不定期連載『陰陽哲学基本概要』シリーズ。 記事一覧はこちら。
このシリーズは今回で最後にしようと思う。
深掘りすればまだまだ書きたいことが出ててきそうに思うが・・・
一旦区切って終わりにしておかないとキリがない。
「陰陽哲学」と銘打っているこのシリーズの陰陽論では、哲学的な深掘りもやろうと思えばまだまだできる。
そうするとさらに色んなことを考えることができそうなので・・・
「深掘りするとこんなことも考えることができる」みたいな「今後の展望」を書いていこう。
二項対立と現代思想
哲学的な深掘りをするにあたって注目するべきワードは「現代思想」である。
「現代の西洋哲学≒現代思想」と言って良いようにそれらはほぼ同義である。
そして、現代思想は「二項対立」が重要と言われている。
千葉雅也の書籍『現代思想入門』にそのことが書かれてた。
この書籍もオススメであり、「哲学っぽいことを考えてみたい人」が読むと良いと思う。
ここで言われている「二項対立」とは何なのか?
先の書籍では以下のように説明されている。
まず「二項対立」の意味をネットで調べてみます。「デジタル大辞泉」(小学館)なら標準的な辞書だと言えるでしょう。次のようにあります。
二項対立《dichotomy》 論理学で、二つの概念が矛盾または対立の関係にあること。また、概念をそのように二分すること。内側と外側、男と女、主体と客体、西洋と非西洋など。二分法。
シンプルな定義ですね。「はじめに」で挙げた例は、健康と不健康、安心と不安、自然と文化、などでした。もうちょっと哲学的な例を足すと、能動と受動、必然と偶然、などもそうです。こういう反対の関係になっているペアを二項対立と呼びます。
この説明でも十分かもしれないが、もう少し付け加えておこう。
例えば、西洋はどうしてもキリスト教の影響が大きいため、西洋哲学はキリスト教の存在が前提にあることを意識しないといけない。
キリスト教圏における常識だと、「キリスト教やキリスト教の神を信じる⇒良い / そうでない⇒悪い」みたいな構造がある。
だから、西洋の哲学について考える場合は、上記の文化が西洋圏にあることを頭の片隅に置いておき、それを踏まえる必要がある。
そして、現代日本だと分かりやすい例は何になるのだろうか?
改めて日本の文化について考えてみると・・・「サラリーマンのような会社員になって安定する」とかがメジャーな道徳観として妥当なのではないだろうか?
まるで無宗教国家みたいになっている現代日本だが、だいたい一般的に正しいものをつきつめるとそれになると思う。
・・・というわけで、「サラリーマンのような会社員になって安定する⇒良い / そうならない⇒悪い」みたいな構造で考えていこう。
サラリーマンのような会社員になるのが本当に良いのか? そうでない生き方が良いとも言えるのではないか?
客体的にはサラリーマン的な生き方が正しいが、主体はそうでない生き方を望んでいるのではないか?
現代のサラリーマン的な生き方は西洋的だが、実は非西洋的な生き方のが良いんじゃないか?
サラリーマン的な生き方は健康なのか? それともそうでない生き方のが健康なのか?
サラリーマン的な生き方は受動的で、そうでない生き方のが能動的なんじゃないか? いや、本当にそうなのか?
・・・以上のように「サラリーマンのような会社員になって安定するのが良い」モデルを例に考えてみても、「主体と客体」「西洋と非西洋」「健康と不健康」「能動と受動」と絡めて色んなことが言えるわけである。
そして、こうした二項対立を「なんとかしようとする」のが現代思想ということで・・・
哲学者のデリダは「脱構築」というワードでそれを捉えようとすることを探っていた。
ドゥルーズやフーコーといった哲学者もそれに似たスタンスでやっていた。
とくにドゥルーズは「差異」と「同一性」というワードでそれを捉えようとする方法を探っていた。
ここで主題となる「脱構築」とは何なのか?
