不定期連載『陰陽哲学基本概要』シリーズ。 記事一覧はこちら。
前回は「パラノとスキゾ」についてと、顕陽と顕陰の関係について書いていった。
今回は、「外向タイプと内向タイプ」について書いていこう。
外向と内向
「外向タイプ」と「内向タイプ」については、以前にもこのブログの『河合隼雄を読み直す』シリーズで扱ったことがある。
それから、『社会不適合者の能力特化論』シリーズでも扱ったこともある。
「外向タイプ」と「内向タイプ」とは何か?
これもユングが注目した概念で、原理的には「意識のベクトルが外に向かうのを基本とするのが外向タイプ、意識のベクトルが内に向かうのを基本とするのが内向タイプ」というように説明されている。
それから、河合隼雄さんの書籍『ユング心理学入門』に書かれてるユングの言葉だと、以下のように説明されている。
世のなかには、ある場合に反応する際に、口には出さないけれど「否」といっているかのように、まず少し身を引いて、そのあとでようやく反応するような一群のひとびとがあり、また、同じ場面において、自分の行動は明らかに正しいと確信しきって見え、ただちに進み出て反応してゆくような群に属するひとびとがある。前者は、それゆえ、客体とのある種の消極的な関係によって、また、後者は客体との積極的な関係によって特徴づけられている。 ・・・・・・前者は内向的態度に対応し、後者は外向的態度に対応している。
要するに、意識が内向的で集団に対する反応が遅れる性格の者と、意識が外向的で集団に対して疑わずにすぐに適応できる性格の者がいることをユングは突き詰めて、「内向タイプ」と「外向タイプ」を明言することをやったわけである。
ユングは「タイプ論」というものを提唱していて、それにもこの内向タイプと外向タイプが組み込まれている。
ユングのタイプ論の発想は、「MBTI」という有名な性格類型論でも用いられるようになり、MBTIで「I」(Introverted)と呼ばれるタイプと「E」(Extraverted)と呼ばれるタイプは、それぞれ内向タイプと外向タイプに該当する。
そんな内向タイプと外向タイプの性格の違いを表にまとめると以下のようになる。
以上のような性格傾向が、外向きの意識のベクトルと内向きの意識のベクトルによるものとして説明されているわけだが・・・これは外に広がる光のイメージと内に潜む影のイメージとも通じていて、陽と陰のイメージにも通じているのではないだろうか?
外向と内向、陽と陰の概念は、イデアにおいて関係した概念になっていそうである。
とくに「顕陽」と「顕陰」が外向と内向に関係するものとなる。
外向タイプ・内向タイプと陰陽との関係は、パラノ・スキゾと同様で、およそ以下のように該当する。
外向タイプは周りを見ることを基本とするから、結果としてみんながやっているような普通の行動パターンに向かいやすい。
対して、内向タイプは周りを見るより、内にあるものに関心を持つから、みんながやっているような普通の行動はせず、結果的に異端な方向に進む。
このように「外向・パラノ」「内向・スキゾ」はそれぞれ別の意味だが・・・外向的行動から周りの集団や規則に従属するケース、内向的行動から集団や規則の従属から避けるケースを考えると、概ね方向性が一致してくるものでもある。
学者的内向と動物的外向
とりあえず、外向タイプは顕陽やパラノと同様で、内向タイプは顕陰やスキゾと同様みたいなものとしたが・・・
もっと掘り下げると、別の側面も見えてくる。
以下みたいなケースもある。
実は内向タイプは学者っぽい行動パターンになり、外向タイプは動物っぽい行動パターンになることもあったりする。
これを「学者的内向」と「動物的外向」と呼ぶことにしよう。
こうすると、「外向=パラノ」「内向=スキゾ」のようには一概に言えなくなる。
内向タイプは意識のベクトルが内に向く。
その結果、本を読んだりして学術的なものに関心を持ち、知能をひたすら高めて、先見の明を持って成功することもある。
一方で外向タイプは意識のベクトルが外に向く。
その結果、真面目に学校に通って勉強することに専念したり・・・
・・・することはせずに、気持ちの良いものを求めた結果、目先にある楽しそうなもので遊んだり、美味いしいものを食べたり、異性に関心を持ったり、スポーツを楽しんだりして・・・動物的な本能に従うような強さを求めることもある。
こういうタイプは目先のことには強いが、もっと先のことを考えたり先見の明を持つことには弱い。
こうした「学者的内向タイプ」と「動物的外向タイプ」の分岐は、まずは人類が登場する直前にあったかもしれない。
