不定期連載『陰陽哲学基本概要』シリーズ。 記事一覧はこちら。
これまで、下記三つの中で上二つについて書いていったので・・・
・パラノ・スキゾ
・外向・内向
・強者・弱者
今回はそれらのテーマの最後として「強者と弱者」について書いていく。
強者と弱者
「強者と弱者」。
これはなんとも元も子もない二元論であり、
なんだか嫌~な感じのテーマである。
陰陽哲学的に「顕陽」は世間追従的で、「顕陰」は異端な日陰者なため、強者と弱者を対応させると以下のようになってくるかのように思える。
もちろん、「強者=陽」「弱者=陰」などとレッテルを張って固定的な思考になるなど、陰陽論的に言語同断である。
決してそうなってはいけないこと前提で話をしていこう。
ただ、そのままの価値観だとどうしても生まれてしまうことなのでは?
これは「内向タイプ」と「外向タイプ」の関係においても言えることで、内向タイプは一見周りより反応や行動が遅れるので駄目なように見えるが、周りがやっていない長所を伸ばすことに適正がある。
だから外向タイプが有利な環境が固定されている場合は、どうしても外向タイプが優勢みたいになりがちだが、環境が変化することまで考えると、一概にそうとは言えない。
学校では全然だめな奴でも、企業に勤めた時に活躍できる場があれば良いし、特定の企業で全然だめでも、別の企業で活躍できれば良いし、企業勤めが向いてなくても、まったく別の手段で生活することに向いていれば良い。
しかしながら、逆に言うと環境がまったく変化しないことを前提にすると、「外向タイプ=強者」「内向タイプ=弱者」で固定されることはあり得てしまう。
例えば、現代日本だと「学校」という場所があまりにも環境変化のない駄目な場所ばかりなため、外向タイプ有利で固定されているとそのままそればっかり・・・みたいなことがどうしても起きてしまうわけである。
強弱のカーストがそれほど激しくない所ならそれなりに過ごせるかもしれないが、カーストが激しい上に無法地帯のように酷い所だと、固定された環境によってかなり嫌なことになってしまう。
「環境が固定されている」「全体的にそうした固定観念が持たれている」を前提にした場合、そうしたことが起こってしまうことを考えなくてはならないのでは?
「ルサンチマン」について
「強者・弱者」の関係が起きた場合、ここで哲学的に強調したいのは「ルサンチマン」という感情が出てくることである。
「ルサンチマン」とは何か?
これは哲学者ニーチェが言った言葉で、簡潔に説明すると、弱者が強者に対して抱く「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった負の感情のことである。
また、そうした状況から弱い自分が「善」で、強い他者は「悪」だとみなしてしまう、転倒した善悪二元論を生み出すものもルサンチマンである。
ニーチェのルサンチマンについては、キリスト教と絡めて考えることもできるし、色々なことが言えそうな哲学であるが・・・
一つの解釈として言えるのは、ルサンチマンは「言語」によって発生する現象であることがその本質にある。
人間は言語を扱うことで他の動物を圧倒することができる特別な動物である。
言語によって自身の知識を他者に残すことができたし、物語を作ってそれに没頭することができたし、宗教を作って力を発揮することができたし、学問を発達させることもできた。
言語によって物語ができて、物語によって強い精神的なパワーを発揮することができたが・・・それには欠点もあった。
言語によって方向性を固定させてパワーを発揮すると、ニーチェが言ったように強者と弱者の間の優劣観念や善悪観念も固定されるし、ルサンチマンによって転倒した善悪観念も出てくるようになる。
こうした言語の力が如実に表れていたのは、西洋だと主にキリスト教だったり、中国だと主に儒教だったりした。
その他、日本だと発達したテレビメディアなどによって優劣が煽られ、現代ではネットメディアやSNSなどによって優劣を煽られたりするわけだが・・・これもつきつめるとすべて言語による作用である。
逆に、言語がない場合はどうなるのか?