先の書籍では以下のように書かれている。
本書ではドゥルーズとフーコーにも「脱構築的な考え方がある」というふうに解釈することにします。
脱構築とはどういうものかは第一章で説明しますが、ここで簡単に言っておくなら、物事を「二項対立」、つまり「二つの概念の対立」によって捉えて、良し悪しを言おうとするのをいったん留保するということです。
とにかく我々は物事を対立で捉えざるをえません。善と悪、安心と不安、健康と不健康、本質的なものと非本質的なもの(どうでもいいもの)……などなど。私たちが何かを決めるときは、何か二項対立を当てはめ、その「良い」方を選ぼうとするものです。
つまり、良し悪しを言おうとするのをいったん留保することがデリダの提唱した「脱構築」であり、ドゥルーズやフーコーにもそうした脱構築的な考え方があるとのことである。
このように「善悪に分けない」発想は、老荘思想や禅にもあるため、東洋思想にも通じていることである。『陰陽哲学基本概要』で説明した「顕陰」がその発想に近い所にある概念であることを理解できるだろうか?
それから、こうした哲学は二項対立を構造的に明らかにしていくことをやっていくため、そこに関しても陰陽哲学と繋がってきそうである。
デリダやドゥルーズやフーコーなどの現代思想は、もちろん西洋哲学なので難しい所もいっぱいあるのだが・・・
先の本は割と分かりやすく解説されているので、それを読んで陰陽哲学と絡めつつ現代思想を理解することを「今後の展望」としよう。
やはり、陰陽論を哲学的に理解しておくと、本格的な哲学や現代思想をやるにおいても役に立つと思う。
哲学にあるさまざまな二項対立
「二項対立」をなんとかするためのワードということで、デリダの「脱構築」やドゥルーズの「差異」がある。
そうなると、「脱構築する / しない」とか「差異を見出す / 見出さない(同一性)」みたいな新たな二項対立も出てくることになる。
だから「四項対立」とか「四元論」が大事みたいな話になるのだろうか?
そう。つきつめると「4」をベースにした構造で捉えるべき問題になってくる。
他にも、哲学が絡んだ二項対立は以下のように色んなものがある。
- 唯物論 / 反唯物論
- 意識 / 無意識
- 客観 / 主観
- 他者 / 自己
- 時間 / 持続(durée)
- 二元 / 非二元(ノンデュアリティ)
フッサールやハイデガーやベルクソンなどの哲学者・・・
フロイトやユングやラカンなどの精神分析家・・・
他にもスピリチュアルで言われているようなことや、ヌーソロジーで言われているようなことを学ぶと上記のワードがテーマになってくる。
これらの二項は陰陽論だと、どっちが陽でどっちが陰になるだろうか?
『陰陽哲学基本概要』で出てきた「元陽」「元陰」「顕陽」「顕陰」の4つの概念を踏まえるとどうなるのか?
そうした概念の整理をしながら理解していくと良いと思う。
ドゥルーズ=ガタリによる三段階の機械構造
さて、『君たちはどう生きるか?』の項にて、以下の図を出した。
これはざっくりとしたことを説明するために急に出した図だが、実はこれを深掘りするとかなり色んなことが言える。非常に奥が深い構造が書かれている図である。
この構造のヒントになったのは、ドゥルーズ=ガタリ(ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリの二人)が出した書籍『アンチオイディプス』の中に出てくる「原始土地機械」と「専制君主機械」と「資本主義機械」という三つの概念である。
簡単に説明すると、「原始土地機械」は人間の社会が原始的な状態である「自然を生きる段階」の中にあるシステムであり、「専制君主機械」は人間の社会に国王や君主のようなものが登場した「国家を生きる段階」の中にあるシステムであり、「資本主義機械」は人間の社会に資本主義や民主主義が浸透するようになった「資本主義・民主主義を生きる段階」の中にあるシステムである。
- 自然を生きる段階 ⇒ 原始土地機械
- 国家を生きる段階 ⇒ 専制君主機械
- 資本主義・民主主義を生きる段階 ⇒ 資本主義機械
こうした三段階の機械構造からなる理論を「三段階構造論」として扱っていこう。
三段階構造論にあるそれぞれの段階においては、「どういう人が強者のようになったり権威を持つようになるか」が異なってくる。
加えて、そのことによってそれぞれの段階における陰陽や二項対立の在り方も異なってくるため、三段階構造論を深掘りするとかなり色んなことを考えることができるわけである。
ざっくりとした説明だが、それぞれ「三つ機械」がある三段階構造についてイメージできるだろうか?
