかまがはら)で最高神のように扱われている存在である。
その弟である「スサノオ」は高天原にいたことがあるが、追放されて地上に降りることになり、その後ヤマタノオロチを討伐したりと地上で活躍するようになる。
それから、日本の神話に出てくる神様は天津神と国津神の二種類に分類されると考えられている。
ざっくり言うと天津神は高天原にいる神様だったり高天原から降りてきた神様であり、国津神は地に現れた神様だったり地の性質が強い神様である。
それぞれ色んな神様がその双方に属するため、その詳細を見ていくと大変だが・・・
アマテラスが天津神に属し、スサノオが国津神に属するため、ざっくりとそのようにイメージすることができる。
さて、ここまでの説明を踏まえて・・・
4種の神様が何に該当するかを以下の図に当てはめてみよう。
神①は主にイザナギとアマテラスがその代表に該当する。
イザナギは高天原にいる王道的な神様であるし、始まりを司る男神である。
アマテラスも高天原にいる太陽神であり、漢字表記だと「天」の文字を持っているため、「天」のイメージほぼそのままみたいな神様である。
神②は主にイザナミとスサノオがその代表に該当する。
イザナミはイザナギの妻である女神であり、後に黄泉の国の神となった「死の神」としての役割もあるため、「陰」の象徴的な存在としても相応しい。
スサノオは高天原にいたこともあったが、そこと合わずに追放された荒くれ者の神であり、非常に野性的な「地」の性質が強そうな神様である。
それから、天津神と国津神がそこに関わってくるわけだが・・・
これらは国の創立や安定に関わっている神様も多いため、もしかすると人間よりの位置づけになるかもしれない?
しかし、その元となる原理は「元陽」と「元陰」にあるということで、一旦は上の方に位置づけておこう。
そして、日本で人間らしい文明が発展していくにつれて、神③が出てくるようになる。
まず、アマテラスの偶像化と政治利用がここで起きてくるようになる。
「天」の原理が元になっている存在が政治に利用されることは日本でも昔から頻繁にあったことである。日本の国旗もそうしたアマテラスの象徴だと言えるだろう。
そして、「天皇」もそうした存在である。
天皇は人間に尊ばれるための現人神のようなものでもあり、日本国の安定と政治のために存在している。そのまま「天」の字が使われているためその存在意義が分かりやすい。
古来より日本の天皇は権威の象徴であったことは言うまでもなく、政治利用されることも多かったが、象徴天皇制になってからはそこまで権威的でもなくなったりしているので・・・その辺は色々である。
一方で、現代の日本で起きていることはアマテラスや天皇の権威化よりも、「宗教の迷化」が大きいかもしれない。
日本はキリスト教のような強力な宗教がないため、無宗教国家となっているような特徴がある。
一応、神道や仏教のような国教があるにはあるが、そこまで強力でもない。
神無き国のようになっている日本のこうした特徴は、長所でもあるが、短所でもある。
部分的に見ると一時期は新興宗教が流行っていた所もあったりしたが、信用できないことが起きることによって一気に信用されなくなってしまっている。強力な宗教がない中でそうなってくると、信じるべき宗教みたいなものがほとんど無くなっていく。さらに宗教が力を失えば失うほど、お金も稼げず維持する理由がなくなっていく。そうした負の連鎖によって日本の宗教は衰退しているわけである。
そうした「宗教の迷化」がある中で、そのまま信心深く無くなった結果起きるのは「唯物論」の道である。
無宗教国家になると「科学が正しい」みたいなことが宗教のように力を持って、唯物論ベースの思想が一般的なものとして普及する。
唯物論はニュートン物理学や科学をベースとしたシステムでもあるため、それを司る神のような存在もあるだろう。
そして、神④ついてだが・・・
現代日本では何がこれに該当するのだろうか?
まずは「八百万の神」である。日本人はなんにでも神を見出す性格を元来持っているため、そんな言葉が生まれている。
なんにでも神を見出すその精神は、人間が本来持つべき信心深さとして必要だと思う。
それから、やはり「東洋思想」が重要であるとしよう。日本にとって「東洋思想」は主に古代中国にあった思想の存在が大きいが・・・中国から輸入した知恵についてもっと考えるべきなのかもしれないし、日本自体にも重要な思想があるならそれも掘り下げていきたい。
あと、「仏教哲学」も該当するものとした。日本にとって仏教は「インド⇒中国」へと渡ってきた大陸からの輸入品であり、昔は特にエリートのように頭が良いインテリのやる宗教として期待されていた。
仏教は政治のために使われたり、仏教徒の間で権力争いが盛んになったりと、当然のように腐敗していったものでもあるが・・・本来の仏教は釈迦が立ち上げた異端の哲学であり、「禅」のように優れた宗派があったことを忘れないようにしたい。
そうした哲学がベースにある宗教としての仏教には期待したい。
その他、「陰陽哲学」を深掘りしていき、ここに該当する存在を探っていきたいものである。
・・・以上。
神①と神②と神③と神④の「4種の神様」について、大体の理解ができただろうか?
ここでは主にユダヤ思想を中心にした西洋思想におけるそれらの神様についてと、日本におけるそれらの神様について説明していった。
こうした基本的な神様は、古今東西の様々な文化によって表現され、その文化の内容によって神様の在り方やイメージが全然違ってくる。
西洋文化や日本文化はその一例である。
次回はそうした文化の違いについて書いていこうと思う。
↓続き