言語を持たない動物となると、人間以外のすべての動物がそうなのだが、改めて考えると、動物の世界にだって当然強弱はあるし、むしろ強弱の発生自体は自然なことである。強い動物は主に肉食動物として生きるし、弱い動物は主に草食動物として生きる。さらに肉食動物と草食動物の間にもそれぞれ強弱がある。
しかし、動物の場合は何が良くて何が悪いとかはあまり気にしないで生きているだけである。その自然の生き方に何が正解とかはない。強いライオンが正しいとか熊が正しいとかはなく、強い肉食動物は他の動物を捕まえて食べなければいけないし、草食動物は肉食動物から逃げて生きなければいけない。ただそれぞれの動物がそれぞれのスタンスで生きているだけである。
ルサンチマンのように人間らしい怨念は言語を扱う人間特有のものである。
このように、「言語によって強者と弱者の分断が起きて、優劣が出てきて、優劣から負の感情が生まれる」ことが「強者・弱者」の関係と、ルサンチマン現象の本質である。
ルサンチマンが出てくるほどに言語に囚われた者は、もはや「顕陰」側とは言えない者である。
それを気にする「弱者」は顕陽側の存在か、顕陰側から顕陽側に移行したものである。
つまり、そうなると「強者」と「弱者」は顕陽と顕陰に対応するものではなく、顕陽の中にある二分となる。
「超人」について
人間は言語の影響によって強者か弱者かをつい気にしてしまう生き物である。
ニーチェが生きていた西洋では特にキリスト教が絶望感を作っていた。
キリスト教の神が正しいわけではないし、キリスト教を否定している弱者が正しいわけでもない。強者が善で正しいわけでもないし、弱者が善で正しいわけでもない。そうして全てを疑っていくと何にも価値を感じなくなってしまい、その末にニヒリズム(虚無主義)があることも言っていた。
しかし、ニーチェはその次の道を示していた。
人間はニヒリズムに陥る存在だが、それを克服することができる存在でもあり、劣等感とか強弱観念とかを超越した、純粋な「力への意志」を持つこともできる・・・とニーチェは考えていた。
そしてそれができる者のことを「超人」と呼んだ。
自身が超人になれることに気付いた者はニヒリズムが蔓延する世の中でも前を向いて、大地のように美しく生きることができる・・・と、
有名な著作『ツァラトゥストラかく語りき』にて、ニーチェはそうしたことをアツく書いていた。
ツァラトゥストラは群衆に向かってこう語った。
わたしは諸君に超人を教える。人間は、克服されねばならない何かだ。君たちは人間を克服するために、何をしたか。
そんなニーチェの目指した「超人」は、「強者とか弱者とか関係ねぇ!!!」の方向性であり、これは陰陽哲学だとまさしく「顕陰」の方向性に該当する。
よって、ニーチェの哲学を踏まえると、顕陽と顕陰の間にあるのは「強者」と「弱者」の関係ではなく・・・
以下のような関係になる。
「強者」を目指すか、「超人」を目指すか・・・
これでしっくりくるのではないだろうか?
保守と革新
最後に、「強者と弱者」に絡む話で「保守と革新」について少し書いておこう。
これは「右翼と左翼」というようにも呼ばれる概念であり、18世紀のフランスの政治の会議で、保守・穏健派が議場右側に座り、共和・革新派が議場左側に座って争っていたことあったのに由来する。
右翼と左翼の意味には諸説あるが、分かりやすくいうと「富国強兵を望む保守」と「世界平和を望む革新」みたいな関係がその対立概念にある。
時代が進むにつれて政治の世界も複雑化し、何が右翼で何が左翼なのかの意味も昔と異なってきているが・・・
これもざっくりとした対応だと以下のように当てはまるのではないだろうか?
「革新」はどちらかというと「弱者」側が起こすもので、顕陰側のような立場のものがルサンチマンを抱えて動くこともある仕組みになっているのは分かるだろう。
しかし、「保守と革新」は主に政治において出てくる概念のため、「政治的保守と政治的革新」が中心となる概念である。
そして政治になると「国家繁栄」を考える側にどうしても行かなければならない・・・
そのため、どっちも以下のようになる。
「強者と弱者」の関係と同様に、「保守と革新」も双方が顕陽側に行くような仕組みになっているのが分かるだろうか?
そうなると、政治に参加しない者やアーティストなどが、本来の意味での「革新」に近い立場になるのだろうか?
そもそも「スキゾ」のような顕陰の立場の者が政治家になることは非常に少ないため、それより外部にいる者が「革新」側のものに該当するようになるわけである。
ひっくり返りが起きる
陰陽の本質は「ひっくり返りが起きる」所である。
強者・弱者なんて固定をした物の見方など、陰陽論的に言語同断である。
陽と陰の関係が移り変わるように、強弱の関係も移り変わるし、万物は移り変わっていくものとして陰陽論は捉える。
易経の易は「変化」を表す意味でもあるため、易経における陰陽論の本質もそれである。
しかし、「言語後の世界」で陰陽を捉えているとなかなかそうはならない。
人間はどうしても固定された観念で物事を見たがる性質があり、その原因を探ると言語によって固定されている。
そのためには「言語前の陰陽の世界」も理解しなければならないわけであるし、
それを踏まえつつ「元陽」「元陰」「顕陽」「顕陰」のすべての本質を理解していく必要がある。
そんなことを考えつつ、陰陽についての理解を深めていこう。
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