それぞれの時代にある哲学
引き続き、先ほどの三段階構造論の話の続きである。
人間の歴史は、ざっくりと「自然を生きる段階」と「国家を生きる段階」と「資本主義・民主主義を生きる段階」の変遷を経て発展しているわけだが・・・
哲学もまた、それぞれの時代に適したものが発展しているため・・・
それぞれの段階における哲学というものが存在する。
そのことについて考えていこう。
自然を生きる段階の哲学
まずは原始的な「自然を生きる段階の哲学」である。
この段階は徐々に「自然を生きる段階⇒国家を生きる段階」へと変遷していくため、そのために必要な哲学だとも言える。
大体、ソクラテスやプラトンやアリストテレスの哲学と、
孔子や老子の思想と、釈迦が創始した仏教も、人間らしい思考が生まれた原始に近い辺りの哲学だと言えるだろう。
それぞれの人物が存在した時期は西暦基準だと、釈迦が紀元前500年ぐらい。孔子も紀元前500年ぐらい。ソクラテスが紀元前400年ぐらい。
ソクラテスの弟子がプラトンであり、さらにプラトンの弟子がアリストテレスである。
この辺りはただ原始的に生きていただけの人間から「知性」を重視する者が出てきた・・・みたいな状況である。
大昔のギリシャやインドや中国の人達といったら・・・祈祷みたいなことをやってて当たり前だし、魔術や呪術みたいなものがあって当たり前だし、信心深くて当たり前だし、なんなら神様と共に生きていたような感覚もあったのではないだろうか?
そうした始まりの時代に知性を持った人達が考えてできたものがこの段階の哲学である。
人間の文明はこれから「国家を生きること」がテーマになっていくように進んでいくが・・・ただやみくもに支配者が国を治めて民衆がそれに従って生きるだけの世界で本当に良いのだろうか・・・?
平和に生きるために「国家の在り方」を考える哲学者もいたし、それとは違う人間離れした発想で哲学を考える者もいた。
西洋哲学の発端といったら古代ギリシャであり、紀元前の大昔からすでに信じられないレベルで優れた哲学が生まれていた。
一方で、インドの方では釈迦が当時の荒れていたインドをなんとかするべく、仏教の発端となる哲学を説いていた。
さらにその一方で、中国でも様々な思想家や哲学者がいて、孔子や老子などが有名な人物として残っていた。
これらの哲学は大昔のものとはいえ、今でも通じる「不変なもの」を説いていたりするし・・・
そもそも人間離れしているような大昔の文化が残っている時代に作られているため、古代の哲学はその異端性が重要なこともある。
国家を生きる段階の哲学
次に「国家を生きる段階の哲学」である。
この段階は徐々に「国家を生きる段階⇒資本主義・民主主義を生きる段階」へと変遷していくため、そのために必要な哲学だとも言える。
人類は長いこと「国家を生きること」に専念していけばそれで良い・・・かのように生きていた時代があったが・・・
やはりどうしても理不尽なことがあって行きづまってきたし、だんだんと新しいものが出てきてそうもいかなくなってきた。
西洋でそうした革命が起きてからの時代は「近代」と言われている。
その発端があったのは17世紀であり、デカルトやニュートンが出てきたあたりからである。
ニュートンの作った古典物理学が科学の発端となり、その理論によって産業革命が起きて、世界中が激変していくようになる。
今でこそ現代人は当たり前のように電気や石油を使って便利な生活しているが、それは産業革命によって徐々に確立されていった生活であり、そうした産業が発展していったのが近代である。
そして、この時期はデカルト、ヒューム、カントあたりの三名の哲学者が重要なので、そこに焦点を当てよう。
まず、デカルトがつきつめた哲学は非常に合理的であり、座標のように記述できる空間認識の仕方を世界に対して提示した。
それから、人間が持つ精神と肉体を区別して二元論的に捉えるようなことをした。
人間の精神は魂のように肉体とは別にあるものであり、精神は肉体に宿っているものであり、世界の中に人間の肉体があり、肉体で世界を見ることで人間は世界を認識し、世界や肉体は物質でできているとした。
今ではまるで当たり前のように分かりやすい捉え方だが、当時は全く新しい世界認識の在り方だった。
デカルトのこうした世界の認識の仕方は「合理論」のようなものである。
その一方で「経験論」のようなものが出てきた。
座標のように記述できる空間に世界があるのではなく、人間が経験しているものの中に世界があるとする考え方が出てきた。
あるいは、世界は座標のように絶対的に存在するものではなく、人間がそれぞれ持つ経験によってその認識の仕方が異なるものだと捉える哲学が出てきた。
