不定期連載『変換人型ゲシュタルト論』シリーズ。 記事一覧はこちら。
これまで、長く難しい哲学の話をするようにヌーソロジーの話をしてきたが・・・
なんのためにそれをやってきたのだろうか?
ヌーソロジーを理解する目的の話になると、これまた混み入った話になってしまうが・・・
そもそも、ヌーソロジーを学ぶ目的に「自己を見つける」ということもあった。
ここで言う「自己」とは、単純に「自分が自分と認識している自己」という話ではない。
普段の我々は意識は、基本的に他者の影響を受けることが多いという原理や、我々は幼児の段階で「他者からの視線」をベースに「他者にとっての自分がこうだろう」というイメージから「自分はこうだろう」という意識を確立していくことは、以前にも説明した。
また、通常の我々が認識できる「自己」は、科学的に説明できる空間があって、その中に肉体があって、肉体の中に精神がやどっている・・・みたいに、科学で説明できる世界観に基づいている。
そうした科学的世界観をヌーソロジーでは『人間型ゲシュタルト』と呼び、そこには意識の本質はないとする。
そのため、本質的な自己を知るためには「科学の枠」を越えないといけない。
したがって、ヌーソロジーにおける自己探求に必ず必要なのは科学の枠外にある「自己」を探ることであり…
そうした科学の枠外にある「自己」のことをここでは「Spirit Self」と仮に呼ぶことにした。
そして、冥王星のオコツトが言っていたことを改めて確認すると…
「自己」については以下のように言っていた。
次元観察子ψ5とは自己が形成されている空間領域のことです。ψ5は位置の等化によって顕在化を起こし、人間の内面と外面を統合します――シリウスファイル: 19920204
ここで、『次元観察子ψ5』の位置にあるとされる「自己」とは何なのか?を改めて考えてみよう。
ユングのセルフと、ヌーソロジーの自己
まず、自己といったらユングが提唱した「セルフ(self)」がある。
これは辞書的にも「自己」と訳される言葉だが、ユングが扱うそれには特別な意味がある。
ユングの言う自己(self)は、意識の中心にある自我(ego)に対して無意識化にあるものであり、以下のように説明されている。
(河合隼雄著『ユング心理学入門』より引用)
意識の状態は一応安定しており、なんら自我の力によって変更する必要が認められないからである。
<中略>
その意識を超えた働きの中心として、ユングは自己なるものを考えたのである。自我が意識の中心であるのに対して、自己は意識と無意識とを含んだ心の全体性の中心であると考えた。 自己は意識と無意識の統合の機能の中心であり、そのほか、人間の心に存在する対立的な要素、男性的なものと、女性的なもの、思考と感情などを統合する中心とも考えられる。
つまり、ユングの言う自己(self)は以下のように、意識と無意識とを含んだ全体の中心にあるものに該当し、意識と無意識の統合の役割を果たす中心的なものにもなっているらしい。
それから、ヌーソロジーの『次元観察子Ψ5』も全体の中心みたいな位置にある。
分かりやすく表現すると下記のように上から3番目ぐらいに該当するわけだが・・・この位置は浅すぎず深すぎずな位置であり・・・第五層から先はまた深さが一変し、第七層は深すぎるから第六層までを捉えた方が良い。また、第四層で区切った方が良い・・・といったことを踏まえると、第三層あたりが全体の中心として要になっていることが分かってくる。
したがって、ψ5にあるとされる自己も、ユングの自己(self)に近いと捉えて良いと思う。
そして、ユングの言う自己(self)が顕現しつつ、自身の自我がより高次の全体性へ向かうことを、
ユングの用語で「個性化」という。
それは以下のように説明されている。
(河合隼雄著『ユング心理学入門』より引用)
個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の課程を、ユングは個性化の課程(individuation process)、あるいは自己実現(self-realization)の課程と呼び、人生の究極の目的と考えた。
「個性化」について詳しくは以下の記事でも説明した。
そこに至るためには、ヌーソロジーで説明されている難しい構造を理解していく構造的な課題があるというより、心理的な課題をクリアしなければならない。
その辺りの話は前回の『等化時の心理事情』の項で説明した通りである。
スピリチュアルのハイヤーセルフと、ヌーソロジーの自己
それから、ユングの「セルフ」と近い言葉に、スピリチュアルにおける「ハイヤーセルフ」というものがある。
ハイヤーセルフは直訳すると「高次の自己」のような意味で、スピリチュアル界隈の色んな場所で使われている言葉なため、言葉を発した者が何をイメージしているかによってその明確な意味は異なるかもしれない。
そのため、単にハイヤーセルフと言っても定義があいまいな概念になっているが・・・それは自他一体の領域にあるものも含むことがあるらしい。
そうなると、ヌーソロジーにおける「自己」とそれとはちょっと違うかもしれない。
ヌーソロジー的に自己と他者が一体となる領域(※厳密にいうと一体になるというより『等化』が起きる領域)は、『次元観察子ψ5(自己)』と『次元観察子ψ6(他者)』が『等化』する『次元観察子ψ7』からである。
しかしながら、『次元観察子ψ5』における「自己」はそうではない。
自我よりは高次元の領域にあるのは確かだが、自他一体の領域よりは前である。
そのため、「自他分離状態における最高位の自己」に該当するものが、『次元観察子ψ5』における「自己」ということになる。
そこは個性が発揮される領域のものであり、自他一体の領域よりも自立した意識のある場所である。
立場的に多神教的な神の領域に近いのではないだろうか?
さて、「自己」についての説明を色々としてきたが・・・
要するに、これまでの説明をまとめると、以下のようになる。
- ユングの自己(self)のように全体の真ん中くらいに位置する
- 意識と無意識を統合するための中心的なものである
- 自他分離状態における最高位の存在である
こうした特徴を持つものが、『次元観察子ψ5』によって分かる「自己」ということになるのではないか?と思う。
↓続く