もともと人間は猿から進化した生き物とされているので、人間になる前は「類人猿」である。
また、動物として高度な進化をして類人猿になるまでには至ったが、最終的に人間になれなかった類人猿もいる。
そこで人間になれなかった側の類人猿は、案外合理主義な行動パターンを持ってて賢く、肉体も強い。人間になれた側の類人猿を豊かなジャングルから追い払うことができるぐらい強かった。
しかし、ジャングルから追い払われた側の類人猿は、追い払った側の類人猿とは違った賢さや強さを持っていた。一見弱々しいと思われる能力を持っていた類人猿だが・・・最終的に「言語」を発明するに至るようになり、人間へと進化する。
このように人間へと進化した類人猿は、恐らく学者的内向タイプのような者達である。
それから、人間の登場以降もそうした二分が出てくるようになる。
原始的な文明を生きていた人間にとって、自然界はまだまだ肉体が強い者が有利で当然だった。
しかし、農耕を開発して、食べ物の貯蓄と運用が上手い者が有利になった。
新しい道具の開発に成功して、道具の開発、導入、運用に強いものが有利になった。
言語によって物語を作ることができるようになって、物語を伝えることができる者が有利になった。そもそも人間は言語を扱うことができる特性を持つため、言語能力の高い者が有利な特徴もある。
それから宗教の作成にも成功し、法律の作成にも成功した。国家が成立するようになって、だんだんと学問を発展させることが可能になった。
こうして文明が発達するにつれて、言語を扱うことに長けた人間はより有利になっていった。
このように、人間社会の発展には、一見肉体が弱々しいようでも、国家安定に大きな貢献をしている学者的内向タイプの存在が大きい。
さらに、こうしたケースは現代でも引き継がれて表れているわけだが・・・例えば、オタクとヤンキーの違いにもそうした原理が表れているのではないだろうか?
現代に通じる学者的内向タイプと動物的外向タイプについて考えてみても奥が深そうである。
要するに、外向タイプと内向タイプの性格の違いは意識のベクトルがどちらに向くかによって違ってくるものだが、内向的性質から言語や知能にこだわるケースと、外向的性質から動物的本能にこだわるケースがそれぞれあるわけである。
ここにおいて、「外向・パラノ」と「内向・スキゾ」との絡みにおいても少し微妙な問題になる。
内向がまるでパラノのようで、外向がまるでスキゾのような動きになるわけである。
このように、内向タイプの二面性と外向タイプの二面性があることも踏まえておこう。
そして、それは陰と陽の二面性とも通じていたりするかもしれない。
陽キャと陰キャ
次に「陽キャ」と「陰キャ」について考えてみよう。
これはそれぞれ「陽キャラ」と「陰キャラ」の略であり、「陽気で明るいキャラ」と「陰気で暗いキャラ」みたいな意味のスラングである。
これも以下の記事で書いたことだが・・・
「陽キャ」と「外向タイプ」、「陰キャ」と「内向タイプ」は、だいたい似てるものとも言えるし、似て非なるものとも言える。ニアリーイコールみたいなものだと思う。
「陽キャ」と「陰キャ」のそもそもの発端は若者が学校やインターネットで使うスラングみたいなものなので、使う者によって微妙に意味は違うし、明確な定義づけのない適当な概念である。
とはいえ、表面的な陽と陰(顕陽と顕陰)の性質が、陽キャと陰キャとして日常に表われるのではないだろうか?
易の原理的にも微妙に陽の性質を持つ(前向きに生の方向に向かう)と陽キャ、微妙に陰の性質を持つ(後ろ向きに死の方向に向かう)と陰キャってこともあるかもしれない?
なんにせよ、陰陽の現象がさらに俗っぽくなったものとして表れているのが陽キャと陰キャだと思われる。
俗っぽいものなので、言葉の力によって「陽キャのが良いんじゃね?」みたいなことにもなったりして、強弱や優劣の関係も持ってしまうようになる。
陰キャもゲームばっかりやってるようでは競争の世界からはなかなか抜けられない。
なかなか本質的な「スキゾ」や「内向」みたいな「顕陰」側に行く人は少ないかもしれず、俗っぽい方に留まる人が多いかもしれない。
顕陰のように異端な方向に行くケースはあまり多くないとなると、陰キャも割と顕陽側の人間になる。
しかし、本質的な外向タイプと内向タイプは、本質的な陽と陰にも通じている概念であるし、陽キャと陰キャもこうした概念にどこか通じている。
陽と陰みたいな言葉がポピュラーに使われているのは面白いことだと思う。
日本人にとって東洋思想がもっと馴染みのあるものになって欲しい。
↓続き