経験論をつきつめた哲学者は何人かいるが、ヒュームがその代表のように活躍していた。
さらにカントは、デカルトの考え方に納得していたが、ヒュームの考え方にも納得していた。
どっちも正しいように思えるため、どうしたら良いだろうか・・・と考えたため、「合理論」と「経験論」を統合するような哲学を作り出していった。
そんなわけで・・・
「合理論のデカルト→経験論のヒューム→それらを統合するようなことをやったカント」みたいな流れがこの時期の哲学にはあるので、それを覚えておくと良いと思う。
さて、さらにニーチェについても少し言及しておこう。
ニーチェがいたのは1844年~1900年だから19世紀の人物である。
現代より前だけど近代のはじめよりは後ぐらいなため、どっちにつけるかは微妙な時期だが・・・
とはいえ、近代らしい哲学者でもある。
「神は死んだ。」という有名な格言もまさしく近代ならではの格言であり、「国家を生きる」の段階にあった従来の価値観が崩壊していく中で、「超人」として生きることを主張していたわけである。
他にも、『社会契約論』で人民主権を重視したジャン=ジャック・ルソーや・・・
『資本論』で共産主義者に支持されるようになったカール・マルクスなど・・・
たくさんの哲学者達が活躍していたことは言うまでもないが・・・
詳細を追うとキリがないため、一旦はこれらの人物について言及しておくことに留めておこう。
資本主義・民主主義を生きる段階の哲学
最後に「資本主義・民主主義を生きる段階の哲学」である。
この段階にある哲学は徐々に「資本主義・民主主義を生きる段階⇒その次の段階?」へと変遷していくための哲学だと言えるだろう。
さらにその次の段階があるとしたら何になるのかが謎なため、現在進行形で考えるべき哲学である。
ここに出てくる哲学者で代表的な人物を挙げるなら・・・
まず、千葉雅也の書籍『現代思想入門』で出てくるデリダ、フーコー、ドゥルーズ。
それから、ヌーソロジーでよく出てくる哲学者(それと精神分析家)だとベルクソン、ハイデガー、ラカン、ドゥルーズである。
このあたりの人物をピックアップしていきたい。
この中だと年代的にはベルクソンが一番古い。
ハイデガーは第二次世界大戦付近にナチスと絡んでいたぐらい最近の人物である。
ラカンはそれよりもう少し若いが、1920年代にあったシュルレアリスム運動に若いころ傾倒していた。
ドゥルーズ、デリダ、フーコーの3人あたりは割と年齢が近く、生まれた時期は最近と言えば最近で、一番年上のドゥルーズが1925年である。(1922年の水木しげるより若い!)
そのため、1960年代あたりからは彼らが活躍していた時期になるし、1970年代や1980年代はさらにその哲学が流行するようになる。
1986年に浅田彰の書籍『逃走論―スキゾ・キッズの冒険』が登場したのはドゥルーズの哲学に影響されてのことなため、このあたりの哲学は割と最近の話である。
そんな代表的な人物達が活躍しているのが「現代思想」であり、それが「資本主義・民主主義を生きる段階の哲学」に該当するわけである。
さて、こうした現代思想で必ず出てくるキーワードが「ポストモダン」である。
その大体の意味は「近代の後」であり、別称は「脱近代主義」である。
これは20世紀中頃から後半にかけてにあったとされるため、1960年代や1990年代でよく使われていたワードであり、今でも使われることがある。
そもそも、「近代」はいつ頃なのか?については捉え方によって微妙に異なるため諸説あるが・・・大まかには17世紀から19世紀あたりであり、20世紀も近代的な価値観で進んでいた面が大きい。
三段階構造の中だと「国家を生きる」⇒「民主主義・資本主義で生きる」への移行期が「近代」であり、デカルトから始まったものがそれに該当するわけである。
そして、さらにそうした「近代」を脱する時期にあるものがポストモダンである。
書籍『現代思想入門』では「ポストモダンの段階」について以下の説明がされている。
資本主義が発展していくなかで、価値観が多様化し、共通の理想が失われたのではないか、というのがポストモダンの段階です。このことを、「大きな物語」が失われた、と表現します(この「大きな物語」という概念はジャン゠フランソワ・リオタールというやはりポスト構造主義の哲学者によるものです)。
まず、「近代」は科学や民主主義が始まってどんどん発展していった時代に該当する。そうした時代には「これから世の中がどんどん発展することで豊かになるんだ。」という前向きな価値観が「大きな物語」のように機能し、それが共通の価値観になる。
しかし、そうした発展の限界が来たり価値観が多様化したりしていった時・・・我々はどうなっていくのか?
「大きな物語」のような共通の価値観の崩壊・・・それが「ポストモダン」というワードが表す状況であり、それについて考えるのが「ポストモダニスト」である。
ドゥルーズ、デリダ、フーコーの三名も、その界隈の評論において「ポストモダニストの哲学者」として挙げられている人物なため、哲学や現代思想を学ぶ場合はそれを踏まえておこう。
「資本主義・民主主義を生きる段階の哲学」が大体どんなものか分かっただろうか?
・・・以上。
三段階構造論にある三つの段階とそれに紐づく哲学者達をまとめると、以下のようになる。
もちろん、上記の他にも歴史上で活躍した哲学者はたくさんいるので、色んな哲学者を追おうとすると大変かもしれないが・・・
こうした三段階構造の全体像を見ながら哲学を理解すると、哲学がやりやすくなるのではないだろうか?
ヌーソロジーで読み解く陰陽論、陰陽論で読み解くヌーソロジー
最後に、この『陰陽哲学基本概要』で絡んでくるヌーソロジーの話についてである。
『陰陽哲学基本概要』シリーズの中でもヌーソロジーについてちょくちょく触れていたが・・・
ヌーソロジーの概念と陰陽が絡んでくる所を改めて書いておこう。
実数と虚数
ヌーソロジーでは「実数」と「虚数」を扱う。
そして、それらはもちろん陰陽と関係していて、実数が陽で虚数が陰である。
実数が「顕陽」で虚数が「顕陰」に該当することは『陽と陰の象徴的シンボルとイメージ』の項で自分が以前に書いたことであり、「実数イメージと虚数イメージ」みたいなものも作っている。
さらに、ヌーソロジーでは「虚軸」は「奥行き」であり、「実軸」は「幅」であるとするため・・・
「虚数」と「実数」がそれぞれ「奥行き」と「幅」の二つの概念と絡んでくる。
また、この構造が「オイラーの公式」に表れているものだとする。
「オイラ―の公式」は素粒子の構造の基礎にもなっているため・・・
さらに素粒子の構造にそうした精神構造が表れているみたいな話にも繋がる。
素粒子や量子力学の話まで行くと難しいかもしれないが・・・
「オイラーの公式」との関係についてはざっくりと覚えておこう。
定質と性質
それから、ヌーソロジーにある『定質』と『性質』という概念と
『反定質』と『反性質』という概念についてである。
これについては『陰陽の先にあるものとヌーソロジー』の項でも少し説明した。
以上のように、「元陽≒定質」「元陰≒性質」「顕陽≒反定質」「顕陰≒反性質」でニアリーイコールのように近似した概念だと捉えると、とても整合性が取れる。
陰陽論の概念とヌーソロジーの概念はそれぞれ別の宇宙論から出てきたものなため、正確なイコールになるのかどうかは難しいが・・・
考えれば考えるほど、この二つは近似した意味としてイメージすると双方の理解が深まるものになっていると思う。
『定質』『性質』『反定質』『反性質』の4つの概念は、書籍『シリウス革命』にある『タカヒマラ・テンプレート』と呼ばれるモデルでも出てくるので、それだと以下の図のようになる。
このように、『陰陽哲学』の上記の概念とそれぞれを絡めていくと、『定質』『性質』『反定質』『反性質』の4つがイメージがしやすくなると思う。
等化と中和
次に、『等化』と『中和』についてである。
この二つもまた陰陽論と絡めて考えることができそうなものなのが分かるだろうか?
『等化』と『中和』については以前にこのブログで詳しく説明したことがある。
上記の記事でも「弁証法」や「陰陽論」が出てくるため、哲学や二項対立の問題とも絡んでくる概念なのが分かるだろう。
しかしながら、この二つのうち『等化』の意味を理解することがとにかく難しい・・・
『等化』という概念は二項対立の問題へのヌーソロジーにおける「答え」のようなものであり・・・
冥王星のオコツトが提示した明確な回答でもあるのだが・・・だからこそ難しいような概念である。
『等化』はユング心理学や陰陽論の概念だと「統合」に近いっちゃ近いのだが・・・
それよりももっとキッチリしたナニカであり、「対称性を見出す作用」のように説明されている。
二項対立の問題は陰陽の「統合」でも解決できそうなのだが、それだとまだフワっとしているため、もっと数学的にキッチリやりながら「高次元」を正確に捉えていく必要がある・・・と冥王星のオコツトがこのワードを提示したように思う。
ヌーソロジー的な二項対立問題の解決法を理解するためにも、この概念を真剣に理解する必要がある。
ケイブコンパス
最後に、『ケイブコンパス』についてである。
まず、「三段階構造論」で出てきた「原始土地機械」と「専制君主機械」と「資本主義機械」は、『ケイブコンパス』だと以下のように対応している。
そのため、『ケイブコンパス』をベースにその理解を深めることもできるわけである。
また、『ケイブコンパス』にあるそれぞれの段階に説明を加えると、以下のようになる。
ψ11~ψ12あたりについては以下で詳しく説明している。
以上の『ケイブコンパス』にある階層構造の中にも、それぞれの階層にはそれぞれの陰陽があり、それぞれの哲学があるわけである。
そうしたことを理解しつつ、その深掘りを色々やっていくと面白いと思う。
これも「今後の展望」ということで終わりにしよう。
おわりに
以上。『陰陽哲学基本概要』シリーズはこれにて終了!とします。
とにかく長くなってしまいました・・・
全部読んだ人もお疲れ様、って感じの量だと思います。
そもそも、易経や陰陽論については以下の考察から始めていました。
ヌーソロジーと陰陽論は、実は相性が良いようで相性が悪い問題があり・・・整合性がとれるように絡めていくには従来の陰陽の概念を整理する必要がありました。
それから、ヌーソロジーの構造を踏まえつつの陰陽の構造を整理していったら・・・
「元陽」「元陰」「顕陽」「顕陰」の4つの概念を定義することで、以下のように綺麗にまとめることができると分かりました。
これが分かってから色々と分かってきた気がしたし、その構造と紐づけると色んなことが言えるような気がしました。
書きたい内容がすぐに思いつき、『君たちはどう生きるか』までの内容は割と最初の頃から書きたいテーマとして構想が出てきました。
「パラノ・スキゾ」「外向・内向」「強者・弱者」などはサラっとやりたかったですが、そうもいかなかったのでそれぞれ記事一つ分のボリュームになりました。
「孔子」と「老子」の辺りも「孔子は陽側で、老子は陰側なんですよ。」と、もっとササっと説明したかったですが、ちゃんと説明しなければならないテーマなのでめちゃくちゃ長くなってしまいました。
『陰陽哲学』ということで最後に哲学らしく現代思想の話をしていきました。もともとはこのように陰陽論と西洋哲学を繋げていくことを目的としたテキストでもあり、その「基礎」や「基本概要」を扱って終わりにするつもりだったのですが・・・
その割にはとてつもなく長くなってしまったし、やっとそこまで行った気分になりました。
『変換人型ゲシュタルト論』を書いている時もそうなんですが、2020年のコロナ過以降はテレワークが可能になったおかげで時間ができて、個人的にちょっと助かる展開になりました。
時間ができたら少しずつ書き進めていく日々・・・
テキストを書くことに関してはずっと試行錯誤の独学で、理解しやすい文章作りを意識して頑張って書いていますが、このシリーズは分かりやすかったでしょうか?
そもそもの内容が難しいことに関しては仕方がないと思うので・・・
それに対してベストな説明ができたならむしろ満足です。
自分が一番時間をかけてやっている専門はヌーソロジーなので、脱線して色々やってても結局はヌーソロジーの話に行き着いてしまう・・・
だから、結局はヌーソロジーの話をしていきたいですが、いきなりヌーソロジーの話をしたりするのは難しすぎる・・・
陰陽論はそれよりも一般向けということで、一般人にも通じやすいんじゃないでしょうか?
そんな感じのことを今後もやっていきたいです。